ブログ 沼浜城1
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鎌倉幕府初代将軍の頼朝には源義朝という父がいました・・・その鎌倉の居館は現在の寿福寺でありますが、逗子にも沼浜城(ぬはまじょう)といわれた義朝の居館がありました・・・沼浜亭、沼浜館ともいわれるこの屋敷ですが・・・
研究の結果、現在の法勝寺という寺の辺りにあったのではないかという事が分かっています・・・

沼浜とは現在の沼間の基となった地名で、その歴史は古く奈良、平安時代の頃には沼浜郷として鎌倉七郷の一つに数えられています・・・
文献上の初見は749年【東大寺正倉院御物】の調布に『相模国鎌倉郡沼浜郷戸主大伴部広麻呂』とあるそうです・・・
広麻呂さんは布一反を進納した様です(笑)

戦国期には沼間郷と呼称されていた様です・・・
昔は海岸線がもっと内地まで入り込んでいましたので、現在の沼間は湿地帯の様な感じだったのではないでしょうか?沼浜という地名も何かそれを想像させます・・・

また近世までは田越川を遡って沼間まで船が来ていた様です・・・鎌倉から房総方面へ船で行く場合、三浦半島をグルッと廻っていくよりは、田越川を行ける所まで遡って、後は陸送で半島を縦断した方が早かった様で、沼間と隣町の横須賀市船越町を繋ぐ道は陸送される船の往来が多かったようです・・・
船越町の名の由来は諸説ありますが、自分的にはこれが一番しっくりきます!

この沼浜の館は【吾妻鏡】にも出てきます!
建仁2年(1202)2月29日 甲辰
故大僕卿沼濱の御旧宅を鎌倉に壊し渡し栄西律師の亀谷寺に寄付せらる。行光これを奉行す。この事、当寺建立の最初その沙汰有りと雖も、僕卿彼の御記念として、幕下将軍殊にその破壊を修復せらる。暫く顛倒の儀有るべからざるの由定めらるるの処、僕卿尼御台所の御夢中に入り示されて云く、吾常に
沼濱亭に在り。而るに海辺漁を極む。
これを壊し寺中に建立せしめ、六楽を得んと欲すと。御夢覚めるの後、善信をしてこれを記さしめ給い、栄西に遣わさると。大官令云く、六楽は六根楽かと。

故大僕卿とは義朝の事です・・・北条政子の夢枕に立った時の話ですね・・・
魂となって沼浜亭にいるが、浜が近く漁師が魚を取り殺生するので館を寺へ移して六根清浄を得たい・・・
みたいな事を義朝が言ったんですかね・・・この夢の後に沼浜亭は寿福寺に移築されました・・・
解体された築材は恐らく田越川から海へ出て鎌倉へ入り、滑川を遡上して行ったんではないでしょうか?
何にしても元の住処に戻れて義朝も成仏できたんではないでしょうかねぇ?

『海辺漁を極む』・・・ともいってますから当時は法勝寺の辺りまで浜が迫っていた事の裏付けにもなる記録かと・・・

義朝は三浦大介義明の娘(または遊女とも言われてますが)との間に義平という長男を儲けています・・・
悪源太義平です・・・とか言われると何だかイメージ悪いですが、この時代のとは強いという意味です!
源太は源氏の長男って意味ですから、源氏の強い長男って事ですね・・・
叔父の義賢(木曾義仲の父)を大蔵合戦で攻め滅ぼしてからこの名がついたといわれています・・・

長男ですから本来家督を継ぐべき人物ですが、母の身分が低かった為に、おぼっちゃんの頼朝が継ぐ事になったわけです・・・義朝が京へ行ってからはこの義平が沼浜城に居した様ですね・・・
平治の乱(1159)に向かう際もココから出発しています・・・当時19歳・・・この戦いに敗れた後に六条河原で斬首・・・
布引滝惡源太義平霊討難波次郎
新形三十六怪撰
布引滝惡源太義平霊討難波次郎(月岡芳年)
最期の六条河原でのやり取りを少し紹介!
【平治物語 悪源太誅せらるる事】

・・・中略・・・
やがて、難波三郎経房に仰せて六条河原にて誅されましたが、敷皮の上に居住まいを正して、少しも臆せず申されるには、

『敵ながら、義平程の者を、白昼に河原にて斬られる事こそ遺恨なれ・・・去る保元の乱には、多くの源平の兵どもが誅されたが、昼は西山、東山の片ほとりにて斬り、たまたま河原で斬られる者も、夜に入って斬られたではないか!
弓矢取る身の習いとして、今日は他人の身の上、明日は我が身と申すに、平家の奴等は上も下も情けを知らず、物の道理を知らぬ者ばかりではないか・・・
昨年、清盛が熊野詣での際に路上に馳せ向かい討とうと申したのに、騙して都へおびき寄せ、一度に亡ぼそうなどと、臆病者の信頼が申した為に、今日かかる恥を見る事となったのは、誠に口惜しい!
あの時、清盛一行を泉州の湯浅か藤代の辺に取り込めて討つか、阿倍野あたりに待ち伏せて討ち取るべきであった・・・』


『その愚痴が最後の言葉か』、と経房がいうと、
『良くぞ申した、今から申しても始まらぬ愚痴よ・・・貴様はこの義平の首を討つ程の者か?
晴れ舞台だぞ!、上手く斬れ!・・・下手に斬ったら貴様のしゃっ首に食い付くぞ!』
義平が返す・・・

『何とバカな物言いか・・・私の手に懸かった首が、どーやって頬に喰らい付く事ができようか?』
といえば、

『今すぐ喰らい付こうというのではない、いつか必ず雷となり、貴様を蹴り殺してやる!』と返し、殊更に首を高らかに差し上げたので経房が太刀を抜き後ろに回ると、
『しっかり斬れよ!』義平が振り返り睨んだ眼差しは、本当に普通の人間には見えませんでした・・・

【清盛出家の事並に滝詣 附たり悪源太雷と成る事】

仁安2年(1167)11月、清盛が病に犯されて、御歳51にして出家して法名を淨海としました・・・
出家した故か、病は次第に良くなり、翌年の夏頃には一門の人々が其々に回復祝いをしました!

同じく7月7日、摂津の国、布引の滝を見ようと、清盛をはじめ平家の者達が下られる中、難波三郎経房だけは夢見が悪かったなどと申して御供をしません!
『弓矢を取る身が、何故夢見や物忌みなどと申して、そんなに脅えるのか?』・・・と、笑われ経房も、それもそーかと思って結局一緒に下りました・・・道すがら昨夜の夢もすっかり忘れ、皆と四方山話に興じておりました・・・

ところが皆が滝を眺めていると、一天俄かに掻き曇り、おびただしく雷鳴が轟いたのです!
人々が興醒めする所に、経房がいうには、

『私が恐れたのは、まさにコレだ!先年、悪源太義平が『終には、雷となって蹴り殺さんぞ!』と最期に言って、私を睨んだ眼が頭から離れず困っていたのだが、昨夜あの義平が雷になった夢を見た!
たった今、手毬くらいの大きさの物が、辰巳(東南)の方から飛んで来たのを皆は見なかったのか?
それこそ義平の霊魂に違いない!・・・きっと返り様に、この三郎に掛かって来るだろう!
太刀を抜いておくべきだろうか?』


と言い終らぬ内に、雷がおびただしく轟き、三郎の頭上を黒雲が覆い、雷に打たれた三郎は微塵に砕けて死んでしまいました・・・
経房が死に際に抜いた太刀は、鍔元まで反り返っていましたが、供養の為に寺の建立の釘に寄付されました・・・
本当に、恐ろしいなどと申すのも愚かな事です・・・清盛入道でさえ、御守の弘法大師のお書きになった物を首に掛けながら、恐ろしさの余りにずっとうち震えていました・・・
大師の御守の御蔭でしょうか、雷が清盛入道に近付いて来る様に見えましたが、終には空へ上ったのです・・・

義平は13歳の時に鎌倉へ下り、昨年19歳にて都に上り、良き思い出もなくして永暦元年正月25日に、終いに空しくなったのです。

てな感じです・・・経房は微塵に砕けて死んだ様です・・・ホントに雷になるなんて義平凄ぇなぁ・・・
【平治物語】の義平はカッコイイので一読される事をお勧めします・・・分かりやすい現代語訳本も出ていますので・・・

さて、話を戻しまして、勢力拡大を図る三浦氏にとっても沼浜の館は重要なパイプラインだったのではないでしょうか?
沼間という土地は調べてみると結構奥が深いです・・・ 
沼浜城2 沼浜城3
さてさて現場の法勝寺です山号は沼間山・・・まずはこの寺についてザックリと説明を・・・
え~・・・ウチの一族の菩提寺であります(笑)・・・分家である自分は別の寺に帰依しておりますが、親戚の墓は法勝寺に密集しています・・・小さい頃から今に至るまで、法要等でちょくちょく足を運んでいますので自分にとっては非常に馴染み深い寺であります・・・
本堂と庫裡だけの小さなお寺ですが、三方を山に囲まれた静かな佇まいに落ち着きを感じさせます・・・
いつ来ても変わらないなぁ・・・
十年一日と言っても変化がなければ場は澱む・・・変化を感じさせない変化の努力には敬服します・・・
沼浜城4 ココの境内には幼稚園も併設されていて、実は自分は卒業生だったりします・・・馴染み深過ぎですね(笑)

その名もかぐのみ幼稚園・・・当時は頼朝の父ちゃんの館があった事など知る由もなく、ひたすらお遊戯に励んでおりました・・・何か園舎が綺麗になってるなぁ・・・
しかしよくこんな狭い園庭で運動会なんか出来たもんだ・・・とこの年になって感心してしまいました・・・
人間って大きくなるんだなぁ・・・
沼浜城5 この飛行機の遊具も現役です・・・自分が通っていた時にはちゃんと操縦桿も付いていたと思いますが・・・
奪い合いで喧嘩になった事もあります・・・
翼の部分にぶら下がってよく遊びましたが、今となってはお尻が地面に着いてしまいますよ・・・

何にせよ後輩達がいまだにコレで遊んでいるという事実は嬉しい限りです!
忘れましたが名前もあった様な・・・
沼浜城6 しかし、このデザイン・・・時代を感じさせます・・・よく言えばレトロ、悪く言えばダサイ(笑)

階段の下にはイチョウの木があります・・・当時はロープがぶら下がっていて、皆でターザンをしました・・・
今やったら枝折れちゃうだろうなぁ・・・
階段を降りてみます・・・途中右側、ちょうど園舎の縁の下部分・・・ありました!
通称ダンゴ基地!・・・現役なのかな?
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ココで土をコネコネして泥団子を作って、一晩寝かせて乾燥した物を階段上部から転がして強度を競い合うんです!
強者は下まで転がっても壊れません・・・
結構職人技なんですよ・・・雑に作った物はあっという間に割れて粉々になってしまいます・・・
一晩寝かせた物をもう一度水に浸け、更に表面を滑らかに整えてからもう一晩寝かせる・・・みたいな研鑚の日々を送っていました・・・懐かしいなぁ・・・今の世の中じゃ衛生上親がうるさいでしょうね・・・

後ろを振り返ると黒いヤギが一心不乱にキャベツを食べていました・・・必死だなぁこいつ・・・
何だか自分の幼稚園紹介みたいになってしまいましたが、法勝寺の説明を続けましょう!

永仁2年(1294)、日朗の弟子である日範(にちばん)が寺を訪れた際、法論に勝って天台宗を日蓮宗に変えた寺であると伝わります・・・日範上人は120年以上生きたと言われてますがホントなんでしょうか?

寺の縁起には、聖武天皇の時代この地の守護に長尾左京大夫善応という人物がいて、東大寺勧進で諸国を巡っていた行基がココを通りかかった時に、大沼に住み悪行を働く七頭の大蛇を何とかして欲しいと頼んだんだそうです・・・
行基は十一面観音を彫り、小舟に乗って大蛇に近づき諭した所、大蛇は改心し、以後は万民を救う神となると誓ったそうです・・・
この十一面観音を祀ったのが長尾善応寺大蛇を祀ったのが七諏訪神社です・・・
しかし寺も時代と供に廃れ十一面観音も失われたそうです・・・

寛仁年中(1017-1021)時の領主の娘が悪瘡を病み、明日をも知れぬ状態を悲しんだ両親が諏訪大明神に祈ると、夢に大明神が顕われお告げがありました・・・お告げに従い十一面観音を探しだし、池の水を汲み七日間不眠の祈りを込めた後に娘の顔に掛けると、娘の病は治ったという・・・
喜んだ両親はこの十一面観音を祀って小池ヶ入の辺に子生山感応寺を建立した・・・

その後、正覚坊という僧が寺を葡萄屋敷(現在地)に移して正覚寺とした・・・

寛文年中(1661-1673)に葉山某氏が悪瘡を病み、巌に籠って法華経を唱えていたら光と共に十一面観音が出現・・・
病の癒えた氏はこの十一面観音を法勝寺に納めたらしい・・・

という内容が記されている様です・・・
【法勝寺縁起】の原文は【逗子市文化財調査報告書第二集 沼間 池子】のP55~57に掲載されています!

行基・・・出てきてしまいましたねぇ・・・古い物は取り敢えず行基にしとこうみたいな(笑)

長尾、膳応という小字はどうやら現在のグリーンヒルのず~と山奥の方みたいです・・・そこに寺があったんですね・・・
小池ヶ入は逗子インターの辺りです・・・そして葡萄屋敷へ・・・
善応寺-感応寺-正覚寺-法勝寺と名前を変えながら少しずつ西に移動して来てますね・・・
今後はドコにいくんでしょうか?

行基作といわれる十一面観音は中々にドラマがありますね・・・キーワードは紛失、発見、悪瘡・・・

七諏訪神社ですが、現在自分が確認出来るのは一社だけです・・・東逗子駅踏切の道を北へ向かい、坂途中トンネル手前の駐車場の奥に鎮座しています・・・神社といっても極小さな物です、個人の稲荷だとばかり思っていました・・・
元は道の反対側にあった様です・・・
他の諏訪社は宅地造成で無くなったか、山中に埋もれているのではないでしょうか?
史料に当時の写真と小字が掲載されているので探してみるのも面白いかもしれませんね・・・

法勝寺の歴史はこれ位にして・・・【逗子町誌】に沼濱城趾という項目があります・・・

法勝寺の北『お林』と称する山あり、其中腹一段歩余を切開き平地となす。これ其城趾の一部にして本城は今の法勝寺境内なるべし、今其城下一帯の名を葡萄屋敷(武道屋敷の轉化なるべし)乃番場、馬場と云ふ此平地に立つ時は、其面前小高き處に沼間の鎮守五霊社あり、尚裏山鬼門に當る薹山(台藪、殿藪とも云ふ)に稲荷社を勧請しまえは葡萄屋敷を隔て、矢ノ根川に臨み要害堅固の居城なり。

また、五霊社は源家に由緒ある武勇の誉れ鎌倉権五郎景政を祀った物であろうし、矢の根川の名は武器である矢の根を鍛える鍛冶職人達が住んだ事にちなむ・・・桐ヶ谷氏邸内にある先祖やぐらから刀が二振見つかった・・・
この様な事を総合して、ココを義朝沼濱城の舊宅と考える・・・とも記しています・・・

法勝寺の境内が跡地だと言っていますが、法勝寺西側に堀之内(前出の桐ヶ谷氏のお宅)という地名があり、そこから神武寺方面へと階段状に平場が連続しているのが発見された事などから、ココが跡地であるという説が現在有力な様です・・・桐ヶ谷氏宅の調査報告書は、先祖やぐらなども含め細かく説明されています・・・

確かに寺の周りには武家の屋敷があったであろう事を匂わせる物があります・・・
橋名・・・矢の根橋、馬場橋、武道橋、門前橋・・・何か武家屋敷っぽさを醸し出してます・・・
沼浜城9 左上の写真は馬場橋から北側を撮った物です・・・
赤丸の部分が桐ヶ谷氏宅、堀之内と呼ばれている所でありす・・・
実際に見てみると、堀の様な川に囲まれてまさに堀之内ですね!
氏宅には今も堀に沿って築かれた土塁の一部が残っているとの事・・・堀に囲まれ後ろは山を背負っています・・・
これは攻めあぐねそうです・・・
戦車が1台欲しい所であります!
何百年も前の物が形を変えつつも本質を残し往時を偲ばせる・・・ココにもロマンがありましたねぇ・・・
ココに間違いない!と勝手に納得(笑)
行基の話が出てきた時は沼浜城も所詮は伝説なのか・・・と、脱力しかけましたが、史料に加え物的証拠となる遺構まで見せられると好奇心が煽られます・・・Googleマップでも確認しましょう!

より大きな地図で 沼浜城とその周辺 を表示
やはり法勝寺よりも堀之内の方が地形的にしっくりと来ますね・・・自然の要害っていった所でしょうか・・・
やっぱココしかないッスね!
城というには土地が狭いんじゃないか?・・・と思うかもしれませんが、中世の城に立派な天守閣なんて物はないですし、条件さえ整っていれば狭い場所でも事足ります・・・防御施設さえあればいいんじゃないでしょうか?

人工を以て洪大なる城郭を築くは信長の安土城以来の事にして、桓武帝平安の宮城とても素より城郭の制にあらず。頼朝の邸宅とても普通の家屋にして素より城郭の制にはあらざりしが如し・・・

と、かの大森金五郎氏も仰っています・・・
沼浜城址・・・個人邸が含まれているとなると今後も一般公開等は無さそうですね・・・

おまけ


隠れ俄か刀剣マニアな自分にとって、刀剣研究家の間宮光治先生の沼間鍛冶に関する研究は、非常に興味深かったです・・・
最古の刀剣書といわれる【観智院本銘尽】及び【安田長享銘尽】の中に沼間藤源次鍛冶についての記載がいくつかあり、それによると沼間鍛冶は代々三浦氏のお抱え鍛冶であったらしく、三浦大介義明咲栗という号の太刀を作ったとの事・・・
咲栗(えみぐり)の謂れは、熟れた栗の実が何かに当たるとコロリと簡単に落ちるところから、当たれば忽ち首が落ちる切れ味の銘刀・・・という事の様です・・・

沼間鍛冶は当時の名工だった様で【往昔抄】という刀剣書には『相模国沼間住人ぬまの藤次大夫』の名が見え、
また後鳥羽上皇の御所に著名な刀工を集めて月番で刀剣を作らせた承元の番鍛冶についての記録にも、刀剣を研磨して仕上げる鍛冶研ぎという大切な役目として参加していたとの事・・・

鎌倉中期には沼間から新藤五国光という刀工が名を上げ、その息子の行光門下からはあの超有名な相州正宗が出現・・・つまり鎌倉鍛冶の隆盛のもととなったのは沼間鍛冶なのである!
と熱く語ってらっしゃいます・・・
鎌倉鍛冶というと正宗の事ばかり語られる事が多い中、氏の著書【鎌倉鍛冶藻塩草】は新藤五国光以前の刀匠達にも目を向け、研究、調査を行い鎌倉鍛冶の歴史を語る内容の濃い一冊になっております・・・
買うとお高いですが図書館で借りられますので、一読してみる事をお勧めします・・・
沼浜城10 沼浜城11
鎌倉へ飛びまして正宗稲荷です刃稲荷とも言われています・・・もとは五郎入道正宗の屋敷に祀られていたと伝わる稲荷だそうです・・・
相州正宗は後北条氏2代氏綱から一字を貰い代々『綱廣』を名乗る事になります・・・
その末裔である24代綱廣は鎌倉駅近くの正宗孫刀剣鍛冶綱廣(正宗工芸)でその業を今に伝えます・・・
沼浜城12 正宗工芸には合鎚稲荷なる物もあります!

24代目綱廣曰く、現在の刀は磨けば綺麗に光るが深みがない・・・今となっては昔の正宗がどういった素材を使っていたかは分からないそうです・・・
匠の世界ってのは奥が深いですねぇ・・・

ところで、剣道の試合って何が何だかよく分からないですよね?・・・素人だと全く目が追っつかないです・・・
伝統ある武術なのにあまり受け入れられない原因はそこにあるのではないかと思います?
真剣でやれば勝敗が分かりやすくて良いと思うんですけど(笑)・・・ハッキリ言って有効打じゃなくても即死ですな・・・
まぁ、大声出してストレス解消にはもってこいですね! 
沼浜城13 沼浜城14
正宗工芸から今小路を横切り真っ直ぐ行くと、右手に見えるのが有名な洋館建築古我邸です・・・
ホント素晴らしい邸宅です・・・季節によって様々な顔を見せてくれます・・・
新緑に包まれた館・・・寒風の中に春の訪れを待つ館・・・どちらが好みですか?
以前鎌倉のガイドツアーで特別公開してた時があったんですが、都合が合わず行けなかったのが悔やまれます・・・

大正時代に三菱財閥の荘清次郎氏の別邸として建築、浜口雄幸、近衛文麿なども別邸として使用していたそうです!

さてさて先程の正宗稲荷の看板・・・下に『興禅寺址』とありますよね・・・そ~なんです、この古我邸は興禅寺の跡地に建っているんですよぉ~!

【鎌倉廃寺事典】によると興禅寺は曹洞宗京都妙心寺末で、朝倉甚十郎正世が父である筑後守宣正(寛永十四年二月六日卒 法名興禅院大雄玄英)の追福の為に建てた物との事です・・・
また、【新編鎌倉志】には仏殿、鐘楼がある事が記され、鐘名の全文が記載されているとの事・・・その銘文に天保二年八月六日と記されている事から、創建は寛永十四年(1637)~天保二年(1645)の間だろうって言ってます・・・

ふむふむ・・・では【新編鎌倉志】を見てみましょうか・・・
【興禅寺】
興禅寺は壽福寺の南にあり。汾陽山と號す。朝倉筑後の守が子甚十郎、先考の為に建立す。開山は奥州松島の雲居、諱は希膺なり。

仏殿、鐘楼・・・山門の事も記されていました・・・確かに銘文が記載されていて最後に天保二年八月六日とあります・・・
納得・・・これからは汾陽山古我邸と呼ばせて頂こう(笑)

それと最近知ったのですが、この洋館は数年前に亡くなられたバロン古我こと古我信生氏のお住まいだそうな・・・
古我信生って誰?・・・てのは自分だけでしょうか?
モーターファンの方はご存知かとも思いますが、何でも有名なレーサー(日本初?)だったそうな・・・
解説や自動車の評論家としても活躍していたそうです・・・へぇ~・・・

にしても景観重要建築物等の指定を受けてもおかしくない物件だと思うんですが・・・というか鎌倉文学館旧華頂宮邸に次ぐ物件だと思いますよ・・・話が来てない訳がないです・・・
当事者が大袈裟な事が嫌いで拒否したという話も聞いた事があります・・・
現在は古我夫人が一人でお住まいの様ですが、庭等も綺麗に手入れされていて素晴らしいです・・・
この景観は絶対に後世に伝えて行くべき物だと思います・・・  
沼浜城15 ちなみに目の前には第17号で指定を受けている
高野邸があります・・・ココも特徴のある物件ですが、肩身が狭いでしょうねぇ(笑)

何にしても古我邸は沼浜城よりも立派な建築物である事は間違いないでしょう(笑)

その古我邸を離れ緩いカーブを進み、突き当りのT字路を右に行くと正宗の井と呼ばれる物があります!
この井戸の周辺に五郎入道正宗の屋敷があったのではないかと言われております・・・
正宗の井・・・え?・・・って感じの代物ですよ・・・ちなみに五郎入道正宗の墓は本覚寺にありますよぉ~!
最後に【新編鎌倉志】の鍛冶正宗屋敷跡(たんやまさむねがやしきあと)の項を見てみましょう・・・

【鍛冶正宗屋敷跡】
鍛冶正宗が屋敷の跡は、勝橋の南みの町西頬也。今は町屋となる。正宗は行光が子なり。行光、貞應の此、鎌倉に来り爰に住すと云ふ。今も此の所に刃の稲荷と云小祠あり。正宗がまつりたる神なりと云傳ふ。

正宗は行光の子とも弟とも、諸説ありますが、明確な史料がない限り昔の事は調べようがないですね・・・

刀匠になるには国家試験があり、師のもとで5年間の修行を積んだ者でないと資格が与えられないそうです・・・
この資格がないと鎚を打ってもいけないらしい・・・自分も刀剣を作ってみたいと思いましたが、このシステムはネックですねぇ・・・残りの人生を考えると単なる趣味での刀剣作りに5年間は痛すぎます・・・諦めます(笑)

ちなみに試験に論文等の筆記科目は無く、実技オンリーの様です・・・試験というか文化庁主催の作刀実地研修会(修業期間4年経過後に参加可)というものに参加してこれを終了しなくてはならない様です・・・
試験よりも一番のネックは弟子入りでしょうね・・・弟子にしてくれる師匠がいなければ話になりません!

また、一人の刀匠が作っていい刀剣の本数も決まっているらしく(厳密な法律があるんでしょうか?)、2週間に1本・・・
年間24本まで・・・これは質の悪い刀剣が横行するのを防ぐ意味もあるらしいです・・・でも価格の高騰にもつながっているんじゃないでしょうか?
それもまた日本刀の魅力であり、世界に誇る日本の鍛冶技術を後世に伝えて行く為に我々が支払うべき必要経費なのかも知れませんね・・・どんどん買ってあげましょう!

おしまい 
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