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鶴岡八幡宮から山ノ内方面へ馬場小路を登って行くと、道の右側に二十五坊舊蹟の史跡碑があります!
二十五坊旧跡の石碑
此ノ地ハ頼朝時代以来八幡宮供僧ノ僧舎二十五坊及ビ別當坊ノ置カレシ處ナリ彼ノ別當公暁ガ實朝ノ首ヲ手ニシテ潜ミタル後見備中阿闍利ノ宅モ亦此ノ地ニ在リタルナリ應永中院宣ニヨリ坊ノ称ヲ院ト改ム戦國ノ世ニ至リ鎌倉管領ノ衰微ト共ニ各院次第ニ廢絶シ天正ノ末ニ於テハ僅カニ七院ヲ存セルノミ文禄中徳川家康五院ヲ再興シテ十二院トナセルガ明治維新後遂ニ全ク廢墟ナレリ
           大正七年三月建之 鎌倉町青年會
いきなり関係ない物を紹介するのは心苦しいんですが、全く関係がない訳でもないのでご容赦下さい・・・
二十五坊とはつまり鶴岡八幡宮の僧達が住んでいた所であります・・・神社なのに僧?と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、昔は神仏混淆ですから・・・明治の神仏分離までは鶴岡八幡宮寺でした・・・

鎌倉時代初期に供僧二十五口の制度が作られ天正の末には七院に減少、江戸時代に徳川家康が五院を再興して十二院となったが明治の神仏分離で廃絶したとの事です・・・
公暁実朝を殺害したのちに備中阿闍梨のもとへ向かった事にも触れています・・・
この辺の事は【実朝公御首塚】のページで書かせて頂きましたので、そちらを参照して頂けたらと思います・・・

二十五坊舊蹟の史跡碑の少し手前、鶴岡文庫と駐車場の間にある道へ入ります・・・
今宮参道1 鶴岡文庫はイマイチ知られていませんが、一応鶴岡八幡宮の施設で、要は史書図書館です・・・誰でも利用する事が出来ます・・・調べたい事項をパソコンで検索し書架から出してもらうシステムです・・・
館内閲覧のみで貸出不可ですがコピーは出来ます・・・

ホールには豊臣秀吉が作成させた【鶴岡八幡宮修営目論見絵図】をもとに造られた鶴岡八幡宮1/100スケールの模型が展示されています・・・
鶴岡八幡宮の事を調べたいならココへ来るのもひとつの手だと思います・・・
さて、道の突き当りを左へ進みます・・・ガンガン進みましょう!
今宮参道2 今宮参道3
目的地まで一本道です・・・何となく寂しげな道ですが民家を横目にガンガン進みます・・・すると・・・
今宮参道4 今宮の鳥居
どん詰まりに赤い鳥居が見えて来ます・・・今宮に到着であります!・・・お決まりの文化財愛護の看板には新宮と書かれていますがどちらの呼称でもOKの様です・・・このHITACHIが設置している看板ですが、鎌倉に限らず全国の社寺仏閣どこにでも見られます・・・自分は勝手にHITACHI板と命名しております(笑)
それはいいんですが以前訪れた時と内容が変わっていました・・・『史跡 鶴岡八幡宮境内 新宮』・・・とあります!
以前は『重要文化財 新宮』・・・だったと思います・・・
これホントに重要文化財なのか?・・・って感じで調べたので、しっかり記憶に残っています!
結果、その様な情報は得られませんでした・・・間違いに気付いて立て直したのかな?

三方を山に囲まれ少し重苦しい空気が漂いますが、お構いなしに鳥居を潜ります・・・
今宮のライト 今宮の石碑
朝の6時過ぎに訪れましたが境内にはいくつかライトが設置されていて光を放っておりました・・・感応式?
そして右側には今宮の石碑があります・・・碑文の内容は以下の通り・・・

四条天皇延應元年鎌倉中處々喧嘩闘争ノ事アリ特ニ其ノ五月廿二日ニハ大騒動ヲ起セシト云フ玄日後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御シ給フ由リテ斯ハ其ノ怨念ノ然ラシメシ所ナラントテ寶治元年四月大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建テ其院ノ尊霊ヲ勧請シ奉リ順徳院及ビ護寺僧長賢ヲ合祀セラル長賢ハ承久ノ役官軍ニ属シテ奮戦後捕ハレテ陸奥謫セラレシ者トイフ今宮ハ又新宮ト書ス                                  昭和四年十二月 鎌倉町青年團

承久の乱(1221)絡みの話ですね・・・延応元年(1239)、鎌倉中に騒動が起こったのは後鳥羽上皇の怨念だとして、宝治元年(1247)、ココに今宮を建て後鳥羽院とその息子の順徳院、そして官軍として戦った長賢という人物を祀ってその霊を鎮めた・・・との事です・・・怨念パワー恐るべし・・・当時は今以上にそういった類の事に敏感でしたから何とかしようと必死に建てたんでしょうね・・・

承久の乱を簡単に説明すると・・・承久元年(1219)将軍実朝公暁に殺されると、取り敢えず北条政子(尼将軍)が政務を担当し弟の義時がそれを補佐するという体制が出来上がりました・・・皇族将軍を考えていた義時後鳥羽上皇の息子である雅成親王を鎌倉殿(=征夷大将軍ではない事に注意!)として迎えたいと申し出ますが、これに対し後鳥羽上皇は愛妾の所領の地頭の廃止と、自分に近かった人物の処分の撤回という条件を出して来ます・・・
地頭の廃止なんて認めたら幕府の根底を揺るがしかねません・・・義時は諦めて摂関家から九条頼経を鎌倉殿として迎え入れる事になります・・・執権政治の始まりです!

このやり取りは後鳥羽上皇義時の間に少なからずしこりを残したと思われます・・・
もともと実朝に対して官打ち(身分不相応な官位を与えて陥れる呪法)を仕掛けていたともいわれる反幕府な後鳥羽上皇・・・実朝の死もそれに因る物だと思ったんでしょうか、調子に乗って義時追討の院宣を出します!

まぁ、結果は幕府軍の圧勝です・・・後鳥羽上皇はまさか鎌倉の武士が院宣に従わず攻め込んで来るとは思わなかったでしょう・・・義時の首が届くとばかり思ってたんでしょうね・・・まさかの宣戦布告ですから、超焦ったでしょうねぇ(笑)

乱の後、後鳥羽上皇は隠岐に流されます・・・挙兵に積極的だった順徳上皇は更に重い佐渡に流されます・・・
挙兵に反対していた土御門上皇は罪に問われませんでしたが、父である後鳥羽上皇が隠岐に流されているのに自分が京に居るのは偲びないとして自ら土佐へ流される事を望みました・・・後に阿波へ移っています・・・

ザックリ解説で失礼しました・・・院宣が出て狼狽する御家人達を北条政子が涙ながらに頼朝の恩を説き、奮え立たせる演説シーンは、この時代を扱ったドラマ等では必ず出て来ますよね(笑)

【吾妻鏡】にあるその演説シーンをちょっと見てみましょう!・・・この日の記事は長いので演説部分だけ抜粋します!

二品家人等於簾下に招き秋田城介景盛を以て示し含めて曰く皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し関東を草創してより以降官位と云い俸禄と云いその恩既に山岳より高く溟渤より深し。報謝の志浅からん乎。而るに今逆臣の讒に依って非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は早く秀康、胤義等を討ち取り三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は只今申し切るべしてえり。

ニ品とは従二位にあった政子の事です・・・『山より高く、海より深し』と頼朝の恩を説いています・・・
そして藤原秀康、三浦胤義を討って鎌倉を守るべし!といってます・・・
後鳥羽上皇
の名前を出さない所が賢いですねぇ・・・この演説を聞いて御家人達は涙を流したそうです・・・

ちょっと気になる箇所が・・・『二品家人等於簾下に招き秋田城介景盛を以て示し含めて曰く』・・・
北条政子は御家人達を御簾の近くに招いて安達景盛を通していいました・・・って事ですよね?
ん~・・・つ~事は政子景盛にボソボソッと耳打ちして、それを景盛が大声で御家人達に聞かせた・・・ってイメージなんですけど・・・ドラマとは大違いですよ(笑)・・・まぁ、どーでもいいですけどね・・・

石碑の内容に戻りまして、鎌倉中の騒動についての【吾妻鏡】の記述も見てみましょう!
と思ったら延応元年(1239)5月22日の記述はスッポリ抜けていました(笑)
替わりに今宮が建てられた宝治元年(1247)4月25日の記事をどーぞ!

巳の一点暈在りと。今日後鳥羽院の御霊於鶴岡乾の山麓に勧請し奉らる。是彼の怨霊を宥め奉らんが為、日来一宇の社壇を建立せらるる所なり。重尊僧都を以て別当職に補せらると。

だそーです・・・『一宇の社壇』ってのが今宮の事の様ですね・・・
今宮1 今宮2
小さな社です・・・壁はコンクリート製です・・・こんなの重要文化財な訳ないでしょ!(笑)
祭神は後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇と傍らの立札に書かれています・・・土御門天皇は明治に入ってから祀られたと聞きます・・・それまでは石碑の内容の通り長賢が祀られていたんでしょう・・・

同じ3人を祀っている水無瀬神宮とは大違いですね・・・あちらは重要文化財も沢山あるし、国宝もある!
でも今宮は・・・地震や火事には多少強いかもしれませんよっ!(笑)
今宮3 今宮境内
後鳥羽上皇の怨霊を鎮める為の空間と考えると、初めに感じた重苦しい空気も何となく納得です・・・
北条も滅んだ現在、後鳥羽上皇の霊は何を思うのでしょうか?

【新編鎌倉志】を見てみましょう!
【新宮】(イマミヤ)
我覚院の門前より左へ折て行、山の麓にあり。三間に二間の社地。當社の縁起、浄國院にあり。【東鑑】に寛治元年四月廿五日、後鳥羽帝の御霊を鶴が岡の乾の山の麓に勧請し奉らる。是彼の怨霊を宥め奉らんが為に、日来一宇の社壇を建立せらるとあり。社の後ろは深谷也。一根にして六本に分れたる大杉あり。魔境にて、天狗此に住と云ふ。普川國師の【新宮講式】に云、有霊託、構小社於神宮縁邊、有敬信、儼三所於靈岳甲勝、所謂左胸者、順德帝、右胸者、長嚴僧正、共為内秘外現云云。【神明鏡】に、後鳥羽帝崩御の後、鎌倉中喧嘩闘争しけり。就中五月廿二日、大騷動も有ければ、彼の御怨念にやとて、雪下に新宮と號し、法皇を祝し奉る。順徳帝と護持の僧長玄法印と御真體となり、上野の行山の庄を神領とすとあり。長嚴・長玄は、【東鑑】に所謂、東大寺造営の尊師重源上人なり。
三書異なりと云ども、實は一人なり。社僧の云傳るも如此。俗に右は土御門帝と云は未考。

我覚院は先に述べた二十五坊のひとつです・・・当時残っていた12院のひとつですね・・・石碑には院宣により坊から院へ改められたとありますが、その通りであります・・・もともとは密乗坊といいました・・・
応永22年(1415)、後小松上皇の院宣で20の坊が院へと変わっています・・・残りの5坊は少し遅れて改められたと文献にあります・・・

六本に分かれた大杉があって、魔境であり天狗の住処だっていってます・・・
そんな大杉は見当たりませんでしたけど裏山のどっかにあるんですかねぇ?・・・結構興味深い情報です・・・
天狗見たいなぁ・・・天狗で有名な建長寺半僧坊権現も近いといえば近いし、かつては山道で繋がっていたのかも知れませんね・・・今宮の天狗伝説・・・気になります!

さて政子の演説にも出て来た三浦胤義という人物ですが・・・三浦義村の弟であります!
後鳥羽上皇が挙兵した時、京に居り倒幕派の胤義義村に決起する様手紙を出しますが、義村はこの手紙を幕府へ報告!・・・兄弟ですが官軍と幕府軍に分かれて戦う事になります・・・

胤義
の奥さんは一品房昌寛の娘(2代将軍頼家の側室)です・・・彼女は頼家との間に栄実、禅暁という2人の男児を儲けていましたが頼家亡きあと胤義に嫁ぎました・・・
栄実は和田合戦にも繋がる泉親衡の乱に担ぎ出されましたが最期は自害しています・・・そして禅暁は異母兄の公暁による3代将軍実朝殺害に関与していたとの嫌疑をかけられ京都東山で殺されます・・・

禅暁の後見人である胤義、公暁の乳母父である義村・・・この時点で既に折り合いが悪かったと思われます・・・
また胤義は、前夫頼家とその子供を北条に殺され嘆き悲しむ妻の姿を見て倒幕に参加する事を決めたともいわれています・・・

承久の乱が始まり胤義は京の大将軍として戦いますが、美濃、宇治川と幕府軍に圧されてしまい、院の御所で幕府軍を迎え撃つ事を計画します・・・しかし旗色の悪くなった後鳥羽上皇は御所の門を閉ざし、義時追討の院宣を取消し、逆に乱を企てた張本人として胤義らを追討する院宣を出します!

後鳥羽上皇に裏切られたって事です・・・胤義は東寺に立て籠もり息子の胤連、兼義とともに奮戦しますが最期は自害しています・・・
【吾妻鏡】によると胤義の首は家来が持っていましたが、奪い取られ北条泰時に送られたそうです・・・
ちなみに奪い取ったのは義村です・・・

【承久記】によると衣笠に居た胤義の幼い息子4人は斬首となった様です・・・
そして処刑されたとする田越川は我が逗子市を流れる川であります・・・京急新逗子駅近くの田越川沿いに、
忠臣三浦胤義遺孤碑 忠臣三浦胤義遺孤碑なる物が建っています・・・

天皇万歳な時分に建てられた物ですから、幕府に叛いて官軍として戦った胤義はまさに忠臣だったんでしょう・・・
大きくて立派な石碑です!
駐車場の端っこという立地ですが、建てられた時は電車も無いしアパート等も無くまさに田越川の畔って感じだったんではないでしょうか・・・
隣には由来についての案内板も建っています!
三浦平九郎胤義遺孤の碑由来
年端もいかない子供達が大人のいざこざの犠牲になるなんて・・・何とも切ない時代ですね・・・
何で11才の息子だけ斬られなかったんでしょうか?・・・助かる可能性があるとすれば年齢の低い3才の息子の方だと思うんですけどねぇ・・・斬られた4人は相当ムカツク顔してたんですかね(笑)

ココに84.000基の石塔を建てたとありますね・・・【吾妻鏡】を見てみましょう!

嘉禄元年(1225)9月8日 丙寅
多胡江河原に於いて八万四千基の石塔を立てらる。武州、駿州、三浦駿河前司以下行き向わ被。
弁僧正が門弟等を相具しこれを沙汰すと。

武州は北条泰時、駿州 は北条重時です・・・確かに84.000基建ててますね・・・でも何の為に建てたのかは記されていません・・・84.000基って物凄い数ですよ!・・・ホントに胤義の息子達の為に建てたんでしょうか?
嘉禄元年っていったら北条政子(7月11日没)や大江広元(6月10日没)などのビッグネームも亡くなっています・・・
それに関連して建てられた物かも知れないなどど考えてしまいます・・・場所の根拠がありませんけど(笑)

そもそも【吾妻鏡】には胤義の遺児達が処刑されたという記事は見当たりません!
それどころか宝治合戦で三浦一族が法華堂で集団自決した際に、胤義の遺児といわれる
平判官太郎左衛門尉
義有、同次郎高義、同四郎胤泰の名前が見えます・・・

どーゆーこっちゃ?・・・でも逗子市としては彼らは幼くして田越川で処刑されていないと困ってしまいますね(笑)
石碑も建っちゃってる事ですし(笑)

胤義の息子達が死んでないとすると、ホント何の為に84.000基もの石塔を建てたんでしょうか?
それにしても84.000基もあった石塔が現在ひとつも無いなんて・・・自分にはそっちの方が信じられません・・・

おまけ

鎌倉の小町大路沿いには蛭子神社があります・・・
鎌倉十橋の夷堂橋のページでも軽く紹介しましたが、もう一度その説明を見てみましょうか・・・御覧になってない方や、忘れている方もいると思いますので・・・

小町の鎮守。その昔、現在の夷堂橋付近に『夷三郎社』という神社があった・・・社は永享年間(1429~1441)の本覚寺創建の際に境内に移され夷堂となり、里人の信仰を集めていた・・・
それが明治の神仏分離で現在地に移り、もともと同地に祀られていた『七面大明神』、宝戒寺の境内の『山王大権現』とともに合祀されて蛭子神社となった。明治6年(1873)小町区の鎮守として村社に列格された。

本殿は明治7年(1874)鶴岡八幡宮末社今宮の社殿を譲り受け移築したもの・・・
関東大震災で大破し、昭和9年(1934)に改築されたが、本殿内部は今宮の社殿をそのまま内臓した。


そーなんです・・・以前の今宮の社は明治7年に蛭子神社へと移築されたんです!
関東大震災後に改築されているので外観は違いますが、本殿内部には今宮の社殿がそのまま内臓されています!
まぁ、内部は見れないんですけどね(笑)

おしまい
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