入り口に案内板があります・・・
国指定史跡 北条氏常盤亭跡 昭和53年12月19日指定
北条氏常盤亭跡は、鎌倉切通の一つである大仏切通の北に接する要所として、鎌倉時代に第七代執権北条政村などの北条一族の有力者が別邸をかまえていたことが、吾妻鏡などの文献により知られています。
昭和52年の発掘調査によって、建物跡が確認されてその存在が証明されたため、鎌倉時代の武家屋敷跡をとどめる貴重な遺跡として国の史跡に指定されています。
史跡内は、山や谷を切り開いてつくった平地に門柱跡や『やぐら』、法華堂跡と伝えられている場所が有り、歴史的にきわめて貴重な史跡です。 平成16年3月 鎌倉市教育委員会
この辺りの地名である常盤は古くは常葉ともいわれ、坂を下った先にある円久寺は『常葉山』という山号を掲げています・・・また寺の辺りは殿ノ入という小字も伝わり、常盤亭への入り口だったのではないかと言われています・・・
常盤の由来は政村がこの地に別邸を建てて常盤御所、常盤殿と称した事によるとも言われているが、恐らくは樹木が生い茂り常緑を意味する常葉、永遠に変わらな常盤という谷間の景観に由来する自然地名であろう・・・
と、鎌倉国宝館館長の三浦勝男氏は自身の著書に記しています・・・
【新編鎌倉志】を見てみましょう・・・
【常磐里】(附常磐の御所の跡。)
常磐里は大佛の切通越ゆれば常磐里なり。【東鑑】に 建長八年八月廿三日、将軍家新奥州(政村)が常磐の第に入御し給ふと有。又、弘長三年二月八日、政村が常磐の御亭にて一日千首の和歌の會の事あり。
今此の内に里民、常磐御所と云傳る所ろあり。政村が亭の跡なり。政村を常磐院定崇と號す。昔し此の所に常磐院を建たる歟。『新後撰集』に 藤原の景綱が歌に
『うつろわで 萬代匂へ 山櫻 花もときはの 宿のしるしに』。
此の歌を『昌琢類聚』に都の常磐に附たり。鎌倉無案内の故ならん。此の歌の詞書には、平の時範が常磐の山荘にて寄花祝と云事をよみ侍りけると有。時範は北条重時が孫にて、陸奥の守時茂が子なり。景綱は重時が兄泰時が家士也。按ずるに、時茂をも常磐と號す。政村が姪なり。時茂より時範に至まで此の所に山荘ありつるならん。しかれば此の歌、鎌倉の常磐をよめるならん。又、此の所に常磐松と云あり。
政村は建長8年(1256)8月23日に常盤御所に入った様ですね・・・【吾妻鏡】にその様子が細かく記されています・・・
天気は良かった様です(笑)
一日千首の和歌の会は、
弘長3年(1263)2月8日 戊午 天晴 申の刻雨降る
今日 相州常磐の御亭に於いて和歌会有り。一日千首 深題懸物を置かる。亭主(八十首)、右大弁入道眞観(百八首)、前の皇后宮大進俊嗣(光俊朝臣の息
五十首)、 掃部の助範元(百首)、證悟法師、良心法師以下作者十七人、辰の刻これを始め、秉燭以前篇を終う。則ち披講す。範元一人その役を勤む。
朝8時から始めて暗くなる前に終わった様ですね・・・16時に雨が降った様ですが・・・
しかし皆さん詠みまくりですね・・・一番疲れたのは百首詠んだ上に全員の歌を一人で朗詠した範元でしょうか・・・
お疲れ様でした・・・
藤原景綱が詠んだ歌が、京の常盤と勘違いされている・・・と、歌集撰者の鎌倉に対する無知ぶりを指摘しとります!
しかし、【新編鎌倉志】発刊から144年後(1829)発刊の【鎌倉攬勝考】では、
『鎌倉志』に藤原景綱が歌とし、平泰時が家士なりとあり。されば尾藤左折将監景綱なれども是は『東鑑』に天福二年八月廿一日、武州家令尾藤左折入道道然
依所勞辞職、泰時より先に歿し泰時の弟の重時が孫なる時茂が頃迄は、四十年餘も前に死たり。たとえ『新後撰集』に藤原景綱とあるも、詞書を考へ合すれば違ひなるべし。地理をも誤りあれば其人を誤りしならん。依てここに基綱としるせり。
後藤大夫判官藤原基綱にて、實朝、頼経、頼嗣将軍家に仕へ、和歌にたづさはれる人なれば宗尊親王の時迄存命し、山荘にてよみしなるべし。
ちょっと考えてみなさいよあなた・・・藤原景綱じゃなくて藤原基綱でしょ!
【新後撰集】には景綱とあるけど鎌倉と京の地理を間違えるくらいだから、人物だって間違えるだろ!
と、【新編鎌倉志】の編者を指摘しています・・・確かにその通り!
これは恥ずかしいですね・・・得意げに間違いを指摘していただけに・・・まさか同じ箇所で自分も指摘されるなんて・・・
時茂は政村の姪である・・・と記してますが、これは間違いでしょうか?それとも甥という意味でも使うのでしょうか?
まぁいいか・・・ゴチャゴチャしてきたんで次進みましょう(笑) |