ブログ タチンダイ1
File.007 
 
タチンダイ2 タチンダイ3
鎌倉市役所前から市役所通りを西へ進み、トンネルを3つ過ぎると長い下り坂になっています・・・
左の山上には樹ガーデンという有名なカフェがあります!・・・いつ見ても店舗へと続く階段が大変そうです!

坂を下っていると右側に上の写真の様な広いスペースが出現しますが、ココらへん一帯が北条氏常盤亭跡といわれており、国指定の史跡となっております・・・
バーベキューとかしたくなる様な広さですが、一応国の史跡なので諦めましょう・・・朝露でズボンの裾を濡らしながら奥まで行きましたが、特に何もありませんでした・・・
タチンダイ4 タチンダイ5
入り口に案内板があります・・・
国指定史跡 北条氏常盤亭跡   昭和53年12月19日指定

北条氏常盤亭跡は、鎌倉切通の一つである大仏切通の北に接する要所として、鎌倉時代に第七代執権北条政村などの北条一族の有力者が別邸をかまえていたことが、吾妻鏡などの文献により知られています。
昭和52年の発掘調査によって、建物跡が確認されてその存在が証明されたため、鎌倉時代の武家屋敷跡をとどめる貴重な遺跡として国の史跡に指定されています。
史跡内は、山や谷を切り開いてつくった平地に門柱跡や『やぐら』、法華堂跡と伝えられている場所が有り、歴史的にきわめて貴重な史跡です。                            平成16年3月 鎌倉市教育委員会

この辺りの地名である常盤は古くは常葉ともいわれ、坂を下った先にある円久寺は『常葉山』という山号を掲げています・・・また寺の辺りは殿ノ入という小字も伝わり、常盤亭への入り口だったのではないかと言われています・・・

常盤の由来は政村がこの地に別邸を建てて常盤御所、常盤殿と称した事によるとも言われているが、恐らくは樹木が生い茂り常緑を意味する常葉、永遠に変わらな常盤という谷間の景観に由来する自然地名であろう・・・
と、鎌倉国宝館館長の三浦勝男氏は自身の著書に記しています・・・

【新編鎌倉志】を見てみましょう・・・
【常磐里】(附常磐の御所の跡。)
常磐里は大佛の切通越ゆれば常磐里なり。【東鑑】に 建長八年八月廿三日、将軍家新奥州(政村)が常磐の第に入御し給ふと有。又、弘長三年二月八日、政村が常磐の御亭にて一日千首の和歌の會の事あり。
今此の内に里民、常磐御所と云傳る所ろあり。政村が亭の跡なり。政村を常磐院定崇と號す。昔し此の所に常磐院を建たる歟。『新後撰集』に 藤原の景綱が歌に
『うつろわで 萬代匂へ 山櫻 花もときはの  宿のしるしに』。
此の歌を『昌琢類聚』に都の常磐に附たり。鎌倉無案内の故ならん。此の歌の詞書には、平の時範が常磐の山荘にて寄花祝と云事をよみ侍りけると有。時範は北条重時が孫にて、陸奥の守時茂が子なり。景綱は重時が兄泰時が家士也。按ずるに、時茂をも常磐と號す。政村が姪なり。時茂より時範に至まで此の所に山荘ありつるならん。しかれば此の歌、鎌倉の常磐をよめるならん。又、此の所に常磐松と云あり。

政村は建長8年(1256)8月23日に常盤御所に入った様ですね・・・【吾妻鏡】にその様子が細かく記されています・・・
天気は良かった様です(笑)

一日千首の和歌の会は、
弘長3年(1263)2月8日 戊午 天晴 申の刻雨降る
今日 相州常磐の御亭に於いて和歌会有り。一日千首 深題懸物を置かる。亭主(八十首)、右大弁入道眞観(百八首)、前の皇后宮大進俊嗣(光俊朝臣の息 五十首)、 掃部の助範元(百首)、證悟法師、良心法師以下作者十七人、辰の刻これを始め、秉燭以前篇を終う。則ち披講す。範元一人その役を勤む。

朝8時から始めて暗くなる前に終わった様ですね・・・16時に雨が降った様ですが・・・
しかし皆さん詠みまくりですね・・・一番疲れたのは百首詠んだ上に全員の歌を一人で朗詠した範元でしょうか・・・
お疲れ様でした・・・

藤原景綱が詠んだ歌が、京の常盤と勘違いされている・・・と、歌集撰者の鎌倉に対する無知ぶりを指摘しとります!
しかし、【新編鎌倉志】発刊から144年後(1829)発刊の【鎌倉攬勝考】では、
『鎌倉志』に藤原景綱が歌とし、平泰時が家士なりとあり。されば尾藤左折将監景綱なれども是は『東鑑』に天福二年八月廿一日、武州家令尾藤左折入道道然 依所勞辞職、泰時より先に歿し泰時の弟の重時が孫なる時茂が頃迄は、四十年餘も前に死たり。たとえ『新後撰集』に藤原景綱とあるも、詞書を考へ合すれば違ひなるべし。地理をも誤りあれば其人を誤りしならん。依てここに基綱としるせり。

後藤大夫判官藤原基綱にて、實朝、頼経、頼嗣将軍家に仕へ、和歌にたづさはれる人なれば宗尊親王の時迄存命し、山荘にてよみしなるべし。

ちょっと考えてみなさいよあなた・・・藤原景綱じゃなくて藤原基綱でしょ!
【新後撰集】には景綱とあるけど鎌倉と京の地理を間違えるくらいだから、人物だって間違えるだろ!
と、【新編鎌倉志】の編者を指摘しています・・・確かにその通り!
これは恥ずかしいですね・・・得意げに間違いを指摘していただけに・・・まさか同じ箇所で自分も指摘されるなんて・・・

時茂は政村のである・・・と記してますが、これは間違いでしょうか?それともという意味でも使うのでしょうか?
まぁいいか・・・ゴチャゴチャしてきたんで次進みましょう(笑)
タチンダイ6 タチンダイ7
広場入り口右側山裾には道がありタチンダイと書かれた道標の矢印もこの道を進むよう指示しています・・・
タチンダイとはこの広場奥の一段高くなっている平場の事です・・・オタチダイと間違えそうですね・・・

【文化遺産データベース(文化庁)】で調べてみるとタチンダイ(館の台)の文字が・・・タチノダイが転化してタチンダイと呼称される様になったのでしょうか?

進めと言われれば進むしかないです・・・登り口を見るとキツそうな道に思えますが、そんな事はないです、あとは平坦な道を進むだけ・・・何よりすぐそこですから・・・
タチンダイ8 2、3分歩くと平場へ出てバークチップの敷き詰められた道が奥へと繋がっています・・・足元フカフカで凄く気持ちいいです・・・
綺麗に植生管理されています・・・ココも世界遺産登録候補地リストに載っていますから、鎌倉市も気合を入れたんではないでしょうか?

奥に何か怪しい物があります!?
これは興味をそそられます・・・
目的の物である事は間違いありませんが取り敢えずもっと近くで見なくては・・・
タチンダイ9 なんだこれ・・・小っちゃいまんだら堂みたい・・・
周囲にもいくつか小さなやぐらがありました・・・
やぐらアパート?
下の階はほとんど埋まっちゃってますが・・・何階建てだったんでしょうか?

岩が綺麗な四角形に切り抜かれています・・・じぃ~っと見ていると何だか顔っぽくも見えて来ます・・・
横に案内板があります・・・
北条氏常盤亭跡は、鎌倉幕府の第7代執権北条政村を始めとする、北条一族の有力者の別邸があった場所です
『タチンダイ』というこの平場付近の地名は、中世居館と関わりがあることを示しています。
この平場は細長いV字型の谷を造成したもので、東西北を人工的な崖(切岸)で囲まれています。
周辺で実施された発掘調査では、建物跡などが良好な状態で残っていることも確認されました。また、この平場の北西隅には鎌倉時代頃の墓所で、鎌倉周辺に多く見られる『やぐら』とよばれる岩窟も残されています。
タチンダイの周辺の谷戸には切岸や、土地造成が行われるまえの地形なども良好に残るなど、北条氏常盤亭跡は鎌倉時代に政権を担当した武家の屋敷跡と、これを取り巻く中世からの地形をよく伝えています。
                                                平成21年3月 鎌倉市教育委員会
タチンダイ10 何でしょうこの空間・・・広いけど何もない・・・
下の広場は湧水があり所々湿地になってますんで使い難そうですが、ココは近所の家族連れとかがマッタリしててもいい様な場所かと思います・・・
人っ子ひとりいません・・・
まぁお蔭でゆっくりと見学出来ましたが・・・
ココは史跡公園にするとしても少し立地に無理があるかもしれませんね・・・観光コースからは外れてますし、周りに目ぼしい寺社もない・・・
向かい側にあるkamakura24sekkiってベーカリーカフェは隠れ家っぽくてお勧めですけどね・・・
観光客は大仏からココへ来るよりは銭洗弁財天へ向かい、中心地へ戻るでしょう・・・

平成26年オープン予定のまんだら堂、その翌年オープンの永福寺跡・・・どんな感じになりますかね?
まんだら堂は名越切通の中にあるのでトレッキングの次いでに・・・でも観光客はほとんど行かないでしょうね・・・

やはり永福寺跡が観光客を集めそうですね・・・瑞泉寺に行く途中にありますし、紅葉の季節には獅子舞もあります・・・
これは永福寺グミを販売するしかないですね(笑)

このタチンダイは史跡のほんの一部です・・・常盤山に入組む谷戸は結構あり中世の遺構と思われる物が数多く発掘されています・・・一日千首の和歌の会は何処で催されたんでしょうかね?
政村の別邸も何処にあったのかは解明されていません・・・

広町、台峯と共に鎌倉三大緑地といわれる常盤山のひっそり感が好きで、昔は結構歩いていました・・・市が買い上げた様な話を聞きましたが山の南側が削られ大きなマンションが建ちました・・・ど~なってんだろ?買い上げたのは史跡部分だけなんでしょうか?・・・だとしたら山の北側も宅地造成されて行く可能性がありますね・・・

以前は御嶽神社跡(現在は八雲神社に合祀)に常盤御前(今若、乙若、牛若の母)の墓と伝わるやぐらもあった様ですが、開発の波に呑まれ完全に削り取られてしまったとの事・・・現在そのやぐら内にあった石塔群は、前述のマンション手前に安置されております・・・(参照:かまくら子ども風土記)

常盤御前がココに住んだ、没した等の記録はないので常盤という地名からのこじつけでしょうね・・・
日本各地に伝わる昔の人物の墓伝説には頭を悩ませられますね・・・
ちょっとその人物に縁があるとすぐ墓を作っちゃう・・・何個も墓を作られる故人はどんな気持ちなんでしょうか?

『あぁ・・・また俺の墓建てちゃってるよ・・・そこあんま関係ないのになぁ・・・』みたいな・・・

文治2年(1186)6月13日 己未
当番の雑色宗廉京都より参着す。去る六日 一條河崎観音堂の邊に於いて与州の母並びに妹等を尋ね出し生虜る。関東に召し進す可き歟の由と云々。

これが幕府の公式記録【吾妻鏡】に見える常盤御前に関する最後の記述です・・・
義経の母と妹を生け捕ったが鎌倉に連行するかどうするか・・・これが最後です・・・
鎌倉に連行したのか?釈放したのか?・・・記述はありません・・・
妹とは一条長成との間に出来た娘の事でしょう・・・もしかしたら清盛との子かもしれませんね(笑)

それからピッタリ3年後、
文治5年(1189)6月13日 辛丑
泰衡の使者新田冠者高平 与州の首を腰越浦に持参し、事の由を言上す。仍って実検を加えんが為、和田太郎義盛、梶原平三景時等を彼の所に遣わす。各々甲直垂を着し甲冑の郎従二十騎を相具す。件の首は黒漆の櫃に納れ美の酒に浸す。高平僕従二人これを荷擔す。昔蘇公は自らその糧を擔う。今高平は人をして彼の首を荷令む。観る者皆雙涙を拭い両の袂を湿すと云々。

義経の首は美酒に浸されながら腰越に届きましたとさ・・・ヒック!ウィ~・・・

先程通ったタチンダイに行く道には途中分岐があり大仏ハイキングコースヘと繋がっています・・・
長谷方面へ降りるもよし、源氏山を経て浄智寺まで行って見るのもよし、他色々な場所へ降りられますので体力と相談しながら歩き回りましょう・・・

おしまい 
ダム 上へ     HOME