ブログ 梶原水1
鎌倉五名水 
 
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滑川の源流へと道をたどって行くと朝夷奈切通の入口手前左側にあります・・・崖の中腹に小さな祠があり、そこから竹筒が伸びており太刀洗川へと注いでいます・・・
以前は少し上流にある三郎の滝梶原太刀洗水だと勘違いしていました・・・
案内板等もなかったので普通に通り過ぎてしまいますよ・・・『あぁ水が湧いてるね~』くらいで・・・
友人の話だと最近、梶原太刀洗水の案内板が出来た様です・・・えがったえがった・・・

【新編鎌倉志】を見てみましょう!
鎌倉より切通の坂へ登る左の方に、岩間より涌出でる清水あり。梶原が太刀洗水と名く。或は、平三景時、廣常を討ちし時、太刀を洗ふたる水と云ふ事歟。是も鎌倉五名水の一つなり。
或は此邊に上総介廣常が宅ありつるか。【東鑑】に、頼朝卿、治承四年十二月十二日に、上総介廣常が宅より、大倉の新造の御亭に御移徙とあり。此邊よりの事歟。

名称の由来は、頼朝の命を受けた梶原景時上総介広常を討った後、ここで刀の血糊を落とした・・・という言い伝えによる物です・・・景時は広常と双六をしている最中に、いきなり斬りつけたらしいです・・・広常ビックリですね(笑)

頼朝は入府して新居が出来るまでの間、上総介広常邸にいました・・・広常邸はこの辺りにあった様ですが、その場所の特定には至っていません・・・

寿永2年(1183)12月、謀反を疑われ殺された広常ですが、その後日談を【吾妻鏡】で追ってみましょう!

寿永3年1月1日 辛卯 霽
鶴岡八幡宮御神楽有り。前武衛御参宮無し。去る冬の廣常の事に依って、営中穢気の故なり。籐判官代邦通奉幣の御使いとして、廻廊に着す。別当法眼参会す。法華八講を行わると。

年が明けて正月・・・鶴岡八幡宮で神楽の奉納がありましたが頼朝は欠席しました・・・自身に昨年の広常殺害の穢れがあるからとの事です・・・代わりに大和判官代藤原邦通を行かせた様です・・・

同年1月8日 戊戌
上総国一宮神主等申して云く、故介廣常存日の時、宿願有り。甲一領を当宮の宝殿に納め奉ると。武衛仰せ下されて曰く、定めて子細の事有るか。御使いを下され、これを召覧すと。仍って今日籐判官代並びに一品房等を遣わさる。御甲二領を進す。彼の奉納の甲はすでに神宝たり。左右無く出し給い難きが故、両物を以て一領に取り替えるの條、神慮その祟り有るべからざるかの旨仰せらると。

上総国一宮(玉前神社)の神主達がいいました・・・どーやら廣常が生前に願い事があって鎧一領を神殿へ奉納したとの事です・・・それを聞いた頼朝は、大和判官代藤原邦道と一品坊昌寛に鎧を貰ってくる様命令しました・・・

一品坊昌寛の娘は2代将軍頼家に嫁ぎ、栄実、禅暁という2人の息子を儲けました!
頼家が亡くなると三浦胤義に嫁ぎました・・・胤義については【今宮】のページを読んでください!

神に奉納された神宝(鎧)をおいそれと貰い下げる訳には行かないので、鎧二領を差し出して、一領と取り替える作戦の様です・・・これなら神も大満足で祟りは無いだろうと考えたみたいです(笑)・・・鎧にこだわるなぁ・・・

同年1月17日 丁未
籐判官代邦通・一品房並びに神主兼重等、廣常が甲を相具し、上総国一宮より鎌倉に帰参す。即ち御前に召し彼の甲(小桜皮威)を覧玉う。一封の状を高紐に結い付く。武衛自らこれを披かしめ給う。その趣、武衛の御運を祈り奉る所の願書なり。謀曲を存ぜざるの條、すでに以て露顕するの間、誅罰を加えらるる事、御後悔に及ぶと雖も今に於いては益無し。須く没後の追福を廻らさる。兼ねて又廣常弟天羽庄司直胤・相馬の九郎常清等は、縁坐に依って囚人たるなり。亡者の忠に優じ、厚免せらるべきの由、定め仰せらると。願書に云く、


敬曰 上総の国一宮宝前
    立て申す所願の事

一、三箇年の中、神田二十町を寄進すべき事
一、三箇年の中、式の如く造営を致すべき事
一、三箇年の中、万度の流鏑馬を射るべき事

右志は、前兵衛佐殿下心中祈願成就・東国泰平の為なり。此の如き願望、一々円満せしめば、いよいよ神の威光を崇め奉るべきものなり。仍って立願右の如し。
                                         治承六年七月日 上総権介平朝臣廣常

広常が奉納した鎧が頼朝のもとへ届きました・・・見てみると肩紐の所に一通の手紙が結んでありました!
その内容は、頼朝の武運出世を祈る広常の願書でした・・・
謀反の意志は読み取れません・・・頼朝は広常を殺してしまった事を後悔した様ですね・・・
冤罪です・・・でも、自分は頼朝はそれを分かっていた上で殺したんだと思います!
朝廷懐柔路線の頼朝、坂東の覇権を唱える広常・・・
今後の方針を決定付け、揺るぎ無い物とする為には犠牲が必要だったのでは?

頼朝は右兵衛権佐という官職にあった事から佐殿(すけどの)の通称で呼ばれていました・・・
願書はやはりどーみても頼朝の成功を祈っていますね・・・

【吾妻鏡】は寿永2年(1183)の記録が飛んでますので、広常殺害時の記事はありません!
代わりに【愚管抄】の記事を・・・
介八郎廣常と申候し者は、思い廻し候えば、何条朝家の事をのみ見苦しく思うぞ。 功有る者にて候いしかど、誰かは引き働かさんのと申して謀叛心の者にて候しかば、かかる者を郎従にもちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思いて、うしない候にきとこそ申けれ。その介八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりなり。双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頸をかいきりてもちきたりける。まことしからぬ程の事也。
                                                             【愚管抄】

広常の墓と伝わる五輪塔は切通を抜けた先のバス亭の所にあります・・・が、詳しい事は朝夷奈切通のページを見て下さい(笑)

梶原太刀洗水は一応岩肌を削って階段が造られており祠まで行ける様になってますが、その際は滑って怪我しない様に十分気を付けましょう・・・わざわざ登ってまで見る様な物でもないと思いますけど・・・

梶原景時はしとどの巌で頼朝を見逃した事で有名な人物です・・・思惑通り?頼朝が勢力を拡大すると幕府の有力御家人として重用されました・・・政治的手腕に長けていたようですが、とかく悪玉的なイメージを持たれやすい人物でもあります・・・
ジャニーズが義経役をやってた某ドラマでは確か中尾彰が景時役をやっていたと思います・・・なんだかイメージぴったりだなぁ・・・
とにかく讒言が多く、今でいうチクリ魔みたいなイメージですかね・・・結局それがもとで頼朝の死後、鎌倉を追われ駿河で討たれます・・・

【吾妻鏡】に、頼朝が讒訴の罰として景時に鎌倉中の道路を造らせた・・・との記述があります!
ある事ない事言うもんで頼朝もキレちゃったんでしょうか?(笑)
もっとも景時は嫌われ役を買って出ていた説もあり、一概に悪者扱いするのも可哀想ではあります・・・

梶原一族の墓は深沢小学校の敷地内校舎裏手にあります・・・見学の際は不審者に間違われない様にちゃんと学校側に断りを入れてからにしましょうね・・・場所が場所だけに・・・やぐらの中には五輪塔が4基並んでいます。

景時の息子に梶原源太景季という人物がいます・・・佐々木高綱と宇治川の先陣争いをした話は有名ですね!
それについては【御馬冷場】のページに詳しく書いたと思うので、気になる方は参照してみて下さい!

景季は父と共に自害して果てましたが、その彼の片腕が眠ると言われている塚が笛田の仏行寺という寺の裏山の山頂にあります・・・ 
梶原水4 梶原水5
源太塚といわれる直径5メートル程のこの塚・・・見晴らしもさることながら凄い綺麗に整備されています・・・
景季は超イケメンだったとの伝承が多いですが源太塚もイケてますね!
天気も良いし弁当でも食べながら寝転がって本でも読むかぁ!・・・いやいや一応お墓ですから・・・
くそぉ・・・絶対気持ちイイよこれ・・・

絵や彫刻にみる景季は、箙(えびら)に梅の枝を挿している物が非常に多いです・・・箙とは矢筒の事です・・・
一ノ谷の戦い・・・生田の森で箙に梅を挿して奮戦する景季の風流な姿に、源平問わず多くの武者達がみとれた・・・
との話が【源平盛衰記】等に伝えられているからだと思います・・・
この梅はえびらの梅として生田神社境内に現在も根付いているそうです・・・ホントかな?
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続いてしのぶ塚・・・景季の奥さん信夫の墓です・・・
こちらは鎌倉山のとある公園・・・というか町内会の倉庫か何かがある小さな空き地に建てられています・・・
もともとは源太塚の近くにあったとの話・・・何でこんな所に移されたんでしょうか・・・可哀想に・・・
梶原水8 仏行寺建立についてこんな話があります・・・

信夫は夫である景季の死を悲しみ、この辺りで自害したそうです・・・信夫の霊は毎夜夫を偲んでは泣き続け、その声に胸を締め付けられた村人が、その霊を慰めようと仏行寺を建てました・・・

て話です・・・信夫の悲しみの深さと村人の優しさが感じられる良い話です・・・
この仏行寺はまたの機会に紹介したいと思います!
景季が駿河で果てたのが1200年、仏行寺の創建が1495年・・・信夫がいつ自害したのか知りませんが300年近く泣き続けてたんですかね?・・・村人ももっと早く建ててやればいいものを・・・何て事考えちゃいけませんね・・・

景季の墓はとんでもない所にもあります!・・・鹿児島県薩摩川内市上甑(かみこしき)町・・・
なんと駿河では死なず播磨を経て上甑島に着船し中野に没したという話・・・観光協会公認のスポットとして紹介されています!
こうなると何でもアリですね・・・グアム、サイパン辺りにも墓があるんじゃないでしょうか?(笑)

梶原の地名が文献上最初に出てくるのは平安時代の【和名類聚抄】で鎌倉七郷の一つとしてあげられています・・・
梶原郷は現在の梶原に笛田、手広、寺分、常盤、山崎などを含む一帯であったと推測されています・・・

【尊卑分脈】では、村岡五郎忠通の次弟鎌倉権大夫景通がここに住み、梶原氏を称し、また景通の息子景久がこの地に住み梶原といったといわれ、梶原氏出自の地とされています!

【新編鎌倉志】では鎌倉権五郎景政が居住した旧地に、同族の梶原氏が居住したと書かれています・・・

戦国期には北条氏の支配下となり、所領役帳によれば、松山衆太田豊後守が東郡須崎梶原を知行しています・・・
同地は永禄頃は須崎郷に、また【新編相模国風土記稿】では小松郷に属すとあります・・・

寛永十年(1633)より幕府領・・・

昭和23年(1948)鎌倉市の大字となり、昭和58年(1983)2月7日の住居表示で梶原1~5丁目の新町名が生まれた・・・
(参照:鎌倉の地名由来辞典)。
とにかく今回のMVPは、300年泣き続けた信夫に決定です!
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