ブログ 御馬冷場タイトル
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鎌倉市街地から県道204号線を朝比奈方面へ進んで行くと、道路の右側に日本キリスト教団鎌倉泉水教会が見えて来ます・・・そして教会から道路を挟んで向かい側に建っているのが足利公方邸舊蹟の史跡碑であります・・・
足利公方邸舊蹟 足利公方邸舊蹟2
頼朝開府ノ初足利義兼居ヲ此ノ地ニトシテ以来二百数十年間子孫相嗣イデ此ノ地ニ住ス尊氏覇ヲ握リテ京都ニ遷ルノ後其ノ子義詮二代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ義詮ノ弟基氏関東管領トナリテ兵馬ノ権ヲ此ノ邸ニ執ル而シテ之ヲ子孫ニ傳フ子孫京都ニ比擬シテ公方ト僭称ス享徳四年公方成氏執事上杉憲忠トノ不和ノ事ヨリ下総古河ニ遷ルニ及ビテ遂ニ永ク廃虚トナル                             大正九年三月建之 鎌倉町青年會

足利義兼がココに住んでから享徳の乱の流れで五代目鎌倉公方の足利成氏が古河に拠点を移すまで足利氏の子孫はココに住んでたよって事ですニャー!
鎌倉幕府滅亡から100年以上もの間、関東の政権はココにありました!
まぁ今回は特に関係のない歴史だしメンド臭いんでサラッと流して置きましょう・・・

この石碑のある道を進んだ先に目的の物はあります!
御馬冷場1 御馬冷場2
道の先には駐車場があり、その奥にあるのが御馬冷場といわれている物です!
やぐらというか石切場跡の様な直線的な穴です・・・そんな古くからある物なのかどーかについては、かなり疑念がわき起こる穴であります・・・
それにしても鎌倉はMINI率が高い様な気がします・・・狭い道多いしやっぱり便利なのかな?
御馬冷場3 御馬冷場4
そもそも御馬冷場って何なんでしょうか?・・・【新編鎌倉志】を見てみましょう!

又、此の公方屋敷東の山際に御馬冷場とて巖窟の内に水あり。頼朝の馬生唼・磨墨のすそしたる所なりと云ひ傳へて 二所ろあり。浄妙寺より此邊まで足利家の屋敷と見へたれば頼朝に不可限馬も二疋のみならんや。
鶴が岡の鳥居の前より此地まで十五町あり。

公方屋敷の記事の最後にさり気なく付け足す様に記されていました・・・
どーやら頼朝の愛馬2匹の脚洗い場だった様ですね・・・足利屋敷があるんだから頼朝の愛馬2匹に限らず多くの馬が使ったんだろうとも言っています・・・又、岩窟が2つあるとも言っています・・・ 
御馬冷場絵図 公方屋敷の絵図です・・・確かに2つありますね・・・
それと岩窟の前に池の様な物があります・・・
恐らくこの池で馬の脚を洗ったんでしょう・・・

水に浸かれば当然冷えますから酷使した筋肉もクールダウンする事が可能でしょう・・・

ちょっと注意して頂きたいのが地図の左が北って事です!
すると御馬冷場の岩窟は真東にあるって事になります!
ちょっと現在の物と向きが違うんですけど、まぁ絵図ですからね・・・細かいツッコミは無しで行きましょう!
それにしても水量が豊富ですね・・・
御馬冷場5 御馬冷場6
現在の水量はこんなモンです・・・馬じゃなくて自転車が放り込まれています・・・ヒドイ!
水も汚く澱んでいます・・・これじゃぁ馬が病気になってしまいますね・・・

ちなみにもう一つの岩窟はすぐ隣にありますが、お決まりのパターンで車が入ってます・・・
中世では御馬冷場、現在は御車冷場・・・どちらもその時代の乗り物の主流です・・・因果なモンですね(笑)
今後は何の冷場になるんでしょうか?・・・それまで生きていたいモンです!

さて、頼朝の愛馬の生食(池月)磨墨についてですが、有名な馬なのでご存知の方も多いと思います・・・
様々な伝説が残り、墓といわれる物も至る所にあるこの2匹ですが、その中でも一番有名かと思われるエピソードをザックリと紹介させて頂きたいと思います・・・【平家物語】です・・・頼朝木曽義仲を討つ際の話です・・・

【第九巻 生食】

当時頼朝のもとには生食、磨墨という評判の名馬がいました・・・梶原源太景季は生食を譲ってほしいと頼朝に熱心に頼んでいましたが、これはいざという時に自分が乗る馬だからダメといわれます・・・
そして頼朝は、これも生食に劣らぬ名馬だぞといって景季に磨墨を与えました・・・

その後、佐々木四郎高綱が出陣を伝えに参上すると、頼朝は、
『欲しがる者は大勢いるが、その事を承知しておけ!』
と忠告し、高綱に生食を与えました・・・

高綱は『此度はこの御馬に跨り宇治川の先鋒に立ちます!もし死んだとお聞きになったら人に先を越されたとお思い下さい・・・生きているとお聞きになったら宇治川の先陣は私が取ったとお思い下さい』
といって御前を退きました・・・

各々が鎌倉を発って京を目指します・・・
景季は駿河国浮島原で高い所に登り、そこから行軍の馬を眺めていました・・・
幾千万と数を知れず様々な馬たちが通り過ぎて行きます・・・
しかし頼朝から賜った磨墨に勝る馬はいません・・・景季はそれが嬉しくてたまりません!

しかしそんな中、金覆輪の鞍を置き、小房の鞦を掛け、口から白泡を吹かせながら何人もの添人を引きずりながら躍り出てきた馬がいました・・・生食です!
景季は慌てて近寄り誰の馬か尋ねます・・・そして高綱の馬である事を知ります・・・

『これは聞き捨てならぬ!頼朝殿はこの景季から高綱に心移りされたか!恨めしい!・・・都へ上って義仲四天王の今井、樋口、楯、根井と組み合って死ぬか、さもなくば西国へ向かい一騎当千といわれる平家の強者と戦って死のうと思っていたが・・・この様子ではそれも無意味か・・・ならばココで高綱と刺し違えよう!』
景季は嫉妬と失望にまみれながら高綱を待ち伏せます・・・

そんな事とはつゆ知らず高綱は馬を進めて来ました・・・
景季はどー刺し違えようか考えますが、取り敢えず馬を並べ声を掛ける事にしました・・・

『やぁ佐々木殿、頼朝殿から生食を賜って上洛なさる所ですか?』

高綱は頼朝の忠告を思い出し、ピンときます・・・そーいえばコイツも生食を欲しがっていたと聞いた事がある・・・
機転をきかせてこう返します・・・

『やぁ梶原殿、その事なんですが、この先間違いなく宇治や勢田の橋は外されているでしょう・・・とはいえ自分は乗って川を渡れる馬を持っておりません・・・この馬を賜りたいとは思いましたが貴殿が所望されているにも関わらずお許しがないと聞き及び、この高綱ごときがお願いした所で叶わぬ事でしょう・・・それで後日いかなる御咎めをも受けるつもりで殿が大切にされていたこの生食を盗み出してきた次第であります!』

これを聞いた景季は腹の虫が治まり『そんな事なら自分も盗めばよかった!』といい大笑いして去って行きました・・・

頼朝に丸め込まれて磨墨を与えられ、高綱にも上手くかわされて・・・なんてちょろいんでしょう景季って奴は(笑)
同等と思っていた高綱が自分より優遇されていた事実は確かに耐え難い物があるかも知れませんね・・・
これは現代社会でも十分起りえる話です・・・妬みが怒りへと変わり殺害へと繋がるケースは多々あると思います!
でも心移りというか・・・頼朝は景季より高綱との方が付き合い長いんですけどね・・・
しかし高綱はホント世渡り上手ですねぇ・・・

【第九巻 宇治川先陣】

佐々木四郎高綱が賜った馬は背まで四尺八寸ある実に逞しい立派な黒栗毛だったが、馬でも人でもとにかく噛み付くので生食と名付けられました・・・
梶原源太景季が賜った馬も逞しく立派であったが、真っ黒だったので磨墨と名付けられました・・・
いずれ劣らぬ名馬であります・・・

さて、尾張国から追手と搦手の二手に分かれて攻め上がります!
追手の大将軍は蒲御曹司範頼以下総勢3万5千余騎、近江国野路篠原に陣を取ります・・・
搦手の大将軍は九郎御曹司義経以下総勢3万5千余騎・・・景季も高綱も搦手軍です・・・
搦手が伊賀国を経て宇治橋のたもとへ押し寄せると、宇治も勢田も橋を外します・・・
水底には乱杭を打ち込み大網が張られ逆茂木を繋いで流しかけられています・・・
時節1月20日余りの事なので比良の高嶺や志賀の山、谷々の氷雪も解けて川は増水していました!

義経は水面を見渡し淀や一口へ向かうべきか、水勢が衰えるのを待つべきか思案しておりました・・・
そこへ21歳になる武蔵国の住人、畠山次郎重忠が進み出ていいました、

『日頃ご存知ない海川が突如現れたわけでもありますまい!近江の湖の下流ですからいくら待っても無駄でしょう!
治承4年の以仁王挙兵の折に足利又太郎忠綱が渡りましたが、彼は鬼神だったとでもいうのでしょうか?
この重忠が取り敢えず瀬を調べつつ先導します!』


そこへ小島崎から武者二騎が後先になりながらやって来ます・・・景季と高綱です!
景季の方が6間ほど先に進んでいました!・・・高綱はいいます、

『梶原殿ココは西国一の大河ですぞ!馬の腹帯が伸びているようですが締め直してはどーか?』

景季はそれもそーかと思い鐙を踏んで尻を浮かせて腹帯を締め直します・・・
その隙に高綱は景季の側を駆け抜け川へと入って行きました・・・景季は謀られたと思い、すぐに続きこう言いました!

『佐々木殿、名を上げようとして不覚を取りましたな!水底には大網が張られているかも知れませんぞ!』

しかし高綱は太刀を抜き大網をブツブツと切り一直線に渡り切り対岸へ上ります!

宇治川先陣
画:歌川国芳

そして、『宇多天皇より九代の後胤佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣だ!
木曽殿の軍に我こそはと思う輩は出て来い!相手をしてやる!』
と喚きながら突撃しました!

ちなみに景季の乗った磨墨は斜めに押し流されて遙か下流で対岸へ上がりました・・・

またまた景季してやられちゃってますね・・・素直過ぎるのか?・・・単にバカなのか?・・・
いい奴だけど損するタイプの人間でしょうか?・・・友達にするならいいですけど上司がこれじゃぁやだなぁ(笑)
結局宇治川の先陣争いは高綱に軍配があがりました!・・・もう少し読み進めて見ましょうか!

畠山重忠の5百余騎が川を渡ります・・・山田次郎の放った矢が重忠の馬の額に深々と刺さり動けなくなりますが、重忠は馬を降りて激流をものともせず水底を潜り対岸へと辿り着きます・・・
そして岸へ上がろうとした所、後ろからむんずと誰かに掴まれました!

宇治川先陣2
画:歌川国芳

『誰だ?』と問うと重親!』と帰って来ます!
『何、大串か?』・・・『そーです!激流に馬を流されちゃいましたぁー!』
重忠は重親が元服の時に烏帽子親を務めています・・・
『お前はいつまでこの俺に助けられれば気が済むんだ?』といいながら重親を岸の上へと投げ飛ばします・・・

投げ上げられた重親は立ち直ると太刀を抜いて額に当て、
『武蔵国住人、大串次郎重親、宇治川の徒歩立ちの先陣だぁ!』・・・と大声で名乗りをあげました!
敵も味方もこれを聞き、一斉に大笑いしましたとさ・・・
大串次郎重親もちゃんと描かれていますね(笑)
昔の軍記物って主人公格のキャラは絶対ブレませんが、こーいったサブキャラの笑える言動がいいスパイスになっていますよね・・・原文を完全に読み解くのはかなり困難ですが、分かり難い所は想像を働かせながら読み進めるという行為は中々に新鮮です・・・
生食の顔 畠山重忠
それより生食の顔・・・キモイっす!・・・目が逝っちゃってるでしょ?・・・畠山重忠も21才の面じゃねぇ~(笑)

この生食(池月)磨墨の伝説の地は先程もいいましたがホントに腐る程あります・・・
両手両足の指の数ではとーてい足りません・・・そんな中で自分がお勧めするのは大田区です!
大田区の洗足池には池月の、萬福寺には磨墨の立派なブロンズ像が建っています!
やっぱ動物シリーズは石像なりブロンズ像なり欲しいですよね!・・・それに首都圏で交通の便もいい!
田舎道を延々と車で走らされる様な事はありません!・・・何より一度に両方巡れます!楽チン楽チン・・・

そして我が三浦半島にも池月伝説はありますよ!
馬堀町 浄林寺馬頭観音堂
場所はドコかと申しますと・・・横須賀市の馬堀という所であります・・・地名からして何やら想像を掻き立てられますが、
そーなんです!・・・馬堀という地名の由来は頼朝の愛馬である生食(池月)から来ているという話があります!

数年前に横浜横須賀道路が馬堀海岸まで延びましたが、伝説の地はそこからすぐの場所にあります!
何となく胡散臭さも感じますが取り敢えず行って見ましょうか?・・・実際に現場を訪れるのは自分も初めてです!
入口に大津行政センターの立てた案内板がありますので見てみましょう!
浄林寺馬頭観音堂案内図
そーそー今回訪れたのは浄林寺という浄土宗の寺が管理している馬頭観音堂です・・・
その浄林寺の立てた案内板もありますので見てみましょう!
浄林寺馬頭観音堂縁起
もともとは荒潮という名前を付けられて村人に恐れられていた様ですね・・・しかしとんでもない距離を泳いでます!
さすが稀代の名馬というべきでしょうか・・・

何とかココへ泳ぎ着いた荒潮は疲労と喉の渇きに耐えかねて、倒れ込んでしまったそうです・・・
そしてその夢に馬頭観音が現れて『ココ掘れワンワン』的な事を告げたんだそうです・・・
お告げ通りに岩を蹴り崩すと水が湧き出て荒潮は復活できたという話も聞いた事があります!

それより梶原景って誰ですかね?・・・梶原景でしょ!
ネットで誤情報が蔓延するのは仕方ないとしても、現場が間違えるのはホント勘弁して頂きたいモンです・・・
蹄の井跡石碑 浄林寺馬頭観音堂2
案内板の横には蹄の井跡の石碑が建っています・・・ん?・・・
『馬の掘った井戸は霊水が今も尚尽きることがありません』・・・って案内板に書いてあるけど?
今もあるなら別になんて付けなくてもいいんじゃないか?・・・池月所縁の蹄の井でいいんじゃない?
なんかもう現在は無いみたいな感じになっちゃうよ・・・まぁ、別にいいけど・・・
階段を登りましょう!
浄林寺馬頭観音堂3 池月の像
観音堂は山の斜面に建っていました・・・完全コンクリート製です・・・そして手前には生食(池月の像があります!
小さいですが中々躍動感に溢れています!・・・像があるだけで取り敢えずOKですね!
池月の像2 池月の像3
相変わらず目は逝っちゃってますけど、生き生きとしていますね・・・鼻筋の血管が凄いなぁ・・・
筋肉の隆起など生食の逞しさが良く表現されていると思います・・・中々の造形美です!
欲を言えばもう少し大きかったらなぁ・・・これじゃぁポニーより小さいですよ(笑)
馬頭観音群 蹄の井
生食の右側には石塔がたくさん並んでいました・・・全て馬頭観音です!・・・こんなに並んでるの初めて見ました!
そして観音堂の階段脇には小さな穴があり、中を覗いて見ると水が溜まっていました・・・

もしかしてこれが蹄の井なのか?・・・でもそれを示す物は何もありませんでした・・・
馬堀の地名の由来にもなっている物件ですよ!・・・もしコレが蹄の井であるならもっとアピールしなきゃ!
他に水源は無いし・・・やっぱコレだよなぁ?・・・ちょっとスッキリしませんが取り敢えず観音堂へ・・・
浄林寺馬頭観音堂4 浄林寺馬頭観音堂5
石造りの馬頭観音像がいらっしゃいました・・・左の壁には錆び錆びの蹄鉄が懸けられています・・・
なんか臭いと思ったら、腐ってグズグズになった人参が供えられています・・・これじゃ観音様お腹壊しちゃうよ!
ホウキがこんなに沢山あるんだから観音堂ももっと綺麗にしてあげればいいのに・・・
神様だって仏様だって居心地悪くなったら居なくなりますからね・・・もっと大事に敬ってあげないと・・・

蹄の井だけがどーも引っ掛かりますが、もう見る物は無いので帰ろうとした時、下から地元民っぽい方が犬を連れてコチラに登って来ました・・・ちょうどいいので聞いてみると、やはりこれが蹄の井だとの事でした・・・
う~ん・・・やっぱりそーなのか・・・生食の像と蹄の井の石碑の場所入れ替えた方がいいんじゃないかな?
まぁ、取り敢えずスッキリしたので良しとします!

最後に荒潮(生食)がどれくらい泳いだのか地図で検証してみましょう!

より大きな地図で 荒潮(生食)の遠泳 を表示
江見海岸から馬堀海岸まで泳いだとして80km弱でした・・・元気だなぁ・・・やっぱ目は逝っちゃってたのかな?(笑)
途中陸にあがろうとは思わなかったのかな?・・・でもこんだけ泳げるなら宇治川の流れなんて屁でもないですね・・・

峯岡牧じゃなくてマザー牧場からなら近かったのにねぇ・・・

おまけ


木曽義仲は宇治川、瀬田で大敗を喫し落ち延びる所を粟津で討たれその生涯を閉じました・・・
義仲は父義賢頼朝の異母兄である悪源太義平に討たれると、斉藤実盛に預けられ、その後更に中原兼遠に預けられその庇護のもとに育ちました・・・

中原兼遠の息子の樋口兼光今井兼平は義仲四天王と呼ばれる重臣であります・・・
そして兼遠にはという娘もいましたが、彼女は義仲の愛妾となります・・・
この巴御前ですが、女傑として有名なのでご存知の方も多いと思います・・・
【平家物語】では第九巻の【木曽最期】で登場します!
義仲は信濃から山吹という美女を連れて来ていましたが、山吹は病の為に都に残りました・・・

中にも巴は色白う髪長く容顔まことに美麗なり。究竟の荒馬乗りの悪所落とし弓矢打物取つてはいかなる鬼にも神にも逢はうといふ一人当千の兵なり。

と言われるように、色白美人だった様ですが戦場では一武将として奮迅の活躍を見せます! 
巴御前と畠山重忠
上の画像は【源平盛衰記】の宇治川の戦いでのワンシーンかと思います・・・畠山重忠との絡みですね・・・
川の中で馬に乗っているのが木曽義仲です・・・小っさ(笑)
このシーンは【平家物語】にはありません・・・【源平盛衰記】は巴御前の登場シーンが多いです!

【平家物語】の続きです・・・
巴御前は落ち延びた義仲にも最後まで付き従っています・・・
粟津で最後の5騎にまでなり、いよいよ死の間際、義仲はいいます!

『己は女なればこれより疾う疾う何方へも落ち行け!義仲は討死をせんずるなり!人手にかからずは自害をせんずれば義仲が最後の軍に女を具したりけりなど云はれん事も口惜しかるべし!』

義仲から離れ落ち延びるつもりはありませんでしたが、何度も強くいわれた巴御前は、
『木曽殿に最後の軍して見せ奉らん!』と思い敵を物色していた所、武蔵野国で知られた怪力の御田八郎師重が30騎ほどで現れます・・・巴御前はその中へ突っ込みます!・・・まず御田の脇に馬を並べて引き落とし、自分の鞍の前輪に押し付けて動きを封じてから首をねじ切って捨てました・・・
そして巴御前は甲冑を脱ぎ捨て東国の方へ落ち延びて行きましたとさ・・・

これで【平家物語】の巴御前の登場シーンはおしまいです・・・
いくら美人でも大男の首をねじ切ってるシーンを目の前で見たらちょっと引くかな(笑)
巴御前と和田義盛
こちらは粟津の戦いで和田義盛とやりあっています・・・義盛に馬の尻尾を掴まれていますが、大木を振り回して応戦しています・・・マジ引くわぁ~・・・

【源平盛衰記】ではこの義盛とのオモシロイ話があります・・・
東国に落ち延びた巴御前は鎌倉に召されます・・・義盛は頼朝に巴御前を妻にしたいと願い出ますが、一度は敵対した女であるから再び仇をなすとも知れんとして認めてもらえませんでした・・・
しかし義盛は、より強い子を産ませ源氏の世に役立てたいと申し上げ、何とか頼朝の許しを得ます・・・

何だか理由が坂額御前浅利義遠と同じですね・・・強い子孫を残すのも武士の努めのひとつですから、ごく自然の理由なのかも知れませんね・・・

そして2人の間に生まれたのが朝比奈三郎義秀です!・・・彼は一夜にして朝夷奈切通を切り開いたともいわれる超豪傑です・・・和田合戦でも大活躍しました!
もっとも幕府の公式記録である【吾妻鏡】に照らし合わせると、義秀は義仲が死んだ時には既に生まれていますから、後年の創作の可能性が高いともいわれています・・・
でも生没に関しても諸説ありますから一概に違うとも言い切れないと思います!

大木を振り回している巴御前を見ていると、義秀の豪勇振りにも何となく納得がいってしまう自分なのでした・・・

おしまい
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