前回は三浦大介義明の人物像について軽く説明させて頂きました・・・
何故『百六つ義明』と呼ばれているのかは分かって頂けたと思います・・・鎌倉の来迎寺には彼の墓がありましたね!
でも横須賀市にも彼の墓と伝わる物があります!
今回はそのお墓を訪ねてみました・・・ついでに周辺にある三浦氏関連の物件も巡っちゃおう的な流れです!
まぁ、横須賀には三浦氏か海軍カレーしか無いって話もありますけど・・・そんな事ないか(笑) |
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まず最初に訪れたのは義明の墓がある満昌寺です!
義明山・・・この寺に義明関連グッズがある事を確信させられる山号ですね(笑)
場所は衣笠インターから佐原方面へちょっと行った所!
自宅から自転車で来られない距離でもありませんが、友人に聞いた話では駐車場があるとの事だったので、今回は車でお邪魔させてもらいました・・・
やっぱ楽チンだなぁ・・・ |
帰りの体力配分なんか考えなくていいモンなぁ、最近は自転車に乗るのも億劫になって来てます・・・やばいなぁ・・・
電動チャリ購入を本格的に考えなくてはならない年かな?・・・でも性能がなぁ・・・
日本は変な所で規制を入れ過ぎなんですよねぇ・・・パワーがないんじゃ意味が無いしなぁ・・・ |
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アウディの『e-bike』という電動チャリがカッコイイっす!
サイバーな感じがたまりませんねぇ・・・でもサドル部分が細過ぎやしないかい?・・・5分でケツ痛くなりそうだな(笑)
自分も自動車はアウディですが、デザイン、走り共にかなり洗練されたメーカーだと思っています!
自転車もやってくれましたねぇ・・・ホントカッコイイなぁ!
でもこの電動チャリ・・・ただカッコイイだけじゃなくて、性能も凄いんです!・・・なんと最高時速80km!(笑) |
最大トルクも2.500ccエンジンクラスという超ド級のパワーを持つ電動チャリなんです!
ほとんど人がいない田舎道での速度超過取り締まりを好んで行う日本では、発売は不可能な代物でしょう(笑)
また『ウィリーモード』というのがあるらしく、誰でも簡単にウィリー走行が出来てしまうという夢の様なシステム!
セグウェイの様な技術が盛り込まれているって事ですね!
一回の充電で50km走行可の様ですが、フルカーボン製で果たしてお値段はいくらになるんでしょうかねぇ?
もう発売してんのかな?・・・アウディは元々は自転車メーカーですし、原点回帰って感じでしょうか・・・
メーカーの情熱が伝わってくる一台ですね・・・ |
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YouTubeに動画があったので貼って置きます!・・・スマホと連携するのか、カッコイイなぁ・・・
自分スマホ持ってないや(笑)・・・それにテキトーに停めてたら速攻で盗まれそうですね・・・
今乗ってるチャリは盗まれても痛くも痒くも無いです・・・むしろ盗んでくれた方が電動チャリ購入に踏ん切りが付く!
でもさすがにこの自転車は盗まれたら凹みますよねぇ・・・気軽には乗れそうもないなぁ・・・
電動チャリの話はこれくらいにして義明の墓を見に行きましょう! |
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門の手前には『三浦大介義明廟所』と書かれた柱が建っていました・・・アピールしてますねぇ!
『横須賀風物百選』という文字もありますが、そんなもんもあったんですねぇ・・・知りませんでしたよ・・・
そーいえば田浦梅林にも建ってたかな、こんなの?・・・うん多分あったなぁ・・・まぁ、興味ないしどーでもいいや(笑) |
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案内板にある通りです・・・頼朝が義明を弔う為に建てた寺であると【吾妻鏡】にも記載があります!
建久5年(1194)9月29日 丙辰
三浦矢部郷の内に、一堂を建立すべきの由思し食し立つ。故介の義明が没後を訪われんが為なり。
今日仲業に仰せその地を巡検すと。
まぁ、この一堂というのが現在の満昌寺って事なんでしょうねぇ・・・
ちなみに同月、頼朝は歯痛が再発して治療法を聞く為に京都の医者に伝令を出していました(笑)
ウチの近所には歯医者さんが乱立(徒歩3分圏内に5つ)していますが、昔は大変だったんですねぇ・・・
それよりも中興の祖が天岸慧広だったとは・・・彼は鎌倉の報国寺の開山としても知られています・・・
案内板に鎌倉円覚寺第一座とありますが、『第一座』ってのは住職って意味ではありません!
禅宗の修行僧の中で一番偉い人って意味です・・・要はリーダーって事ですね・・・
これを通過して住職への道が開けるんだそうです・・・やっぱ坊さんでも上に行きたいんですかねぇ?
有名寺院の住職ともなるとアホみたいに儲かるらしいですからねぇ・・・
臨済宗相国寺派管長の有馬頼底はご存知ですよね?・・・競馬の有馬記念で知られる有馬一族ですね・・・
何故坊主になったんでしょう?・・・やはり金持ちだけに金の臭いを嗅ぎつけたんでしょうか?(笑)
そんな彼ですが、3年間で2億円の申告漏れがあった様で、ちょっと前に『脱税坊主』とかいわれてニュースなどで取り上げられていましたね・・・
金は美術商などから依頼された揮毫の報酬として受け取っていた様です・・・実際は20年くらい前からやっていた様なのでその金額は2億ドコロではないと思われますが・・・
しかも、かなりヤバイ事をして前科もある美術商とも関係があった様です・・・
そもそも相国寺と金閣寺と銀閣寺の住職を兼務している様ですが、その給料だけでもなんと年間3.000万円はあるって話です・・・まさに『坊主丸儲け!』ですね・・・いつもいってますけど、坊主が金を握るなっての!(笑)
興味のある方はコチラも一読してみて下さい!
胸クソ悪くなるクソ坊主の話は置いといて先へ進みましょう! |
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本堂手前にはツツジが植えられていました・・・そして立札にはこう書いてありました・・・
源頼朝公お手植えつつじ
1194年、当山が創建され、源頼朝公は三浦義明の菩提を弔う為に『つつじ』をお手植えされたものである。
永い年月により、いつの頃かこの木の枝先に頭を入れると『頭痛持ちが治る』と言い伝えられている。 満昌寺
1人でツツジに頭を突っ込んでる姿は見られたくないなぁ(笑)
それよりホントに頼朝が植えたのかなぁ?・・・歯が痛くてそれドコロじゃなかったんじゃないの!? |
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ツツジの奥にあるのは地蔵堂で、中には当然ですが地蔵菩薩が安置されていました・・・
そして居眠りクソ小坊主の石像・・・どっかで見覚えがあるんですけどねぇ・・・え~と、ああコレですね(笑) |
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案内板の通りに進んで行くと御霊神社があります・・・廃仏毀釈の荒波を乗り越えて来たんでしょうか?
ちなみにこの神社は建暦2年(1212)に義明の孫である和田義盛が建てた物と伝わっっています・・・
傍らの石碑には『国指定重要文化財 三浦義明坐像』と刻まれています!
反対側の石柱は摩耗が激しくて完全には読めませんが、三浦大介義明の墓ですよ的な事が書かれている感じです! |
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三浦義明坐像・・・見たいですねぇ・・・とにかく行きましょう! |
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しかし、門扉が閉ざされています・・・マジかよ!?・・・入れないの?
でも鍵は掛かってなかったので、勝手に開けて入らせてもらいました・・・いいんだよね?
デカい石碑には細かい文字がビッシリと刻まれていましたが、メンド臭いのでスルーです(笑)
階段の左側には古い階段の跡がありました・・・塀の右側は茶室の様でした・・・ |
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『御霊大明神』の額が掲げられています・・・これが神社兼宝物殿なんでしょうね・・・火災には強そうな建物です!
『三浦義明公寶物殿 拝観予約受付』と木札に書かれています・・・え?予約せんとあかんのかいな?
扉には鍵が掛かっていて中には入れません、曇りガラスなので中の様子も覗う事が出来ません!
どーしよーかな・・・法要とかやってないみたいだし、頼めば見せてもらえそうだけど・・・
庫裡まで行って戻って来るのメンド臭いなぁ・・・今回はいいか・・・案内板の写真で我慢しよう・・・
2枚の板碑は見れないけど諦めよう・・・もともとココには義明の墓を見に来ただけだし・・・
道標通りに社の背部に向かって進んで行きましょう! |
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『伝 三浦義明廟所』と書かれた立札が立っています・・・一番最初の案内板には首塚であるという説明がありましたけど、首はココで、胴体は鎌倉の来迎寺・・・みたいな事なんでしょうか?
逆ならまだしも、胴体をわざわざ鎌倉まで運ぶでしょうか?
単に分骨しただけなら問題ないですけど、首塚っていわれるとイロイロと考えてしまいますね・・・ |
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案内板の通りならば真ん中の宝篋印塔が義明の物、横の五輪塔が義明の妻の物、手前の石燈籠は江戸時代に子孫が奉献した物・・・って事ですね・・・
瓦塀に囲まれて来迎寺の物よりも立派に見えますが、アチラの五輪塔の方がカッコイイかな(笑)
緑泥石片岩の板碑は秩父原産だと思われますね・・・秩父といえば畠山重忠・・・考え過ぎかな?(笑)
とにかく、無事に義明公の2つ目の墓を拝む事が出来ました・・・思ってた以上にしっかりした物で大満足です!
さて、このまま帰るのももったいないので、軽く周辺を巡りましょう!
取り敢えず墓地に沿って進んだ先にある磨崖仏を見に行きましょうか! |
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墓地を横切らせて頂いて、隣谷戸に出たら坂道を登って行きましょう・・・突き当り右側にそれはあります! |
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これはちょっと分かり難いっすねぇ・・・
磨崖仏っていうと、自分はもっとエンボスな物を想像してしまうんで、これには不満爆発です!
ただの線刻画じゃないですか!・・・ショボイ・・・
ホントに鎌倉期の物なんでしょうか?
近所のオッサンが鎌倉時代風にテキトーに彫った物なんじゃないだろな・・・頼むでホンマ・・・
考古学的見地から楽しめる方なら問題ないと思いますが、そーでない人はわざわざ来なくてもいい物件かも・・・ |
坂上って疲れちゃったなぁ・・・まさに骨折り損のなんとやら状態です・・・まぁ、今日は車だし、これ位は許してやるか・・・
次に目指すのは近殿神社です・・・気を取り直して行きましょう!
すぐ近くなので、申し訳ないですが満昌寺の駐車場に車は置かせて貰います・・・
その先にある薬王寺旧跡は満昌寺が管理してるんじゃないのかな?・・・廃寺になった時にやぐらから貴重な板碑を持ってきたって案内板にもありましたし、関連物件って事で駐車OKでしょう! |
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本堂と山門の間の道を佐原方面へ進んで行くと・・・近殿神社に到着です!
なんて読むんでしょうか?・・・案内板にもルビはふられていませんでした・・・なんて読むんだよぉ?
すぐに友人に電話して聞き出します・・・『ちかた神社』と読むらしいです・・・『そんな事で電話してくんなよぉ!』との罵声を浴びましたが、スッキリしたので全然OKです(笑) |
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境内には老人生きがいの家なる物がありました・・・生きがいを見つけられなかった老人が集まるんでしょう・・・
なんか名称が重いっすね・・・開き直って『ダメ老人の家』とかにした方が明るくて良さ気な感じするけど(笑)
社殿は何だかバンガローっぽい感じで微妙ですが、祭神は義明の孫の三浦義村です!
和田合戦(1213)で従兄弟の和田義盛を裏切り北条義時に付いた人物ですね・・・
3代将軍実朝を暗殺した公暁とも内通していたのではないかともいわれています・・・
和田合戦に於いては裏切ったという一言で片付けるのはちょっと短絡的かも知れません・・・ |
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上図は自分がテキトーに作成した義明から泰村までのザックリとした系図です・・・
jpegに変換して拡大したら見難くなってしまいましたが、文字は読み取れると思うので良しとさせて頂きます(笑)
赤字が三浦氏嫡流です・・・本来なら長男の義宗が家督を継ぐべきでしょう!
しかし実際は、次男の義澄が継ぎました・・・これは義宗の母の身分が低かったからとか、義宗が若くして死んだからとかイロイロいわれていますが、とにかく家督を継いだのは次男の義澄です!(義宗が継いで、その死後に義澄が継いだって話もあります)
杉本太郎こと義盛は家を継がず弟の義茂に譲り、自分は和田の地に移り、和田氏を名乗ります・・・
初代侍所長官を務めたり、幕府の重要人物として活躍します・・・
史書によっては義盛を『三浦の長老』と記す物もあり、三浦氏の棟梁とも見られていた節もあります・・・
そんな感じですから嫡流の義村とは表立った抗争の様な物はありませんでしたが、水面下では色々な駆け引きがあったのではないかとも想像出来ますね・・・親兄弟の間柄といえども油断は出来ない時代ですから・・・
現に義村が承久の乱に置いて、上皇方に付いた弟の胤義の首を奪い取り北条泰時へ届けたという話は【今宮】のページでさせて頂きました・・・
とにかく近殿神社の祭神、三浦義村は結構波乱万丈な人生を歩んでいますね・・・ |
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社殿に向かって右側には石宮と呼ばれる物がありました・・・ |
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そーですか・・・じゃぁ石段下右側の由緒書きを見せてもらいましょう! |
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大正2年(1913)の一村一社のお触れで衣笠神社に合祀され、第二次大戦後に衣笠山じゃ遠いからって事で再び現在地に戻されたって事ですね・・・ややこしい・・・あっち行ったりこっち行ったり大変ですね・・・
衣笠神社に大量合祀された後に各地に戻された訳ですが、池上神社などの様に合祀した上で土地名を冠して戻された物もあります・・・祭神も合祀した分だけ増えて行きますね・・・
でも近殿神社の場合は祭神は三浦義村のみ!・・・他の神社は石宮という形でココへ集められていますが、合祀しなかったんですね・・・ |
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出たぁ~!覗き穴システム!・・・でもガラスだし、普通に内部を拝見できますんで全く意味が無いかと・・・
これでは覗いてるドキドキ感は半減・・・というか皆無ですね(笑) |
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境内には何かを差し込んで立てていたであろう礎石がありました・・・
これが何なのかは以下の案内板の通りです・・・
今日は何だか案内板が多くて疲れるなぁ・・・
三浦大介義明公八百年祭実行委員会ってのがやたら張り切ってるなぁ・・・気持ちは分かるけど・・・
目が疲れて来ました(笑)
まぁ、何にも無いよりはいいですけどね!
テキトーに流して行きましょう・・・ |
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薬王寺旧跡の道標があります・・・親切ですねぇ・・・
道標の下には島崎長治とかいう大矢部出身の方の漢詩とそれについての説明がありましたが、昭和38年(1963)に旧薬王寺の廟域に参拝、感慨胸中を来往し、即吟された物だそうです・・・必要かなこの案内板?
こんなの建てるよりも近殿神社にルビをふって置いた方がいいんじゃないか?
皆が皆、普通に読めると思ってるのかな?・・・それとも、もしかして読めないのは自分だけなのか?(笑)
まぁ、取り敢えず薬王寺旧跡へは道なりに進んで行くだけでOKです!でも見落とさない様に気を付けて下さいね・・・
ほらココですよ!ココで左に曲がります! |
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満昌寺方面から来ると見落とす可能性があります・・・実際自分も一度見落として戻ってきました(笑)
薬王寺旧跡の黒い石標の背後には、『三浦札所四番 薬師如来 薬王寺』と刻まれていました・・・
現在はこの薬師如来は満昌寺に移されたとの事です・・・ |
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開基は和田義盛だったんですね・・・でも嘉永元年(1848)刊行の【三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡】という地誌には以下の様に記されていました・・・
禅宗 薬王寺 同村満昌寺末也
此寺は平朝臣義澄の開基也。正治二年正月二十三日、義澄七十四才にて逝去也。
法名 薬王寺殿義澄公大禅定門 東鑑に元暦二年正月十二日平家追討として蒲冠者範頼公に随ひ三浦介義澄子息平六兵衛義村、和田小太郎義盛、同三郎宗実、同四郎義胤、大多和三郎義成其外の勇士等長門の国え到り、又同三月二十九日、九郎判官義経兵船を催し壇の浦さして纜を解く。三浦介此由を聞、只壱人義経公に参会し命を請て壇の浦より乗船す。是衆人に勝れし忠勤なりと義経伝有りと見へたり。
開基は三浦義澄だとおっしゃってます・・・義盛?義澄?どっちなんでしょう?・・・メンド臭っ!(笑) |
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右上の写真の石標はどーやら道標も兼ねていた様です・・・『三浦荒次郎・・・墓』の文字が見て取れます・・・
そして『西隣 近殿明神 東隣・・・』って感じです・・・摩耗していて読めませんが東隣は恐らく円通寺でしょうか?
深谷山圓通寺
是は三浦長門守為通の開基にて、前は寺有しが大破に及びて今は廟所のみ残る。此山の絶頂に大なる洞穴有り。
唐仏の瀧見観音を安置す。此観音常には清雲寺に有りて六拾壱年目毎には深谷山に移して開帳有り。文化十酉年迄十一度開帳すといふ。此山中央より頂迄洞穴夥しく有りて、其穴毎に五輪あり。是三浦一党の墓也といふ。其姓名清雲寺の記にあり。
宝物 法華経曼陀羅、圓満院宮御筆、三浦為通公御太刀一振、拾六善神掛物 弘法大師の筆、鳥海弥三郎矢根、為次公筆短冊弐枚、定家卿御直筆、御歌巻物、聖徳太子御作、阿弥陀如来、恵心僧都筆、勝軍地蔵、三浦為次経仏、
恵心の作薬師如来、三浦義澄公太刀一振
宝物が結構あったんですね・・・滝見観音の清雲寺へは後で行きます!
鳥海弥三郎って鎌倉権五郎景政の左目を射抜いた人物でしたっけ?・・・でも景政はその矢を抜かず、仕返しの矢を弓につがえ逆に射殺したと記憶しています・・・矢根ってもしかしてその時の鏃なんでしょうか?だったらスゲーなぁ!
景政に刺さった矢なのか?・・・鳥海に刺さった矢なのか?・・・気になりますなぁ! |
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義澄の墓と呼ばれる所は瓦塀で囲まれています・・・先程の義明の墓と同じですね・・・
同時期に整備されたんでしょうか?・・・古そうな五輪塔が沢山あります、そして、 |
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なんか面白いですねぇ・・・宝篋印塔が可愛らしくちょこんと乗ってて・・・何なんでしょうコレは?(笑)
義澄は平治の乱(1159)では源義朝(頼朝の父)に従軍し上洛しています・・・結果はご存知の通り平清盛軍に圧されて近江で義朝と別れ三浦まで戻ったとされています・・・
その後大番役で義澄は平家政権の京都に再び上洛します・・・千葉常胤の息子六郎胤頼も上洛していました・・・
治承4(1180)年5月に勃発した以仁王の乱に於いては、義澄、胤頼ともに大番役の延長と京都の守備を命じられています・・・以仁王・源頼政が討ち取られると、役を解かれて帰国が許されました・・・
義澄と胤頼はその帰り道に頼朝のもとを訪ねて何やら閑談した様です・・・以下【吾妻鏡】からです・・・
6月27日 戊申
三浦の次郎義澄(義明二男)・千葉の六郎大夫胤頼(常胤六男)等北條に参向す。日来京都に祇侯す。
去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。
数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。
御閑談刻を移す。他人これを聞かず。
これは何か臭いますねぇ(笑)・・・義澄と胤頼は京都の状況や、打倒平氏の挙兵の打ち合わせをしていた可能性がありますね・・・てゆーかしたんでしょうね・・・
ちなみに以仁王の挙兵計画は、5月10日に下河辺庄司行平によって、既に頼朝の知る所となっていました・・・
そして8月17日に頼朝が挙兵します!・・・当初、三浦一族は海路を使い頼朝と合流する手筈でしたが、台風の影響でままならず、やむなく陸路で進みますが、丸子河(酒匂川)が氾濫していて渡る事が出来ず、ウダウダしている内に頼朝軍は敗走し、三浦一族も仕方なく領地へと引き返したって話は前回させて頂いたと思います・・・
義澄も色々と頑張ってたんですねぇ・・・えらいえらい!(笑)
さて、すぐ近くに薬王寺の山門跡があるとの友人情報をゲットしていたので、ついでに寄ってみましょう・・・ |
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どーやらココの様です・・・すぐ近くにあったのに良く分からずにグルグルと回ってしまいました(笑)
デカい木が目印の様です・・・
もっとアピールが欲しいです・・・ココにあるでぇ~て・・・
あんだけ乱立していた案内板がココにはありません!
先程の近殿神社の石宮の案内板要らないからココに設置して欲しいです! |
又は、老人生きがいの家の輩に作って貰うっていうのはどーでしょう?
地域の為に何かが出来るなんて素晴らしいじゃないですか?・・・テキトーに集まって茶を飲みながら菓子をつまんで、くっちゃべるってのは生きがいとはいわない・・・『老人よ、目覚めよ!』(笑)
ただし、元気過ぎる老人も困りものかな・・・ほどほどにね! |
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石標には『薬王寺山門駒繋石』の文字が刻まれていました・・・どれが駒繋石なんでしょう?
それらしい石は2つありましたが、木に繋いだ方が早そうですね(笑) |
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薬王寺旧跡(義澄墓)の道標は結構目に付く所にあるんですが、やはり満昌寺方面から訪れる人の事を考えると、もっと分かり易くしてもいいかなと思いました・・・
老人生きがいの家に集まる人達に辻々に立ってて貰うってのはどーでしょうか?
あんま老人をいじると怒られそうだな・・・これくらいにして置きましょう(笑) |
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焼肉ビール苑の看板を発見!
焼ビール苑入口になってますけど(笑)
ビールは冷えてる方がいいです・・・
昔は逗子にもあったなぁ・・・すぐ無くなったけど・・・
一度だけ中学の同級生と行ったなぁ・・・懐かしい・・・
お腹空いたなぁ・・・ひとりじゃ入り難いけどランチして行こうかなぁ・・・平日だしね・・・家族連れとかはいないでしょう! |
意外と営業の方達がひとりで食べてるかも知れません・・・よし、入るべ!
昼飯時なのに駐車場に1台も車が停まって無い時点で多少は怪しさを感じてはいましたが・・・
改装中らしいです・・・マジすかぁ?・・・食べる気満々だったのにぃ!
昼飯は諦めて次の目的地である清雲寺へ向かいましょう!・・・ココから道向かいのちょっと行った所にあります!
友人情報によると取り敢えず駐車場はあるとの事だったので、満昌寺に戻り車で向かいます! |
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寺の入口はこの細い道の先の様ですが、駐車場は他にあるんだろうと思ってスルー・・・でも道は細くなる一方です・・・
結局身動き取れなくなる前に地域住民の駐車場らしき所でUターンしてココに戻ってきました・・・無断侵入失礼!
やだなぁ・・・ココ通るの・・・でも道の先には停まってる車が見えるし、覚悟を決めて進みます!・・・結構ギリギリです!
何とか通り抜けると下り坂になっていて、どーやらそこが駐車場のようでした!・・・結構な斜度です・・・ |
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『斜面です』との案内がありますが、んな事いわれなくても分かるっつーの!(笑)
車から降りるのに一苦労です・・・こんなに腹筋を使う駐車場は初めてです・・・
頭から停めた方が楽だったかな・・・
チクショーあいつズルい停め方しやがってぇ!(笑)
もう二度と自分の車では来んぞっ!
絶対だ!・・・Never! |
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おっ!また『横須賀風物百選』の標柱が立っています・・・『清雲寺滝見観音像』と記されています!
滝見観音も選出されていたんですね!
先程の円通寺の説明だと61年毎に開帳されるとの事でしたが、現在もそーなんでしょうか?
横には案内板がありました・・・汚いですが見てみましょう! |
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楊貴妃観音と作風が似てるのかぁ・・・
でも泉涌寺は行った事ないなぁ・・・
左の写真は鎌倉の浄光明寺の楊貴妃観音です・・・
真言宗泉涌寺派準別格本山!
このサイトでも【覚賢塔】や【網引地蔵】のページなどで紹介させて頂いた寺です・・・
でもこの楊貴妃観音は石像なので分かり難いですね(笑) |
泉涌寺の公式サイトに写真があるので気になる方は見て下さい・・・
まぁ、この寺には滝見観音を見に来た訳ではないのでどーでもいいです(笑)
ココには三浦為通、為継、義継の三代の墓と伝わる五輪塔を拝みに来ました!
為通と義継の物は円通寺から持って来た物らしいですが、初代から3代までの墓が一度に拝めるなんて素晴らしい! |
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清雲寺は本堂と庫裏だけの小さな寺です・・・
てか、あれ!?また立ってますよ!?
『横須賀風物百選』の標柱が・・・
『三浦氏三代の墓』と書かれています・・・なんと、これも選出されていたのか!・・・何をもって風物としているのか全く分からなくなってしまいました(笑)
何で百個も選んだんでしょうか・・・選ぶのはいいとしても風物というフレーズには違和感を感じてしまいます・・・ |
同じ所に2本も標柱を立てて・・・横須賀市は金あるなぁ!・・・そもそも横須賀風物百選ってホント何なんでしょ?(笑)
答えは図書館にあります!・・・イラスト付き説明文のゴツイ本がありますので興味のある方は一読してみては?
どーやら昭和52年(1977)に市政施行70周年事業として選定された物の様です!
それにしては標柱のプレートとかがピカピカで新しい感じですよね?・・・修繕したのかな?・・・横須賀市は金あるなぁ! |
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まだまだ案内板があります・・・ホントに目が疲れて来ました・・・ |
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どや顔の毘沙門天と、北陽の虻川チックな地蔵菩薩・・・なんか顔がムカツクなぁこのお地蔵様(笑)
かつては円通寺から持ってきたいぼ地蔵ってのもあったらしいですがどんな顔してたんでしょうか? |
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宝篋印塔が猫足台の上に乗っています・・・なんかシュールだなぁ(笑)・・・なんで乗せたんだろ?
どーでもいいんですが文化財の案内板ばっかで、寺の縁起を記した物が無いんですけど・・・
ちょっとおかしいでしょ!・・・取り敢えずは縁起じゃないの?
アホみたいに案内板や標柱が立っていますが、寺の由緒が全く分からん・・・テメーで調べろって事ですかね?(笑)
ご本尊の滝見観音像は県の重要文化財に指定されており、もとは同じ大矢部町にあった円通寺のご本尊であった。円通寺は三浦為継の開基で滝見観音は為継が奥州より勧請した中国製の尊像である。円通寺が廃寺となったため清雲寺に移遷され、天保3(1832)年ご本尊とされた。それ以前は木造の毘沙門天像が本尊であった。(鎌倉時代の作で県重文)滝見観音の材質は魏氏桜桃の寄木造りで像高88㎝の半跏の坐像。この他、本堂裏に三浦為通・為継・義継の廟所がある。
三浦三十三観音公式サイトに載っていた清雲寺の説明です・・・この寺は第19番札所になっているそうです!
Made in China・・・中国製って最近の物は敬遠されるけど、古い物は人気がありますよね(笑)
さっきの円通寺の説明だと、通常は清雲寺に置いていて、61年毎に現地に戻して開帳される・・・って感じだと思うんですけど、状況がイマイチ良く分かりませんね?
円通寺が廃寺になった現在なら分かりますけど、何で当時からそんな事をしていたんでしょうか?
識者の教えを請いたいトコロであります・・・
禅宗 清雲寺 鎌倉圓覚寺末 御朱印二石
此寺は為通の嫡男三浦平太郎為次の開基なり。天仁元甲子年七月二十二日行年五十六歳にして卒す。
法名 清雲院殿天山為次大禅定門 此為次は権五郎景正に頼まれ鳥海が射たる矢を抜んとするに抜ず。依て膝を掛て抜んとす。景正怒て勇士矢に当て死するは常也。抜ずんば止べし。我を足下に掛たるは奇怪也とて短刀を以て刺んとす。為次感じて無礼のよしを詫て抜と太平記に見へたり。為次の息を三浦太郎義次と云。平治元年二月二十二日行年九拾三才にて卒す。法名 圓通院殿大勇義次大禅定門 右深谷山圓通寺廟所破壊せし故寛政年中三浦家より再興あり。
【三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡】からですが、開基は三浦為継の様ですね・・・鎌倉権五郎景政との有名なやりとりが記されています・・・
寺に関する詳しい事は【新編相模国風土記稿】や【市史】を見た方が良さそうですね・・・ |
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『東国花の寺百ヶ寺』、『秋の七草第一番女郎花の寺』、『大本山円覚寺百観音霊場』・・・
『横須賀風物百選』も2つありますし、なんだか『百』に縁がある寺の様ですね(笑)
ブリキで出来た三つ引き両です・・・三浦氏の家紋ですね・・・それはいいんですけど、
法要及非常用です
と、プラスチックのプレートに書かれています・・・非常用って何なんですかね?意味が良く分からないっす!
非常事態に使うのかな?・・・例えば地震や火事の時にこれを持って近所を走り回るとか(笑)
それとも非常時の炊き出しなどで五徳の様に使うんでしょうか?・・・非常時の娯楽としてフリスビーの様に・・・等々・・・ |
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謎の三つ引き両は置いといて、墓を見に行きましょう!・・・板碑もあるんですね、それは楽しみ!
本堂裏へと通じる道を進みましょう・・・ |
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案内板を読んでいた時から嫌な予感はしていたんですが・・・墓へと続く道には門があり、鍵が掛かってます・・・
マジかよぉ・・・いちいちお願いして見せてもらわにゃならんのか・・・メンド臭ぇ~・・・
無理やり開けて入っちゃおうかな・・・でもALSOKだし、レスリングの吉田沙保里が目から変な光線出して見張ってるかも知れないしなぁ(笑)・・・やめて置こう・・・
もぅ今日はいいやぁ・・・東国花の寺百ヶ寺巡りの時にでも見せて頂こう・・・いつになる事やら(笑)
さてココから次に目指すのは腹切松公園です!・・・前回話しましたが、三浦大介義明が腹を切ったと伝わる場所で、現在は公園となっている様です・・・友人情報では清雲寺のすぐ近くだとの話でした・・・
衣笠城から清雲寺にくる途中で腹を切ったと思われますから、ココよりも西側にあるのかな?
駐車場の前を散歩中らしきオッサンが歩いていたので、近くに公園がないか尋ねてみると、親切に教えてくれました! |
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ホントにすぐ近くにありましたよ、大矢部中尾公園・・・って違うべやぁ!・・・松なんて無ぇし・・・
くそぉ~ちょっと方角がおかしいと思ったんだよなぁ・・・腹切松公園っていわなかった自分にも非があるけど、観光客っぽい奴が清雲寺から出て来て公園って聞かれたら、普通は腹切松の事だと思うべやぁ!
わざとなのか?・・・天然なのか?
よー分かりませんが、とにかくあのオッサンに教えられた通りに来た自分は現在大矢部中尾公園にいます(笑)
ラチがあかないので再び罵倒される事を承知で友人に電話をかけました・・・
すると先程とは違い普通に場所を教えてくれました・・・なんかいい事でもあったのかな?(笑)
やっぱスマホ必要かなぁ・・・地図ってかなり使えるよなぁ・・・う~む・・・
腹切松公園ですが清雲寺から結構離れてました・・・おまけに東側です・・・義明は通り過ぎたんでしょうか?
まぁ、場所が分かったから一安心です・・・ |
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いやぁ~ちょっと違う公園へ寄り道しちゃいましたが、無事に到着であります!・・・松もちゃんとありますね!
真ん中の大きな石柱には『三浦大介戦死之處』と刻まれています・・・
ココで乗っていた黒雲(愛馬)が止まり、それを天が定めた死に場所と受け止めたんですね・・・
でももしかしたら黒雲は清雲寺を通り過ぎちゃったよって教えたかっただけだったりして(笑) |
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この案内板は経年劣化で字が薄れていて読み難いですが、自分の勘違いに気付かせてくれました!
赤線の部分・・・衣笠城から円通寺へ向かったとあります!・・・清雲寺じゃなかったんですね!
自分はとんだ勘違いをしていました・・・円通寺なら現在の横須賀弾薬補給所の所なので、ココから更に北東方面ですからおかしな事にはなりませんね!・・・納得です! |
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【三浦大介の歌】なる物もある様です・・・最後の一節が軍国主義な感じがしますが、こんな歌があったなんて・・・
ビックリです・・・やはり一人で城に残ったカッコイイ方のエピソードが使われていますね!
『城に残るといったけど 無理やり手輿に乗せられて 敵中一人置き去りの 身ぐるみ剥がされあらイヤん・・・』
では締まりませんもんね(笑)
ちなみに現在の松は当たり前ですが当時の物ではありません・・・小さ過ぎますもんね・・・
先程のマニアックな地誌には以下の様な記述がありました・・・
御霊木 是は大介の腹切松と云。今は枯てなし。 轡田 是は大介の乗馬此所にて倒れしといふ。
山頂宮 是は大介の乗馬を祭るといふ。
やっぱ枯れちゃたのかぁ・・・残念ですね・・・
最後に満願寺へ行きましょう!・・・佐原十郎義連の墓があります・・・清雲寺で三浦氏三代の墓を見れなかったのでコチラでリベンジと行きましょう!
義連は義明の息子で三浦郡佐原に居を構えたので佐原氏を名乗りました・・・
義連というと一ノ谷の戦い・・・鵯越の逆落としでしょうか・・・崖から奇襲をかけるヤツですね!
実際に戦ったのは鵯越ではないとする説が主流の様ですが、その辺は地元じゃないんでスルーして置きましょう(笑)
【平家物語 第九巻 逆落】より・・・
大将軍九郎御曹司義経殿は、平家の城郭を遥かに見下ろしておられたが、馬を落としてみようと何頭か落とされた。
途中で転げ落ちる馬もあり、あるいは途中で脚を折って死ぬ馬もあった・・・しかしそんな中、鞍置き馬が三頭、無事に降り立って越中前司盛俊の館の上で身震いしながら立っていました。
義経殿は馬は乗り手が心して落とせばそれほど怪我はしないようだ、さあ、落とせ!おれを手本にしろ!
と、まず三十騎ほどを駆け落とすと、三千余騎の兵たちも皆続いて落としました。
小石の混じりの砂なので、流れるように駆け下りて、二町ほどさっと落として壇のある所で止まりました。
そこから下を見下ろすと、苔生した大きな岩盤が、釣瓶落としの様に十四、五丈程下っています、そこから先へはとても進めそうになく、また引き返す術もなかったので兵たちは、もはやこれまで、と落胆していると、
三浦の佐原十郎義連が進み出て、『我らの土地では、鳥一羽を追うにも朝夕この様な所を駆け回っています、ココは三浦の馬場と何も変わらない!』というと、真っ先に駆け落としました、それに大勢が続きました。
後から続いて落としてくる者の鎧の鼻は先に落ちていく者の鎧兜に触れるほどでした、あまりの恐ろしさに目を閉じて落とす者もいた、かけ声も静かに、馬を励ましながら落としました。
とても人間業とは思えず、まるで鬼神の仕業のように見えました。
三千余騎は、落とし終わらぬ内に鬨の声をどっと上げ、山彦がそれに応えて十万余騎程に聞こえました。
宝治合戦(1247)で三浦氏は滅亡しますが、唯一盛連系佐原氏は北条方として戦った為に盛時が三浦氏再興を許されています・・・ |
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満願寺へ到着ぅ~ってあれ!?・・・駐車場が・・・
あるんですけど虎ロープが張られています・・・
なんだよぉ~一般参拝者は使えないのかよぉ・・・
くそぉ~細い道通ってココまで来たのにぃ~!
何気に車が結構通るし、あんまりウダウダやってる時間はないなぁ・・・素直に諦めるか・・・
友人情報では寺の駐車場に普通に停められるって事だったんだけどなぁ・・・これは普通ではないでしょ!
最後がコレかぁ・・・ |
なんだか締まらない行程になってしまったなぁ・・・やはり車の場合は自分でちゃんと下調べして来ないとダメだな・・・
てー訳で満願寺のHPを覗いてみたら、普通にP有りみたいに地図に描かれていました!
何なんだよぉーもぉー、虎ロープ張ってあったじゃんかよぉ!使えるのか使えないのかどっちなんだよぉ?
まぁ、その内衣笠城址とかも行くだろうし、その時にこの辺もまとめて回るとしますか・・・
すぐ近くには巴御前の墓もあるし!
今度はバイクで来た方がよさそうですね・・・やっぱ機動力は車のそれを遙かに凌駕します!・・・バイク最高!
雨の日以外はね(笑)・・・雨は顔が痛いです・・・でもアメリカンでフルフェイス被るのもなんだかだし・・・
天気の見極めって難しいですね・・・ |
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ただ帰るのも負けたみたいで嫌だったので、ココへ来る途中見つけた沙羅というパン屋を訪問してみました!
住宅街の細い道を通っていると『溶岩窯のパン工房』という看板が目に飛び込んできます・・・何でこんな所で営業してんだろって感じの場所です・・・
『さら』かと思ったら『しゃら』というらしいです・・・
以前の仕事場にサラってアメリカ人がいました・・・ |
これまた韓国人の金さんってのがいて、金さんがサラを呼ぶ時に『シャラしゃん』っていうんですよね(笑)
なんか思い出してしまってひとりでニヤニヤしてしまいました・・・結構怪しい奴ですね・・・気を付けねば!
韓国人はサ行に弱いみたいですね『しゃしぃしゅしぇしょ』になる様です・・・どーでもいい話でしたね(笑) |
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店の商品に『沙羅ブレッド』ってのがあって 『しゃらぶれっど』っていってる金さんの顔が再び浮かんで来て、またまた今度は店内でニヤニヤしてしまいました・・・
相当なパン好きか、ただの変態にしか思われないですよね・・・やばいなぁ・・・
ハーフ系の美人さんがレジ打ちしてましたけど実はあの人が沙羅さんだったりして?
大納言ロールとラウンドチーズ・・・ハーフサイズで1本¥714でした・・・
お店のHPだと税込¥680になってるけど値上げ?・・・しかもこれ自分はハーフサイズだと思ってなかったんですよ!
更に下のサイズがあって、そこに置いてあったから買ったんですけど・・・レジで金額聞いてビックリしちゃいました・・・
5点で¥1922!・・・これは痛い!予想外の出費です!・・・でももうメンド臭かったんでそのまま購入しました(笑)
味は美味いと思います・・・大納言ロールとラウンドチーズはかなりの重量感があります・・・重い!
これはあれだ・・・武器だ!・・・コイツと和楽の大判焼きがあれば大抵の敵は倒せそうです!
腹減ったら食えるし、中々いい武器を見つけました(笑)
予約販売が多い店みたいですね・・・売り場の半分は予約済みのパンが並んでいました・・・
隣りにはイートインもある感じでした・・・
ネットで調べてみると、なんとそこでパンの食べ放題もやっているらしいじゃないですか!
しかも60分制限で¥525・・・スープ、ドリンクも飲み放題という話!・・・凄いなぁ、でもお店のHPにはそんな事一言も書いてないです・・・確かに凄い狭いスペースだし大々的に宣伝してお客さんが押し寄せて来たら、とんでもない事になるでしょうねぇ・・・それで知る人ぞ知るって感じで実施してるのかな?
何にしても、もう一度訪問して食べ放題を体験してみない事には・・・ですねっ! |
より大きな地図で 百六つ義明 を表示 |
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おしまい |