ブログ 網引地蔵タイトル
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泉ヶ谷にある浄光明寺には網引地蔵といわれる地蔵菩薩がいらっしゃいます・・・今回はその石造の地蔵菩薩を紹介させて戴きたいと思います・・・古い割に綺麗な石仏で、一見の価値はあると思います!
特に興味の無かった時分は、綱引地蔵なんて運動会みたいなお地蔵さんだなぁ・・・と思っていましたが、字が違いますからね!網引地蔵です!・・・皆さんもお間違えなきように(笑)・・・では、お地蔵様までよーいドーン!

裏山にあるので阿弥陀堂の所で¥200払わないと見れませんが、阿弥陀三尊と三世仏を見ればもう元は充分とれてると思います・・・ココの周りにもやぐらが結構ありますが今回はスルーして先へ進みます!
浄光明寺階段1 浄光明寺階段2
阿弥陀堂の先に裏山へと続く階段があるので登りましょう!・・・取り敢えず登ります!・・・すると、
網引地蔵1 網引地蔵2
平場にでます・・・もう見えていますね・・・あっという間に目的地へ到着です!・・・網引地蔵と刻まれた石柱があり、その隣には『市指定 有形文化財 石造地藏菩薩坐像一軀』と書かれた柱が建っています・・・
やぐらは柵で囲われていて内部に侵入する事は出来ませんが、中々興味深い構造です・・・
網引地蔵3 網引地蔵4
網引地蔵はやぐら中心奥部に安置されています・・・イイ感じの石仏です・・・左手には宝珠を持ち、かつては右手に錫杖を持っていたんでしょう・・・ちょっとスマした感じにも見えますが、優しさも感じさせるお顔をしてらっしゃいます・・・
頭の形に少し特徴があるでしょうか・・・

案内板がないです・・・阿弥陀堂のオッサンにもらったパンフレットに網引地蔵の解説があります・・・
名前から何となく由緒が想像できますがせっかくなんで見てみましょう!

(市文)石造 地蔵菩薩坐像(網引地蔵)
鎌倉屈指の石仏で、漁師の網に懸かり海から引き上げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。
背中の銘文に当寺第三世長老性正和尚が正和二年(1313)に供養した事が記され、冷泉為相によって造立されたとも伝えられています。

アレ?・・・想像と違ったなぁ・・・自分の想像では、
その昔由井の浜に年老いた一人の漁師がおったそうな・・・体の自由が利かずロクに漁にも出られない・・・
このままでは年を越せるかどうかも分からんな・・・などと考えながら浜へ向かうと、なんと一人の若者が自分の網で漁をしているではありませんか!・・・その後も老人は若者と漁を続け大漁続き!無事年を越せましたとさ・・・
で、その若者は実は老人が日頃から崇敬していた地蔵菩薩の化身でしたって設定(笑)

だったのに・・・網にかかって引き上げられただけだったとは・・・全然網引いてないじゃんか!、むしろ引かれてるよ!
どーせなら腰越の勧行寺の文殊菩薩みたいに海中出現地蔵菩薩にした方が分かり易いしカッコイイのでは?
無駄に貧相な想像力を使ってしまったんで疲れちゃいましたよ(笑)・・・

しかし冷泉為相が造ったって話を採ると名称に何の関連性も無くなってきますね・・・為相地蔵ですね(笑)

もっと詳しい由緒は自分で調べるしかなさそうです・・・
つ~わけで【新編鎌倉志】を覗いてみます・・・

【綱引地蔵】
阿彌陀堂の後の山上巖窟の内に地蔵の石像有。相ひ傳ふ、昔し由比の濱の漁夫網にかけて引き上げたり。
故に名くと也。像の背に窪き所ろあり。潮汐候に従つて増減すと云。或云藤原為相の建立なりと。背に文字あり。
供養の導師性仙長老正和元子ノ年十一月日施主真覚とあり。性仙は浄光明寺の前住乎。又、圓覚寺鐘の銘に寺の頭首の中に性仙と云ふ名見へたり。此の人歟。時代も相應せり。

『窪き所』・・・ってのはやぐら壁面の龕(がん)の事ですね・・・かつてはココに水が溜まっていて、その増減に応じて潮位が変動したって事でしょうか?・・・何が増減するのか書いてないので読み解くのが大変です・・・
『窪き所』自体が増減するんでしょうか?・・・それじゃぁ地形が変わってしまうよぉ・・・何か細工があったんですかね?

何か気になるなぁ・・・スッキリしないなぁ・・・【鎌倉日記】でも見てみますか・・・

網引地蔵(又滿干地蔵トモ云)
浄光寺の本堂の後にあり。みちひの窟とも云。巖窟の内に石地蔵を安置す。地蔵の後にくぼかなる所あり。
潮満候に従て往来すると云ども、今は塵のみ埋み乾たる處也。藤為相卿の建立なりと云。或曰、昔由比の濱にて網に懸て上りたる故に網引の地蔵と云也。

おっ!新情報があるなぁ・・・満干地蔵ともいうのか・・・へぇ~・・・ふむふむ・・・
『くぼかなる所』・・・今は塵のみ埋み乾たる処也っていってますねぇ・・・乾たるって表現は以前は潤っていたことを連想させます・・・やはり水源があったんでしょう・・・海からはかなり離れていますし潮位変動の影響を受けるかどーかって話はマユツバものですが、そーゆー事にして置きましょう(笑)

【新編鎌倉志】に戻って・・・地蔵菩薩の背部に『供養ノ導師性仙長老正和元子ノ年十一月日施主真覚』との文字があるといっていますね・・・正和元年(1312)ですか・・・パンフレットには正和二年(1313)とありましたが?むむむっ・・・
色々調べてみると、どーやら地蔵菩薩の背部の文字は、

供養導師性仙長 正和二年十一月 施主真覚 大工宗

とある様で【新編鎌倉志】にある正和元年というのは間違いなのかな?・・・実際に見る事は出来ないので確認は出来ませんけどね・・・それより大工って何でしょう?・・・仏師が彫った物ではないって意味なんでしょうか?
そして性仙長老は浄光明寺の前住であり円覚寺の鐘の銘文にもその名が見えるといっています・・・
洪鐘 弁天堂茶屋
じゃぁ行って見ようって事で円覚寺です!・・・鐘ってのは洪鐘(おおがね)の事でしょう・・・鎌倉三名鐘のひとつです!
洪鐘へ行くには結構な階段を登らないとなりませんので足腰の弱い方は気合を入れて行きましょう!
自分も準備体操の屈伸を・・・パキッ・・・ペキッ!(笑)
階段を登り切ると弁天堂がありますが、その手前に洪鐘はあります・・・奥には有名な弁天堂茶屋もありますが、価格設定がちょっと・・・・・・みたらし団子¥600はちょっとなぁ・・・でも寒い日はおしること甘酒でポッカポカ・・・¥1200也。

さて洪鐘ですが、案内板があるので見てみましょう・・・
洪鐘(梵鐘)
正安3年(1331)に北条貞時が国家安寧を祈って鋳造、寄進した時の住持は西潤子曇、鎌倉第一の大鐘で国宝に指定されている。物部国光の作で、形が雄大でありながら細部まで緻密な神経がゆきわたり技法も洗練されている。鎌倉時代後期を代表する梵鐘である。                      平成13年10月 文化庁 大本山円覚寺

補足するとこの洪鐘は正続院にある宿竜池と呼ばれる池があり、そこから金銅を得て鋳造した物と伝わります・・・
宿竜池は円覚寺開山の無学祖元が中国から渡って来た時に、その船を守っていた竜に関係があるそうです・・・
鐘楼の鰐口は鋳物師瀬戸永歓の作で、天文9年(1540)の銘が刻まれており重文指定を受けています!
また洪鐘を吊るす鉄の環は刀匠として有名な正宗の作であるらしいです・・・
国光は鋳造に2度失敗して3度目の正直でやっと完成したそうです・・・

さて本題の銘文ですが、
相模州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘銘
鶴岡之北富士之東有大圓覺爲釋氏宮恢廓賢聖蹴蹈象龍範圍天地槖籥全功鎔金去鑛鍛錬頑銅成大法器啓廸昏蒙長鯨吼月幽谷傳空法王號令神天景從祐民贊國植德旌忠停酸息苦超越樊籠高輝佛日普扇皇風浩々湯々聲震寰中風調雨順國泰民安皇帝萬歳重臣千秋正安三年辛丑七月初八日大檀那從四位上行相模守平朝臣貞時勸緣同成大器當寺住持傳法宋沙門子曇謹銘勸進者舊僧宗證奉行兵部橘朝臣邦博同兵庫允源朝臣仲範大工大和權守物部國光掌財監寺僧至源道虎此月十七日巳時大鐘昇樓洪音發虛謹具名目于后喜捨助緣僐信共壹千五百人本寺僧衆貮百三十員、大耆舊、慧寧・覺眼・宗證・道範・頭首、覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・
性仙、知事聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇

むぅ~目が疲れますが・・・確かにありました性仙の名が・・・納得した所で網引地蔵へ戻りましょう!
網引地蔵5 網引地蔵6
やぐらの天井には天蓋を設置したであろう痕跡が見られます・・・それを支えたであろう貫を通す穴も・・・
結構大きなやぐらですが細部に至るまで見ていて中々面白い物件です・・・
網引地蔵7 網引地蔵8
やぐらの中には副室もあります・・・手前の石碑には『地藏菩薩石坂供養塔』と文字が彫られていて、他にも小さな文字で何か彫られてましたが読めませんでした・・・内部には五輪塔が一基置かれています!
網引地蔵の横のやぐらにも五輪塔とその残骸が・・・
冷泉為相墓1 冷泉為相墓2
網引地蔵の真上にあるのが冷泉為相墓です・・・ついでなんで寄って行きましょう・・・案内板があります!
冷泉為相墓案内板
おっさんに貰ったパンフレットにも似たような事が書かれていました・・・ちなみに冷泉為相の父は藤原為家です!
おじいちゃんの藤原定家は将軍実朝も崇敬した超有名歌人ですね・・・【新古今集】、【新勅撰集】などの撰者です・・・
身近な所では【小倉百人一首】も定家の私選集です・・・母の阿佛尼も歌人として有名です・・・
まぁ、所謂おぼっちゃんですね・・・為相の娘は8代将軍久明親王に嫁ぎ久良親王を生んでいます!
冷泉為相墓3 冷泉為相墓4
為相ちゃんの墓へは石造りの階段を登って行きます・・・冷泉為相墓からの眺めです・・・谷戸に立ち並ぶ民家が窮屈そうです・・・そんなに高い山ではないので特に見晴らしがイイとかそーいった期待はしてませんけどね・・・
冷泉為相墓5 冷泉為相墓6
そしてこれが墓と伝わる宝篋印塔であります・・・左上の写真を見て分かる様に、確かに案内板の通り相輪部分が欠けていますね・・・寸詰まり感は否めません・・・でも理智光寺谷の護良親王墓に比べれば全然マシですね(笑)
柵があってコレ以上進めませんが、進む方法があります・・・その方法は覚賢塔のページをご覧下さいませ!
では、【新編鎌倉志】の説明を見てみましょう・・・

【藤原為相石塔】(附忍性石塔)
藤原の為相の石塔は網引地蔵の後の山嶺にあり。藤谷の峯也。為相は為家遺跡の争論にて母阿佛と鎌倉へ訟へに下り、二人共に鎌倉にて終る。事は【十六夜日の記】に見へたり、此東峯を越へて多寶寺が谷と云所ろあり。寺はなし。大なる五輪あり。文字なし。忍性の塔と云傳ふ。爰も泉谷の内なり。

為相二条為氏と播磨国細川荘の相続を巡り争っていました・・・まだ幼い為相の代わりに母である阿佛尼(安嘉門院四条)が弘安2年(1279)に訴状を出しに鎌倉へと来た訳です・・・で、その時の滞在記が【十六夜日記】であります!
失恋が原因で若くして尼となった阿佛尼ですが、普通に結婚して普通に為相を生んでいます(笑)

『忍性の塔』といっていますがこれは覚賢塔の事です・・・関東大震災以前は忍性の墓として認知されていました・・・

為相に因んで藤谷の項目もチェックしてみます!

【藤谷】
藤谷は網引地蔵の後、藤原為相石塔の下西北の谷也。為相、鎌倉へ下りし時、暫く栖みたりし跡也。故に藤谷と云ふと也。藤谷百首とて為相の歌あり。今、公家に藤たにの称號あるは為相より始むと云へり。初めは藤がやつと称す。
後、勅定にて藤が谷とは言葉長し、藤たにと称すべしと也。

長いから短くしようってさ(笑)

浄光明寺の入り口に藤谷黄門遺蹟という史跡碑が建っていますが、藤谷黄門とは為相の事であります!
藤谷とは泉ヶ谷の隣谷戸で為相が住した所と伝わります・・・でもって藤谷殿、藤谷黄門と呼ばれてたらしいです・・・
黄門は中納言と同意です・・・藤谷黄門遺蹟の碑文の内容は以下の通り・・・

冷泉為相卿ハ為家ノ子ナリ 從二位中納言トナル和歌所ノ事ニ由リ兄為氏ト争論ノ末ソノ母阿佛尼ト共ニ鎌倉ニ来リ幕府ニ訴フ遂ニ藤谷ニ寓シ藤谷殿ト稱セラル藤谷百首ト呼ビ世ニ傳誦セラルル和歌ハ 此地ニテ詠出セラレシ者ナリ網引地蔵ハ其ノ建立ニ係ルト云フ卿ノ墓ハ其ノ後山ノ頂ニ在リ五輪塔ニシテ月巖寺殿玄國昌久ノ八字ヲ刻セシト謂フモ今ハ漫滅シテ字體ヲ辨ゼズ
                                          昭和四年三月    鎌倉町青年團

為相の墓に『月巖寺殿玄國昌久』の文字が刻まれていたと言ってます・・・良くは見てないけどそんなのあったかな?
石碑が建てられた昭和4年の時点で摩滅して分からないともいってますが、微かな痕跡も残ってないんですかね?
それはいいとして、五輪塔っていってます・・・現在建っているのは宝篋印塔です・・・単なる間違いにしてもちょっといい加減過ぎる様な気が・・・

またこの宝篋印塔は徳川光圀が建てたという説もありますが、どーなんでしょう?・・・【鎌倉日記】などにもその様な記載はないし、普通にサラッと紹介されているだけです・・・事実だとして、軽く整備したくらいでしょうかねぇ・・・
阿仏尼の墓 為相の母である阿佛尼の墓が同じ扇ガ谷地区にあるのでせっかくだし見てみましょう!
英勝寺から海蔵寺へ向かう線路沿いの道の左側のやぐらがそれです・・・隣にお稲荷さんがあるのですぐ分かると思います・・・
やぐら中央の六重層塔がそれであります!
隣の石塔に阿仏尼を偲ぶ会と書かれたタスキが懸けられていました・・・なんじゃそりゃ?(笑)
そんな会があるのか?
一体どんな人達が集まって、どんな活動をしてるんでしょう?・・・メッチャ気になります!

多層塔には阿佛と彫られています・・・シンプルでいいですね・・・一発で彼女の墓だと分かります・・・
阿佛尼は鎌倉で亡くなったとも都に帰って亡くなったともいわれていますが、この阿佛の2文字を見ていたらそんな事どーでもよくなって来ました・・・阿佛尼は鎌倉で果てた・・・それでいいです・・・怪しすぎ(笑)
一応【新編鎌倉志】の記事を見てみましょう・・・

【阿佛卵塔跡】
阿佛卵塔の跡は英勝寺の境内北の方にあり。昔し此の處に阿佛が卵塔有しと也。故に俗に阿佛卵塔屋敷とも云ふ。
又、極楽寺の境内に月影谷と云ふ所ろあり。阿佛が栖みける地なり。阿佛は藤原の為相の母なり。

昔は卵塔があった様ですね・・・そっちの方が尼らしくていいですねぇ・・・このやぐらにあったのかどーかは定かではありませんけど・・・取り敢えずこの辺りにあったのは確かな様ですね・・・
もしかして今の多層塔・・・阿佛尼を偲ぶ会が建てたんじゃねーだろうな(笑)・・・取り敢えずナ~ム~・・・
阿仏邸旧跡 かなり離れてますが、ついでなんで阿佛尼が鎌倉滞在時に住んでいたという月影ヶ谷へも行って見ましょう!
極楽寺坂を越え針磨橋の所で右折します!
ココが月影ヶ谷の入り口となっています・・・
江ノ電の線路を渡ってすぐ左側に阿佛邸舊蹟の史跡碑が建っています!・・・凄い所に建っていますね(笑)
傍らの歌碑には、
月影能 谷若葉して 道清志
と刻まれています・・・イイですね・・・実際はもっと谷戸奥に住んでいたらしいですけど・・・
ココじゃぁ江ノ電がうるさそうです・・・碑文は以下の通り・・・

阿佛ハ藤原定家ノ子為家ノ室ニシテ和歌ノ師範家冷泉家ノ祖為相ノ母ナリ為相ノ異母兄為氏為相ニ属スベキ和歌所ノ所領播磨細川ノ庄ヲ横領セルヲ以テ之ヲ執権時宗ニ訴ヘ其ノ裁決ヲ乞ハントシ建治三年京ヲ出デテ東ニ下リ居ヲ月影ガ谷ニ卜ス即チ此ノ地ナリ其ノ折ノ日記ヲ十六夜日記ト云ヒテ世ニ知ラル係争久シキニ弥リテ決セズ弘安四年遂ニ此ニ歿ス                                         大正九年三月建之 鎌倉町青年會

相続争いについて書かれていますね・・・建治3年(1277)に京を出て弘安4年(1281)に鎌倉で死んだといってます・・・
モンゴル兵にやられたんでしょうか?(笑)・・・手持ちの資料と年代が違いますが、まぁいいか・・・
【新編鎌倉志】では月影ヶ谷を『暦を作る者居住せしとなり』と紹介しています・・・そして【十六夜日記】の冒頭を持ち出して阿佛屋敷の紹介もしています・・・そろそろ為相ちゃんの墓へ戻りましょうか!
網引地蔵平場1 網引地蔵平場2
為相ちゃんの墓から階段を下りて網引地蔵の平場へと戻って来ました・・・そこそこ広い平場です・・・
往時はココにも何かしら建っていたんでしょうねぇ・・・やぐらが結構あります・・・ココ浄光明寺はやぐらが多いです!
この下の阿弥陀堂の周囲にもやぐらが沢山あり石塔が沢山安置されていますが、それ等はまたの機会に紹介したいと思います!
取り敢えず今回はこの網引地蔵の平場にあるやぐらをチェックです!
網引地蔵平場3 網引地蔵平場4
だいぶ削られてしまってます・・・これでは往時の姿を知るのは中々困難ですね・・・
網引地蔵平場5 ん!?・・・これは!?・・・やぐらというか貫通して尾根向こうへと繋がっています・・・向こう側もちょっとした平場になっています・・・ん~何だコレ?
しかし格子で塞がれていて進む事は出来ません・・・
潜って左に進めば相馬次郎師常の墓の方へ出られると思われますが・・・もしかしてクロックスが脱げて進むのを諦めたあの道へ繋がっているのではなかろうか?

格子ぶっ壊して行って見ようか?
でも阿弥陀堂のオッサンに怒られそうだしなぁ・・・う~ん・・・何とかして向こう側へ行けないもんだろうか?
網引地蔵平場6 網引地蔵平場7
取り敢えず尾根へ出てみる事に・・・どっか降りられる場所が見つかるかも知れません・・・うおっ無理だ!
反対側は崖になっていて、とてもじゃないけど降りられません・・・
網引地蔵平場8 写真だと分かり難いですがそこそこの高さです・・・
死にはしないかも知れませんが骨折必死ですね・・・
骨折覚悟で飛び降りても下に降りる道が無ければ、一生この狭い平場で暮らさなくてはならなくなります・・・

まぁ、そん時は格子ぶっ壊して家帰りますけどね(笑)

平場の先は鬱蒼としていて道の有無はちょっと判断しかねますが行けそうな気もします・・・
ザイルがあれば平場まで余裕で降りられそうですし、次回訪問時は忘れずに持って来よう!
廃道の検証をするにしても相馬次郎師常墓の方から登った方が確実に楽そうですけどね・・・
そもそも、お寺の境内でザイルって・・・何しに来てんだ?・・・怪しすぎますね・・・でもやります(笑)

網引地蔵ですがいぼ地蔵とも呼ばれていたって話がありました・・・なんでもお地蔵様のトコにある石でいぼをこするとコロリと取れたって話です・・・もう何でもアリですねぇ・・・
椿地蔵 左の写真は手広の青蓮寺が管理している椿地蔵です!
だいぶ飛びましたが梶原から藤沢方面へ進み手広の交差点のひとつ前の交差点角にあります・・・

この地蔵菩薩もいぼ地蔵と呼ばれています・・・
なんでも大豆をお供えするといぼが取れるとか・・・

小さなお堂の横には弘法大師一千年忌供養塔が建っています・・・天保三年三月の銘が入っていました・・・
何故椿地蔵なのかというと、ズバリ椿の木があるからだそうです・・・確かにあります・・・
以前はココではなくちょっと離れた所にあったそうですが道路拡幅工事に伴い現在地に移された様です・・・
以前の場所にも大きな椿の木があったって話です・・・

さて最後に網引地蔵ですが・・・材木座の光明寺にもあります!
光明寺延命地蔵1 光明寺延命地蔵2
網引地蔵尊、延命地蔵尊・・・と立札が2つ立っています・・・お堂の中には大小の地蔵菩薩、そして六角形の面に彫られた六地蔵・・・これじゃぁどれが網引地蔵なのか分からないですよね・・・
延命地蔵の方が有名かと思いますが・・・網引延命地蔵なんていわれたりもしてますし、どっちもこの真ん中の一体が受け持っているんでしょうね・・・
この地蔵は裏山の洞門近くの山腹のやぐら(地蔵窟)にあった物を昭和40年にココへ移動した物だそうで、右手が欠けてしまっていますが後背の細工が結構凝っていて中々イイ感じです・・・

敬白 奉造立地蔵菩薩像 発願満福寺侶教義 勧進聖尚養寺常住西蓮 右志趣者為結縁 衆生安全 正中二年乙丑九月廿四日仏師沙弥

と、背部に文字が刻まれている様で、正中2年(1325)9月24日と、いつ造立されたのかハッキリ分かる貴重な代物!
この延命地蔵鎌倉地蔵菩薩霊場二十四ヶ所の第二十二番札所になっています・・・
浄光明寺の網引地蔵は第十六番・・・そして浄光明寺にはもう一体、矢拾地蔵という足利直義の念持仏がありますが、そちらは第十七番となっています・・・

鎌倉地蔵菩薩霊場二十四ヶ所がいつ頃設けられたのか定かではありませんが、宝戒寺、桂昌院、光明寺に残る石碑から少なくとも宝暦2年(1752)以前から霊場はあった様です・・・

おしまい
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