ブログ 相馬次郎師常タイトル
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JR鎌倉駅から線路沿いに北鎌倉方面へ歩いて行くと相馬次郎師常の墓と伝わるやぐらがあります!
浄光明寺へ向かう道と扇ノ井へ向かう道の間にある谷戸の奥にそれはあります・・・
小難しい説明は後にして取り敢えず行って見ましょうか・・・
相馬次郎師常墓の道 相馬次郎師常墓石碑
谷戸の入り口から墓までは味気ないですが敷石の置かれた道になっています・・・
入り口に案内板とかはないのでコレを目印に谷戸へ入って下さい!
墓は石造りの柵で囲まれていて手前には相馬次郎師常之墓の石碑があります!

帥常ハ千葉介常胤ガ第二子ニシテ相馬氏を嗣ギ巽荒神ノ邊ニ邸ヲ有セシガ元久二年十一月十五日歳六十七ヲ以テ端座合掌ノ裡ニ決定往生ヲ遂ゲ其結縁トシテ僧俗ノ人々集リ拝セシトイフ 窟中ノ宝篋印塔ハ即チ帥常ノ墓ナリ
                                            昭和七年三月建 鎌倉町青年團

ザックリと師常について説明していますね・・・以下は師常が亡くなった時の【吾妻鏡】の記述です!

元久2年(1205)11月15日 丁酉
相馬の次郎師常(年六十七)卒す。端坐令め合掌す更に動揺せず。決定往生敢えてその疑い無し。
これ念佛行者なり。結縁と称し緇素挙げてこれを集拝す。

中々カッコイイ死に方ですね・・・極楽往生間違いなしと太鼓判押してます!
また、その縁にあやかりたいと多くの僧俗が師常の亡骸を拝みに来たようですね・・・
端坐ってのは姿勢を正して座る事で今日では一般的に正座の事を指す場合が多い様ですが・・・どーなんでしょう?
座禅する時の所謂、結跏趺坐とも考えられますが・・・イメージが大分変って来ますよね・・・

中学の同級生が介護の仕事をしてるんですけど、講習でベットに座っている老人を車椅子に移すのをやったという話を以前に聞いた事があります・・・そのベットに腰掛けた状態の事を端座位というんだと熱弁していました!
師常の場合まさかそんな事ありませんよね(笑)
相馬次郎師常墓1 相馬次郎師常墓2
やぐらは格子の扉付きで結構しっかりしています・・・こんなちゃんとしているのは他には無いですね・・・
相馬次郎師常墓3 相馬次郎師常墓4
ボーっと眺めていたら師常の墓の上にぽっかりと穴が開いている事に気が付きました・・・墓に目が行っていたし木が邪魔で全然気が付きませんでしたが・・・おおぉーーー結構立派なやぐらじゃないですか!

内部には地蔵菩薩と石塔らしきものが見えています!・・・どっから行けるんだろ?
右側はすぐに民家だし・・・左側は駐車場です・・・ロッククライミングするしかないか?・・・と岩肌を見ていたら、岩を削って造られた小さな階段がある事に気が付きました!・・・おっしゃ楽に行ける!
相馬次郎師常墓5 相馬次郎師常墓6
師常の墓の横にもやぐらがありました・・・半分埋まっている物、お決まりのパターンですが物置になっている物・・・
相馬次郎師常墓の階段 相馬次郎師常墓の階段上
こんな感じの階段をちょっと登ります・・・階段上左側にも道がありましたが、ご覧の通り完全に廃道の様です・・・
枝を払いながら果敢に少し進んでみましたが落葉が凄くて足元フカフカ・・・ズルズルと滑りながら登って行く状態でしたが、履いていたクロックスのバンドが取れて脱げてしまいました・・・残念ですが怪我する前に諦める事に・・・
気を取り直してさっさとやぐらを見に行く事にします!
相馬次郎師常墓上のやぐら1 相馬次郎師常墓上のやぐら2
柵とか無いので転落しない様に気を付けましょう!・・・やぐらの入り口の岩肌には穴が3箇所開いていました・・・
以前は柵か扉が取り付けてあったんでしょう・・・良く見たい方はホント落ちない様に気を付けましょうね!
相馬次郎師常墓上のやぐら3 相馬次郎師常墓上のやぐら4
やぐら内部はこんな感じになっていました・・・真ん中に地蔵菩薩・・・その周りに墓石・・・
墓石は天保、延宝など江戸時代の物の様です・・・
海軍なんたらって彫られた物もありそんなに古い物ではないようですね・・・
しかし、師常の墓の上にこんな立派な物件があったなんて・・・ホント気付いて良かった・・・

しっかりと満喫したので下へ降ります・・・師常の墓の所にあった案内板を見てみましょう!
相馬次郎師常墓案内板
上にあったやぐらについては何も記されていませんでした・・・残念・・・でも確かに鎌倉時代から被葬者が確実に知られているやぐらは凄い貴重ですね・・・死に様がカッコ良く、多くの人々が訪れ語り継がれて来た事もその原因のひとつである事は間違いないでしょう・・・

相馬次郎師常ですが、案内板の通り千葉常胤の次男であります・・・父常胤から相馬郡相馬郷の権利を譲られた事により相馬氏を名乗り、相馬氏の祖となったといわれている人物であります・・・

頼朝の挙兵に従い源範頼の軍に従い平氏討伐に貢献します・・・後の奥州討伐にも参加し、その多大な功績の恩賞として頼朝より陸奥国行方郡を拝領しています・・・
泰衡の遺臣大河兼任の反乱では再び奥州へ向かい頼朝に八幡大菩薩の白旗を貰ったりしています・・・
晩年は出家し常心と名乗り法然に師事し熱心な念仏行者となったそうです・・・

出家した時期ですが建仁元年(1201)3月に父常胤が病死した時ではないかと一般的には言われています・・・
奉公としての【吾妻鏡】による最後の記事は建久6年(1195)5月20日、

卯の刻に天王寺に参り給う。御家人等に宛て疋夫を召す。御船の綱手を引れんが為なり。洛中は御乗車鳥羽より御船を用いらる。丹後二品局の船を借用せしめ給う。一條二品禅室と御同道有るべきの由、兼ねて御約諾有るに依って、禅室御船を用意す。路頭の庄園に於いて雑事を宛てらるるの由その聞こえ有り。これ太だ賢慮に叶わざるの間これを請けしめ給わざらんが為御同道の儀を止めらるる所なりと。日中渡部に着御す。この所より御乗車。御台所の御車軒を連ぬ。女房出車等有り。各々行列を整う。随兵以下の供奉人皆騎馬すと。
先陣随兵
畠山次郎重忠 
千葉二郎師常 村上判官代基国 新田蔵人義兼 安房判官代高重 所雑色基繁 武藤大蔵丞頼平 野三刑部丞成綱 加藤次景廉 土肥先次郎惟平 千葉三郎次郎 小野寺太郎道綱 梶原刑部丞朝景 糟屋籐太兵衛尉有季 宇佐美三郎祐茂 和田五郎 狩野介宗茂 佐々木中務丞経高 千葉兵衛尉常秀 土屋兵衛尉義清 後藤左衛門尉基清 葛西兵衛尉清重 三浦左衛門尉義連 比企右衛門尉能員 下河邊庄司行平 榛谷四郎重朝 ・・・

以下長いので省略します・・・

畠山重忠等と共に頼朝の天王寺参詣の先陣随兵の一人として名前が見えます・・・
その後元久2年(1205)6月22日、くしくもその畠山重忠討伐軍に師常の嫡男相馬五郎義胤の名が見えます・・・
ですから1195年~1205年の間のどっかで息子に家督を譲り出家したんでしょうね・・・
もしかしたら君主である頼朝が亡くなった建久10年(1199)かもしれないですね・・・

相馬次郎師常には胤正、胤盛、胤信、胤道、胤頼という兄弟がいました・・・出家した日胤をいれて7人兄弟だった様ですね・・・兄弟みんな偏諱での字を受け継いでいるのに師常だけはの字がありませんね?
篠田師国の養子に出された事が原因とか色々といわれていますがハッキリとはわかりません・・・
系図には胤師、胤常などの記載も見られますが胤常って親父の名前を引っくり返しただけじゃんか(笑)
吾妻鏡にも師胤って記載されている記事がありますがどーなんですかね?
師常以外だったら兄弟の名前を見るに胤師ってのが一番しっくりと来る様な気がしますが・・・

【吾妻鏡】には親兄弟勢揃いしている記事もあります!
寿永元年(1182)、頼朝の息子の頼家の七夜の儀の事です!

七夜の儀千葉介常胤これを沙汰す。常胤子息六人を相具し侍の上に着す。父子白水干袴を装う。胤正が母(秩父大夫重弘女)を以て御前の陪膳と為す。また進物有り。嫡男胤正、次男師常御甲を舁く。三男胤盛、四男胤信御馬(置鞍)を引く。五男胤道御弓箭を持つ。六男胤頼御劔を役す。各々庭上に列す。兄弟皆容儀神妙の壮士なり。武衛殊にこれを感ぜしめ給う。諸人また壮観を為す。

七夜の儀とは生まれてから七日目に行う儀式の事の様です・・・親子七人で縁起がいいですね!
頼朝は常胤親子七人の姿に凄く感動した様ですね・・・周囲の人々も壮観だと感心しています!

ちなみに嫡男胤正は千葉姓を継ぎ、師常相馬胤盛は武石、胤信は大須賀、胤道は国分、胤頼は東を名乗って行く事になります・・・何か先程からの字ばっかで頭がこんがらがってきました(笑)
なのでちょっと気分転換しましょう・・・
巽神社1 巽神社2
師常の墓から南に歩いて5、6分くらい・・・扇ガ谷の巽(たつみ)神社です・・・寿福寺の辰巳の方向にあるので巽神社と呼ばれる様になったと伝わります・・・
かなりテキトーに名前付けられていますが、歴史は古く元々は延暦20年(801)に坂上田村麻呂が葛原岡に勧請したのが始まりであるとの事・・・近世には浄光明寺持ちでしたが明治に入り村社に列格されています・・・
墓の石碑にもありましたが、この辺りに相馬次郎師常の屋敷があったと伝わっています・・・

ここより少し南には現在紀伊国屋がありますが、その裏側一帯は千葉屋敷といわれる地域で千葉常胤の屋敷があったといわれています・・・
しかしそれを示す案内板や石碑などはありません・・・千葉常胤っつったら頼朝に師父といわれた有力御家人ですよ!
何かしらあってもいいと思うんですけどねぇ・・・何でアッチにはあるのにコッチには無いんだろう?
って物件が鎌倉には結構あります・・・
石碑等の建立に当たり鎌倉市の土地や寺なんかなら問題ないんでしょうけど、個人所有の土地となると色々とメンド臭いんでしょうね・・・狭い道などに石碑を建てられたりしたら地域住民は大変でしょう・・・

ある日突然、家の前にビミョーな石碑を建ててもいいですか?・・・といわれたら皆さんならどーしますか?(笑)

千葉常胤は頼朝に鎌倉を本拠地にするよう進言した事でも知られる人物です・・・
頼朝は石橋山の戦いに敗れ安房へ逃れますが、その時に常胤に平氏討伐軍に加わる様に使いを出しました・・・
以下は【吾妻鏡】によるその時の記述です・・・

治承4年(1180)9月9日 戊午
盛長千葉より帰参す。申して云く常胤が門前に至り案内するの処幾程を経ず客亭に招請す。常胤兼ねて以て彼の座に在り。子息胤正、胤頼等座の傍らに在り。常胤具に盛長が述べる所を聞くと雖も暫く発言せず。ただ眠るが如し。而るに件の両息同音に云く武衛虎牙の跡を興、狼唳を鎮め給う。縡の最初にその召し有り。服応何ぞ猶予の儀に及ばんや。早く領状の奉りを献らるべしてえり。常胤が心中領状更に異儀無し。源家中絶の跡を興せしめ給うの條感涙眼を遮り言語の覃ぶ所に非ざるなりてえり。その後盃酒有り。次いで当時の御居所指せる要害の地に非ず。また御曩跡に非ず。速やかに相模の国鎌倉に出でしめ給うべし。常胤門客等を相率い御迎えの為参向すべきの由これを申す。

頼朝の誘いにすぐに返事をしない常胤に対し息子達は、さっさと参戦の意を伝える書状をしたためるべきだ!・・・と、詰め寄ります・・・これに対し常胤は、参戦の意志は決まっているが、頼朝がお家再興の為に立ち上がられた事を思うと感激の涙で言葉も出ないのだ・・・と返しています・・・

確かに常胤は平治の乱(1159)後に流されてきた源氏の孤児である源頼隆を庇護してはいましたが、頼朝の父である義朝とは後で説明しますが康治2年(1143)に相馬御厨を巡りひともんちゃくありました・・・その家系に対して声も出ないくらいの感動の涙なんか流すでしょうかねぇ・・・

保元の乱(1156)では義朝軍で戦っていますから、当時から郎党とする見方もありますが、後白河天皇の官符による動員ですから一概にそうとは言い切れませんよね・・・無理やり奪い取られた相馬御厨・・・
そう簡単に片の付く話ではないと思います・・・
常胤が頼朝の誘いに応じたのは平治の乱以後佐竹義宗が所有していた相馬御厨の権利を取り戻したかったからとも考えられます・・・取られた物は取り返したくなります(笑)・・・そして実際取り返します・・・

相馬御厨の話をする前に巽神社の北にある寿福寺の横にある八坂大神を紹介したいと思います!
相馬天王ともいわれココも相馬次郎師常に縁のある物件であります!
相馬天王1 相馬天王2
寿福寺の真横にあります・・・木がワッサワサしています・・・こじんまりとしていている扇ガ谷の鎮守様です・・・
建久三年(1192)に師常が自宅に牛頭天王を勧請したのが始まりといわれています・・・
これが相馬天王と呼ばれる由縁の様ですね・・・
その後、師常の墓、江戸時代に寿福寺本堂脇、そして現在地へと移動した様です・・・
相馬天王境内社 相馬天王記念碑
境内社の子神社(ねのじんじゃ)・・・説明はありませんが、恐らく他同様に大国主命を祀った物で安産祈願等に御利益があるんではないでしょうか?
記念碑は寄進などに関して感謝の意を込めて昭和59年3月に建てられた物の様でした・・・
元神輿之碑 相馬天王倉庫
元神輿之碑なる物がありました・・・この神社の神輿は以前は鉄製で荒ぶりまくり怪我人が絶えなかった様で、新たに木製の神輿を造り、元の神輿は埋められたそうです・・・この石碑の下に眠っているんでしょうか?
しかし埋められた場所は師常の館とも墓ともいわれていますから良くわかりませんね・・・

社の右側には倉庫がありました・・・神輿はココに納められているんでしょう・・・
倉庫には相馬氏の九曜紋が描かれていました・・・ボーッと眺めていたら、コレ何か見覚えがあります!

しばし考えた後・・・あぁ、思い出した!・・・大仏様(高徳院)の所の仁王様の乳首だ!(笑)
高徳院の仁王像 思い出せてスッキリしたのはいいんですけど・・・もう乳首にしか見えなくなってしまいました(笑)
う~ん、まいった神輿にも乳首ついてるのかな?

新しく造られた神輿は京都の祇園社(八坂神社)にならい六角形の物だそうですが、そんな事よりも乳首が付いているか、そうでないのかの方が気になります・・・
乳首神輿見てみたいモンです(笑)
相馬天王案内板
八坂大神(相馬天王)の案内板です・・・一応貼っておきますね・・・
元々は牛頭天王を祀っていましたが明治の神仏分離で八坂大神となってからは素戔雄尊、桓武天皇、葛原親王、高望王を祀っている様です・・・師常も祭神だと聞いた事がありますが書いてないですね・・・
【新編鎌倉志】の相馬天王祠の条を見てみましょう!

【相馬天王祠】
相馬の天王の祠は網引地蔵の山の西の麓岩窟の内にあり。相馬の次郎師常が祠なり。本師常が屋敷は巽の荒神の邊にありて天王にまつつて叢祠を立て置きしを後に此の處に移すとなり。【東鑑】に元久二年十一月十五日、相馬の次郎師常卒す。年六十七。端坐合掌決定往生す。是れ念佛の行者也。結縁として緇素集り拝すとあり。

網引地蔵の西にはやぐらは結構ありますが、麓岩窟といっているので師常の墓の所を指していると思われます・・・
黄門様が鎌倉に来た時は、まだそこに祀られていたんですね・・・師常往生の話にも触れています・・・

さて、先程ちょっと触れた相馬郡の相馬御厨ですが・・・その権利を巡って結構グチャグチャしています・・・
上総氏初代とも2代当主ともいわれる平常晴はその家督を実子の常澄ではなく甥で養子の常重へと譲りました・・・ 
そして大治5年(1130)、常重は相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進します・・・これが相馬御厨の始まりとなります!
御厨ってのは皇族や伊勢神宮などの領地の事です・・・土地を寄進し自らはその下司職を得る・・・
土地を守るには結構いい手法ですね・・・もちろん開発領主として納める物は納めないといけませんけど・・・

で、納めなかったんですよね常重は・・・保延2年(1136)7月15日、公田からの官物が足りないって事で常重は下総守藤原親通に召し捕られてしまいます・・・今でいう追徴課税でしょうか、常重は支払いますが未進分には全然足りないとの事で、同年11月13日に親通に相馬郷と立花郷を奪われてしまいます・・・

そしてこのゴタゴタに介入してくるのが常澄の所に居た上総御曹司源義朝(頼朝の父)であります・・・
康治2年(1143)、義朝は自分に相馬郷の権利を譲る文書を常重に無理やり書かせます・・・ヤクザですね(笑)
相馬は本来実子である常澄が受け継ぐべき土地である事を主張したんでしょうけど、常重もいい加減ですよね・・・
既に藤原親通に奪われた土地を更に義朝に譲る文書を書いてんですから・・・

ヤクザな義朝は翌年(1144)には鎌倉に移り、今度はやはり伊勢神宮領である大庭御厨に乱入します!
三浦党の面々と共に下司職である平宗景の館に押し入り、官物や金銀財宝を奪い取り好き放題やります!
大庭御厨は鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に寄進して成立した物です・・・押し入りに積極的に参加した人物に中村宗平の名があるのは、父を景政に殺された事にも理由があるのかもしれませんね・・・
中村宗平の娘は伊藤祐親岡崎義実に嫁いでいます・・・中村党は石橋山の合戦でも頼朝軍として活躍しています!

さて好き放題やられた平宗景・・・当然訴えます!・・・朝廷からは義朝に濫妨禁止と犯人逮捕の御咎めが来ます!
どーもすいませんって感じで更に翌年(1145)義朝は管相馬郡相伝領地を伊勢神宮に寄進します・・・
しかし寄進は認められず下司職を得た訳でもなく一切の権限を放棄という物でした・・・常重から無理やり奪った物ですからね・・・そりゃそうでしょう・・・

そしてココで常重の息子の千葉常胤が動きます!
久安2年(1146)4月、官物未進分とされていた分を納め下総守から相馬郷を返還して貰い相馬郡司職を復活します!
ただし立花郷は返還されませんでした・・・
同年8月、常胤は改めて相馬郷を伊勢神宮に寄進し認められています・・・

その後平治の乱(1159)で義朝が死にゴタゴタの後、今度は佐竹義宗が相馬郷の権利を主張し出します!
永暦2年(1161)正月、かつて藤原親通が官物未進分として常重から取り上げた相馬郷は、その次男の親盛に受け継がれ更にどーいった経緯か知りませんが自分へ譲られた物だと主張・・・常胤や常澄は謀反人義朝の一味であるとして自分の正当性をアピールし、譲られたという証文をもって相馬郷を寄進します・・・

これに対し常胤は翌2月27日内容を変えて更に寄進し認められています・・・
しかしこれはすぐに覆されます・・・常胤の寄進状を破棄し義宗に新券を発行するという運びに・・・
親盛の息子の藤原親政は平忠盛の娘婿・・・つまり絶大な権力を有していた平清盛の義理の弟であります・・・
それに親政の妹は清盛の嫡子重盛の側室・・・世は平家・・・
何らかの圧力があったのではないかと考えずにはいられませんね・・・
既に効力は無かったであろう証文でもこの結果ですから・・・権力ってホント理不尽ですねぇ・・・

同年4月、当然納得のいかない常胤は相馬郡の成り立ちから寄進に至る経緯など子細に記した訴状を出します・・・
しかし決定が覆る事は無く、長寛元年(1163)の宣旨により常胤は相馬御厨に関する権利を完全に失います・・・
相馬郡司職は継続しますがこんなの納得いかないですよねぇ・・・

そして時は流れ治承4年(1180)、頼朝が挙兵します・・・常胤は平氏討伐に誘われます・・・
これは奪われた領地を取り戻し、更に拡大するチャンスですよね!
自分なら上総介広常の動きも気になりますが、取り敢えずウソ泣きしてでも頼朝について行きますよ(笑)

参戦する事に決めた常胤は頼朝と合流する前に親政を生け捕りにしています・・・
そして合流の際に囚人として頼朝に晒しています・・・何にせよ房総の藤原氏勢力はこれで排除です・・・
後に佐竹合戦で佐竹氏も滅ぼします・・・恨み晴らさでおくべきかぁ!
でもこれで相馬御厨に関する権利が返って来たとはいえません・・・完全に千葉氏の物となったのは相馬御厨に地頭が設置された時と見るべきでしょうね・・・

てな感じが相馬御厨に関する一般的な解釈かと思います・・・
相馬御厨といっても広いです・・・寄進に関しても同じ土地の事をいっている訳ではないのかも知れません・・・
義朝は単に調停役をしただけなのかも知れません・・・源義宗=佐竹義宗ではないかも知れません・・・
様々な学者達が様々な学説を述べています・・・時代の移り変わり、体制の変化・・・まさにその過渡期にあり、史料も多いとなれば相馬御厨は研究対象として非常に便利な物件なのかも知れませんね・・・

ちなみに常胤が庇護した源頼隆は宝治合戦(1247)で三浦方につき、大剛の者と北条方に恐れられるも結局息子共々自害して果てています・・・

おしまい
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