前回は朝イチで神武寺の雪景色を堪能しました・・・想像以上の景色に満足し、調子に乗ってそのままハイキングコースを辿って鷹取山の展望台まで行こうとした所で、結構吹雪いて来たので断念・・・
帰り道にある寺をテキトーに巡って大人しく帰宅しようとしたトコロで終わりました・・・今回はその続きです! |
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鐘楼から下りてきた所です・・・真っ直ぐ行けば前回通って来た道(表参道)、逗子中学校方面(裏参道)です・・・
右には客殿と庫裏・・・帰り道は左へ曲がって法勝寺に寄ってみましょう!
実はこの道を使えば車で神武寺まで来る事が出来ます!・・・もっとも駐車場は檀信徒以外は使えない様で、いつもロープが張られています・・・別に駐車場に停めなくても上まで行ってしまえばいいだけの話なんですけどね(笑)
一応一般車両通行止めの立札が坂の入口に立っていますので心得て置きましょう!
バイクに良く乗ってた時は結構な頻度で来てたなぁ・・・車じゃぁすれ違い出来ないし来る気にもなりません・・・
やっぱりこの寺は裏参道から参るのが一番かなぁ・・・野趣満点で山寺に来たなぁって雰囲気を味わえます! |
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結構な斜度の坂を何とか滑らずに下り切る事が出来ました・・・ホントに急坂なんで細心の注意が必要です!
雪の日にこの道から神武寺へ行かれる方は気を付けて下さいね・・・そんな物好きな人はまずいないか(笑)
家建ててますねぇ・・・道の左側にはやぐらの様な物がいくつか残っていましたが、その内に宅地造成で削り取られてしまう可能性もありますね・・・ |
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谷戸の出口手前、上に稲荷社か何かがある所で左折して細い道を進んで行くと・・・法勝寺に到着です! |
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【沼浜城】のページで紹介した寺です・・・
この寺も遡ると行基の大蛇退治伝説から始まる寺なんですよねぇ・・・まったくもぉ・・・
本堂前の枝垂れ桜が雪を纏ってこれまたイイ感じです・・・
でも地面がぬかるんでいるので、これ以上進むのは諦めた方が良さそうです・・・今日は装備が脆弱過ぎます!
境内にあるのはかぐのみ幼稚園・・・ |
自分も幼い頃に通った幼稚園であります・・・自分の時はバスは黄色だったなぁ・・・
園庭に何やら怪しい物が造られていましたが、よく分かりません・・・何なんだろう?・・・気になるなぁ・・・
て~事で、後日訪れてみました! |
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なんじゃこりゃ!?・・・カオスだなぁ・・・
自分が通っていた時からワイルドな幼稚園ではありましたけど、もう少し知性が感じられたと思います・・・
ココはドコの原住民の住処なんだ?
あのドラム完で人を燃やしてそうな勢いだぞこれは!
この装飾のコンセプトは何なんだ?
ジャングルジムに麻袋を取り付けて『にんじゃやしき』と書いてあるが、忍者流行ってるのかな? |
そーいえば田浦梅林にも忍者の遊具がありましたね・・・確か『忍の道shinobi way』とかいったかな?(笑)
『きんぐのおうち』というのもあるぞ!・・・ニワトリの絵が描いてありますが、キングがココでニワトリを焼くんでしょうか?
それともキングというニワトリなのか?・・・これは中々・・・後輩たちが目指すトコロが見えて来ません(笑)
法勝寺はこれくらいにして置きましょう・・・ |
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次に訪れたのは光照寺です・・・
地味な寺ですが頼朝の兄の悪源太義平に所縁がある寺だといわれています・・・
自分は義平が大好きなので、以前期待を膨らませて訪れたはいい物の、義平関連グッズは皆無・・・
寺の案内板にも義平の文字は全く出て来ず、ガッカリした思い出のある寺です・・・
他に思い出といえば・・・う~む・・・ |
中学時代にこの近所に住む同級生と釣りに行こうとして、ちょうどこの寺の入口で自転車がパンクした事くらいです(笑) |
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『くわしい歴史はわかりません』・・・って、丸投げです(笑)・・・逆に潔くて好きですね!
お茶を濁すような説明よりもこっちの方が好感が持てます! |
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おっ、義平の事が書いてありますね!・・・この案内板は以前は無かったものです・・・
自分は『年寄りの話』みたいなのが大好きなので、この案内板はかなり自分好みですね・・・エクセレント!
湘南七福神の寿老人がいるみたいです・・・この七福神めぐりは、畠山地蔵のある仙光院の毘沙門天や、義景大明神の長江太郎義景に所縁のある長運寺の布袋尊などなど・・・結構気になってたんですよねぇ・・・
一応全部の寺に駐車場付いてるし、今度車でサクッと行って見ようかな・・・あっという間に結願しそうだな(笑) |
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お次は海宝院です・・・一直線に本堂まで参道が続いています・・・気持ちいいですね!
これだから禅寺はやめられません(笑) |
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四脚門には『獅子林』と書かれた額が掲げられています・・・長養雪峰の筆による物です・・・
この四脚門は、創建当初の・・・え~、せっかく案内板がありますんで取り敢えず見て置きましょう(笑) |
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だそーです(笑)・・・慶長年間は1596~1615・・・江戸幕府が神武寺勢力を牽制する為にココへ移築したなんて話も聞いた事があります・・・ウソかホントかは別として・・・
以下は【三浦半島の歴史みち】という書籍にある海宝院草創に関する記述です!
長谷川長綱は駿河守護今川氏の旧臣で徳川家康が遠江国を取得した元亀元年(1570)頃、家康に帰属し、天正17年頃、関東御郡代(代官頭)となった。長綱は、家康が誤って焼失させた寺の本尊を預けられ、その本尊を常に戦場へ携えたところ、どの戦いにも勝利をおさめたので、これこそ十一面観音の加護と信じ、支源臨乎を開山とし横須賀郷の夢窓国師の庵跡(現在の米軍基地内)に一寺を建て、この像を祀った。それが横須賀市緑ヶ丘に移された良長院である。この十一面観音の光背には、寛文十二年(1672)、四代代官長守がこの像を仏師に見せたところ、八百年は経ている古仏であるといわれ、大修理をしたことが書かれている。それにしても55cmの像をどのように戦場に携えたのであろうか。
支源臨乎は菊の花を殊のほか好み、菊長老と呼ばれていたが、年につれ故里駿河が恋しくなり、富士山が望める地へ移りたいと家康に願い出た。そこで開創したのが海宝院である。
なるほどねぇ・・・そーいった経緯があったんですね・・・支源臨乎のホームシックで海宝院が建てられたと!
55cmの像は赤ちゃんの様に背中に縛り付けていたんではないでしょうか?(笑)
隣りにもうひとつ案内板があるので見てみましょう! |
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この『逗子市・自然の回廊プロジェクト』とやらが立ててる案内板は中々いいですねぇ!
何でも数年前からハイキングコースやその周辺に立てている様です・・・
ちょっと気になったので調べてみたら、平成24年に神武寺鷹取山ハイキングコースとその周辺に、案内板や道標などを整備したとありますので、その時にこの辺の案内板も立てられたんでしょう・・・中々いい取り組みだと思います!
この立札なら定期的なメンテは必要かも知れませんが、無駄なコストは掛からないでしょう・・・
その分、数が作れます!・・・マイナーな場所にもドンドン立てて欲しいですね! |
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四脚門を潜って右側には鐘楼があります・・・これが先程の案内板にあった、家康から拝領したという陣鐘です!
銘文が見たいんですが、階段が登れない様にしてあるので近くで見る事は出来ません・・・残念・・・
全く見れないのは腹が立ちますけど、見えてるのに近付けないってのもストレスが溜まりますね!
以下は再び【三浦半島の歴史みち】から・・・
北条早雲の陣鐘
本堂に、応永十年(1403)鋳造の高さ106cm長形の優美な梵鐘(県指定)がある。この梵鐘は北条早雲が三浦義同父子を三浦新井城に攻めたとき、陣鐘として激しく雄たけびをあげたという。美しい鐘にも血生臭い匂いを秘めているのである。鈴木住職の談によると、終戦後、四人組の賊にリヤカーで盗まれ四日後、危うく処分されるところを横須賀で奪い返したという、曰く付きの梵鐘である。銘文により、武蔵国小山田保小野路県(東京都町田市小野路)の小野大明神の宮鐘であったことが判る。家康が軍用のため取り寄せたというから、長谷川長綱が海宝院創建の際、家康から拝領したと考えられる。
リヤカーで盗まれたってのがウケますね(笑)・・・そして三浦氏滅亡の戦いと関係がある鐘だったとは・・・
奥が深いですなぁ・・・ この戦いで85人力の三浦義意の首が油壷マリンパークから小田原の居神神社まで飛んだって話はコチラでさせて頂きましたね・・・
どういった経緯で小野神社の鐘が移動したのかが書いてありませんね・・・つーか町田の小野神社行ったなぁ(笑)
府中のも行ったぞ・・・あまり覚えてないけどね・・・
小野路宿は武蔵国府(府中)と鎌倉を結ぶ鎌倉街道の要衝にあたります!
つらつら調べていると、
文明年間(1469~1486)に扇谷・山内両上杉の合戦が小野路付近で繰り広げられ、山内上杉家が陣鐘として奪い取り、そのまま鎌倉に持ち帰ったらしいです・・・酷ぇなぁ!
昭和59年に海宝院より複製復元し現在は小野神社拝殿脇に設置されています・・・海宝院・・・鐘返してやれよぉ(笑)
中々面白い逸話の詰まった鐘でしたね・・・ |
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参道左側には綺麗な社があります・・・まだまだ新築っぽいですね・・・『白山妙理大権現』の額が掲げられています!
多分、龍の入った水盆を持った女性像が安置されているんではないでしょうか? |
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本堂階段上って左側には八重の紅梅が・・・おおぉ~いいなぁ・・・やっぱ東慶寺行きたかったなぁ・・・
雪と梅のコラボはヤバイですね・・・紅梅じゃないと花だか雪だか分かんなくなっちゃいますけどね(笑)
くそぉ~・・・これ1本だけかよぉ・・・
まぁ、今回はご近所再発見ってコンセプトで、実際イイ物も見れたし良しとして置きますか!
あとは長谷川長綱の墓でも拝んで帰宅しよう・・・ |
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本堂裏の墓域にあるっぽい感じがしたので行って見ました、確証はありません・・・
最奥部まで行きましたがそれらしい物は見当たりませんでした・・・本堂過ぎてすぐの所に分岐があったので、そっちに行って見ましょう! |
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お地蔵様寒そうだなぁ・・・何て思っていたら正面にそれらしき物が見えて来ました!
間違いないですね、先程の案内板にあった写真と同じ物です・・・長谷川長綱の墓です!
だからどーしたっていわれればそれまでですけど、一応江戸初期の有名人ですから・・・一度見て置けばOKです(笑) |
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来た道を引き返します・・・
坂を上ってる時は気が付かなかったんですが、山道を発見しました・・・なんじゃこれは!?
スゲーそそられる道です!・・・これは行くしかない!
足場の悪さをものともせずに上って行くと立派な墓が4基建っていました・・・
ちょっと調べてみると、側面に『長谷川』の文字を確認できました・・・どーやらこれも長谷川一族の墓の様ですね・・・
下にも一族の墓らしき物がありました・・・ |
忠勝婦人の墓もあるらしいです・・・家康の時代で忠勝っていうと本田忠勝を思い浮かべる人が多いと思います・・・
でもこちらは向井忠勝です!(笑)
別にマイナーな人ではありませんよ!御召舟奉行として家康の送迎を行う要職に就いていました!
特に2代将軍秀忠には信頼され、船を使う移動の際には必ず忠勝を同行させたといわれるほどです・・・ |
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左の画像は徳川将軍が造らせたという幕府史上最大の船です・・・その名も『安宅丸(天下丸)』!
『あたけまる』と読みます・・・安宅船とは室町後期から江戸初期の大型の軍船の事です!
この安宅丸ですが、制作総指揮は向井忠勝です!
『む』と書かれた旗が立っているのが分かると思いますが、これは向井の『む』であります!
結構目立ちたがり屋さんなんですかね?(笑) |
しかしゴテゴテした船ですねぇ・・・龍は居るは、寺みたいなの建ってるはで凄いですね・・・すぐ沈みそう(笑)
推定1.700トン・・・伊豆の伊東で造られたそうです!
造船技術に長けた忠勝は伊達正宗の遣欧使節団用の造船にも協力しています!
向井家は代々『将監(しょうげん)』という名を受け継いでいきました・・・だもんで何人もの向井将監がいます!
こーゆーのややこしくなるんでやめて欲しいですよね(笑)
向井将監忠勝の居館は江戸の他、横須賀の走水、三崎の宝蔵山などにあった様です・・・
墓は深川の陽岳寺と三崎の見桃寺にあります・・・
そんな向井忠勝の妻は長谷川長綱の娘なんです!・・・そして母はこれまた長綱の姉妹・・・
長谷川家から向井家へ養子に出したりなど両家は密接な関係を築いています・・・
互いに三浦半島を与えられ東京湾の海運と警護に尽力した様です・・・ |
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しかしコレはホントにいいなぁ・・・見ていて全然飽きません・・・でも雪の降りが強くなってきました・・・帰るか・・・
ウチに戻る前に自分御用達のマッタリスポットでコーヒーを一杯いただく事にします・・・ |
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山登ったりする時はいつもBialettiのモカエキスプレスを携帯しています・・・山で飲むコーヒーって何であんなに美味しいんでしょうか?
今日は香り華やぐエビスも飲んじゃいます!
ロブションだか、立ちションだか知りませんが、有名な料理人が絶賛したビールらしいです・・・
最後までキンキンに冷えた状態で飲めました!
ビールは冬がいいかも知れない(笑) |
おまけ
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よく考えたら『続・雪の神武寺』と銘打ちながら、神武寺の物件をひとつも紹介してませんでしたね(笑)
さすがにそれもどーかなと思いましたんで、前回軽く触れたみろくやぐらを紹介させていただきます!
雪は無いですけど・・・ |
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みろくやぐらは墓地にあります・・・弥勒菩薩の石像があるのでみろくやぐらといいます・・・まんまですね・・・
ココにも逗子市・自然の回廊プロジェクトが立てた案内板があります! |
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相変わらずセンスのいい案内板です・・・鎌倉ももっと内容の濃い案内板を増やすべきだと思います! |
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やぐら内には神武寺歴代住職の無縫塔が安置されています・・・しかし、どれも近世の物の様です・・・ |
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そして中央には弥勒菩薩・・・ガッツリと割れてしまった様ですね・・・修復の跡が痛々しいです・・・
奥に木札があり以下の様に書かれていました!
石像弥勒菩薩
正應三年九月五日 昭和二十六年ヨリ六百六十年前 従三位 中原光氏作 歳七十三にして入定せる地や
昭和26年書かれた物なんでしょうか?・・・そうだとしたら60年以上も前の物という事になります・・・
こんなジメジメした湿気の多い場所なのに状態がいいですね・・・どーでもいいですけど(笑)
以前からある案内板もありますんで内容を載せて置きますね・・・
みろくやぐら 昭和45年5月1日市史跡指定
やぐらは鎌倉時代に、墳墓堂の代わりに山腹に造られた墳墓穴です。『みろくやぐら』には、中央に蓮座上に坐った弥勒菩薩の石像が安置されています。この穴に葬られた中原光氏の供養のために建てられたものです。
像の背に、
『大唐高麗舞師 本朝神楽博士 従五位上行 左近衛将監 中原朝臣光氏 行年七十三 正應三年庚寅九月五日』
と刻まれています。
光氏は鶴ヶ岡八幡宮の舞楽師として知られ重要文化財の弁財天坐像を八幡宮に寄進した人です。
このやぐらは葬られた人のわかっているきわめて稀な例です。
この弁財天像は通称『裸弁財天』と呼ばれています・・・その名の通り腰に短い布キレを付けただけの裸形の弁財天なんです・・・普段は恥ずかしくない様に本物の装束を着させられています!(笑)
現在は重要文化財で鎌倉国宝館に寄託されておりますが、右脚裏に
文永三年丙寅九月廿九日 始造立之奉安置舞楽院 五位下行左近衛将監中原朝臣光氏
と、銘が刻まれているそうです・・・どーやら文永3年(1266)に舞楽院に安置された様ですね・・・
光氏が73歳で入定したのが正応3年(1290)ですから逆算すると、49歳の時です!
以上、みろくやぐらでした・・・
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おまけPart2
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法勝寺で写真を撮った後の事です・・・
この寺には自分の一族の墓が密集しているので、手を合わせてから帰る事にしました・・・
そして発見してしまいました・・・
『白熊さん』の墓を・・・マジかよ!?
いるんだぁ・・・白熊って名字の人!
やっぱりカフェとかやってんのかな?(笑)
どーでもいいけど絶対いじられる名字ですよね? |
つーか、いじって下さいっていう名字ですよね?『polar bear』 ですよ・・・いやぁ、レオナルド熊くらいビックリしました・・・
ところで『シロクマ』と『ホッキョクグマ』の違いって何なんでしょうか?・・・Wikipediaには以下の様な記述がありました!
日本初のホッキョクグマは、1902年(明治35年)の恩賜上野動物園。この時、上野動物園では、新潟県で捕獲されたアルビノの白いツキノワグマを飼育しており、それを「シロクマ」と呼んでいた。そのため、北極の白いクマのほうには「ホッキョクグマ」という和名を付けたことが名の由来である。
そんな理由だったのか!?(笑)・・・まぁ、現在は普通にシロクマもホッキョクグマも同義ですよね・・・
とにかく『白熊さん』がいるという驚愕の事実を突き付けられ自分は、『灰色熊さん』がいるのかどーかが気になっています・・・さすがにそれは無いか(笑)
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おしまい |