坂東三十三観音霊場の第八番札所である星谷寺で御朱印を頂いた後、そのまま帰るのもアレなので、付近の寺社を少し巡ろうって事になりました・・・まぁ、当初からその予定だったんですけどね(笑)
あ、星谷寺の様子が気になる方は【坂東観音道中記②】のページを御覧になって下さいね!
さて、取り敢えず自分が行ってみたいと考えていたのは、護王姫神社と円教寺です!
先生が鈴鹿明神社に行きたいと言い出すのは分かっていたので、この3箇所はマストで行くとして、後は疲れない様にテキトーな感じで・・・お互い忙しい身なもんで(笑)
では、さっそく最初の物件に行ってみましょうか!・・・すぐ近くなので歩いて行きます! |
|
|
星谷寺の墓地を突っ切って道路へ下り、右を向くと歩道橋が見えるんですが、目的の護王姫神社はそこにあります!
小さな神社ですから見落とさない様に気を付けましょう・・・大きなケヤキの木が目印です! |
|
|
『護王姫大明神』の文字がありますね!・・・社はこんな感じです・・・修復部の新しさが目立ちます・・・
内部もキレイでした・・・それよりも先生の頭部が見切れてちょっとウザイ!
先生はちょこちょこ見切れるので、写真のトリミング作業が大変です・・・
全く気付かずにアップロードしてしまう事も多々ありました・・・
そんなこんなで最近はメンド臭くなって来たので、そのまま使わせて貰ってます(笑)
彼の見切れ能力はハンパないです! |
|
|
『護王大明神』の額が掲げられています・・・もっと古めかしい物ならば雰囲気出ると思うんですけどねぇ・・・
それよりも・・・また見切れてるよぉ・・・今度はカメラ目線です!
遠くに居るのに何で頭部だけ見切れてんだよぉ・・・なんかもぉ・・・逆に面白いから別にいいんですけどね(笑) |
|
|
社の横には大きなケヤキの木があります・・・そして、その傍らに何やら建っていますねぇ・・・
まぁ、見ますよね?・・・ハイ、見てみましょう!
市指定重要文化財 大欅(おおけやき) 指定年月日 昭和四二年五月十一日
この大欅は、安産の守護神として昔から近在の人々に信仰されてきた子安護王明神の境内にあります。
護王明神は伝説によると、源義経の側室の牛王姫を祀ったものだといいます。
牛王姫は兄の源頼朝に追われていった義経の後を慕って来ましたが、この地で難産のために死んでしまいました。
哀れに思った村人は牛王姫母子を葬ったそばに欅を植えて、墓標のかわりとしました。(これが現在の大欅であるといいます)。その後、円教寺の住職日範により円教寺に休息した日蓮上人に牛王姫の墓前で読経してもらって安産の神
護王姫としてここに祀ったものです。
平成二十年九月 座間市教育委員会
牛王姫?・・・自分は午王姫だと思っていました・・・どっちなんだろう?
どちらも『ごおうひめ』とは読めるし、どっちでもいいのかな?
にしても、牛王姫って何だかブサイクそーな名前ですなぁ・・・強そうではありますけど・・・
午王の姫は鎌田政清の妹って設定でしたよね?
ちなみに政清は頼朝の父である義朝の腹心・・・とても信頼されていた人物でした・・・
義朝の乳母は政清の母でしたから、仲が良かったのも頷けますね・・・
義朝が京から落ち延びる際も政清は最後までお供しました・・・
そして、身内の裏切りにあい2人とも命を落とす事になる訳ですね・・・
頼朝は父を弔う為に鎌倉の大御堂に勝長寿院とゆー寺を建てましたが、政清も共にそこに葬られたと伝わります・・・
現在、勝長寿院はありませんが、跡地には史跡碑と義朝、政清の五輪塔が建っています・・・
ちなみに野間大坊にも2人の墓はあります・・・鎌倉のそれよりもアッチの方が立派な代物です(笑)
と、話が脱線して来てしまいましたが、午王姫は義経の側室、または一色伊予守六郎の妻、はたまた畠山重忠の娘とゆー何通りかの設定がある様ですね・・・
案内板の義経側室説は円教寺に伝わる説を採った様です・・・
まぁ、どの説でも姫は死ぬんですけど、一色伊予守六郎といえば、永享の乱に於いて鎌倉の永安寺で自害した4代目鎌倉公方足利持氏に仕えた人物です・・・他の2つの説とは時代がかなりズレますねぇ・・・
まぁ、毎度の事ですが、細かい事はスルーですね!
とにかく、現在、午王姫は護王大明神となり、安産の神として祀られています! |
|
|
護王姫神社・・・小さな神社ですけど、境内には市内最大最古のケヤキがあり、真偽の程は分かりませんが興味深い縁起も伝わる物件でした・・・
これ以上先生が見切れている写真を撮っても仕方がないので、車を取りに星谷寺へ引き返しましょう!
先程は墓地を突っ切って無理矢理に降りて来ましたが、帰りは神社の向かい側に続く道を通ってみましょうか・・・ |
|
|
道を少し下ると川が流れていて、そこを過ぎた所には何やら石柱が建っています・・・
その先の道は階段で上りとなっている様ですが、取り敢えず何の石柱なのか調べてみましょう! |
|
|
石柱には『三年坂』の文字がありました・・・そして、この坂についての説明も記されています!
三年坂
この坂道は鎌倉街道の一部です。「この坂で転ぶと三年後に死ぬ」と伝えられていることに由来する坂名といわれていますが、坂が急なため、足元に気をつけよとの意味を込めた言い伝えと思われます。
あー・・・アレですね・・・京都の・・・東山地区にある・・・
修学旅行で行きましたねぇ・・・清水寺・・・懐かしい・・・
坂で転ぶと三年後に死ぬってのも同じですね・・・パクリか・・・
『産寧坂』とも呼ばれていますけど、三年後に死ぬって言い伝えはやはり不気味ですよね?
でも、2回転ぶと六年後、3回転ぶと九年後・・・って感じで死期が延びるって話もあります!
30回も転んでおけば大往生って感じではないでしょうか?(笑) |
|
|
坂の途中、右側には小さな社がありますが鳥居がぶっ倒れていました!
どんな謂れのある代物なのか知りませんが、早く復旧してあげて欲しいモンです・・・
こーいった代物は荒れていると、何か知らんけど不気味ですからねぇ・・・
午王姫は星谷寺の裏を通って川を渡ろうとしましたが、橋が壊れていたので自分の櫛を橋代わりにして渡った所、櫛が壊れて転落して母子共々あの世行きになったとゆー話もあります・・・
櫛を落したが何とか渡り切り、その先の坂を上った所で息絶え、そこ(護王姫神社)に祀られたって話もあります・・・
もしかしたらこの辺りを通ったのかも知れませんね・・・
てゆーか、地形的に考えてココを通ったとしか考えられません!
まぁ、この坂道がいつからあるのか知りませんけどね(笑) |
|
|
坂を上り切ったら突き当りを左に曲がりましょう・・・そしてまたまた突き当りを今度は右折します・・・ |
|
|
道なりに進んで、踏切の手前の十字路を右折・・・ |
|
右側は星谷寺・・・
後は真っ直ぐ歩くだけです・・・
道を間違えて袋小路に迷い込んだりもしましたが、何だかんだで楽しめた道でした・・・
坂東の札所巡りのついでに護王姫神社に立ち寄るなんて自分達くらいではないでしょうか?
座間市民以外の方々はその存在すら知らないのでは? |
さて、星谷寺の駐車場を脱出して次の目的地である鈴鹿明神社を目指すとしましょーかね! |
|
|
星谷寺から車で2~3分も走れば到着できる距離です・・・有名な神社ですから境内もキレイに保たれています!
ちなみに無料Pありますよ! |
|
|
デッカい石碑と鐘楼・・・石碑には何か書いてありましたが、興味が無いのでスルーです・・・
デカい石碑は戦争や災害の慰霊碑パターンが多いですが、ココのはどーなんでしょうかねぇ?
まぁ、興味が無いのでスルーです(笑)
いつもいっている事ですが、自分はこーいった神社にはあまり興味が湧かないんですよねぇ・・・
どちらかとゆーと、怪しい逸話が残る村の鎮守さん的な物の方が好物です!(笑) |
|
|
キレイな社殿をパチリ・・・としたいのに先生がどいてくれませんでした(笑)
境内で野点が出来るんでしょうか?・・・手入れが行き届いてるんで、一服するのも気持ち良さそーですね! |
|
|
拝殿前の狛犬・・・唐獅子タイプの良くある物です・・・ちょっと残念・・・
鳥居のトコにも狛犬が居ましたが、同じ様な感じの代物でした・・・ |
|
|
扁額には『鈴鹿明神』の文字があります・・・寺紋は右三つ巴・・・
巴紋は、神社に関係の深い人達が家紋として使い全国に広まって行ったという話があります! |
|
|
社殿内部も豪華な感じ・・・金持ってんなぁ(笑)
小さいながら野外ステージもありました・・・神事や地元ミュージシャンのライブなどに使われるんでしょうか? |
|
|
絵馬・・・昔は生きた馬を奉納していたそーですが、時代の流れと共にこの様な形になりましたとさ・・・
寺や神社も馬ばっか貰ってもねぇ・・・(笑)
斉藤昌三の句碑もありました・・・彼は座間の出身だった様です・・・
句碑には、『赤まんま か万くら古道 此処に絶え』と刻まれています・・・
かつては多くの人々が往来した古道が民家に埋もれ、赤まんまが繁っている景色を詠んだものの様ですが、ちょっと大袈裟な感じもします(笑)
時代変遷の中で常に同じ姿を保つとゆー事は難しいと思います・・・
新しく便利な物が出来れば人々はそれを利用するでしょうしね・・・
鎌倉街道、藤沢街道、天王大縄道・・・座間という土地の歴史の古さを物語る物は数多くあります! |
|
|
池には鯉が沢山いて子供が餌をやっていました・・・鯉の食いっぷりが凄かったです!
一見、古そーな石造りの小祠などもありましたが、詳しく調べてはいませんが江戸期の物でしょうねぇ・・・ |
|
|
『手水の作法』・・・イラスト入りの物は鎌倉でも2箇所あった様な・・・
レトロな感じの服装はコチラの物と同じですが、描かれている少女は鎌倉の物の方が少女漫画チックでした(笑)
どーでもいいですけど何で少女なんでしょうね?
近代的で豪華な社務所に入ろうと思ったんですが、中には巫女装束の女性陣が待ち受けていて、何となく入り辛かったんで今回はスルーしました・・・見たかったなぁ、鈴鹿明神グッズ・・・
一応、この神社の縁起を記した物が立てられていたので見て置きましょうか!
鈴鹿明神社(すずかみょうじんしゃ)
所在地 入谷一丁目三五〇〇番地
祭神 伊邪那岐命 須佐之男命
例祭日 八月一日
鈴鹿明神社は、第二十九代欽明天皇の御代に、伊勢国(三重県)鈴鹿神社の例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風雨に襲われ東に漂流し、当時の相模国入り海東岸であったこの地に漂着したものを、里人たちは一社を創建して、座間全郷の鎮守として祀り、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝承されています。
神社の一番古い棟札には、小田原北條氏の領地であったため、「弘治二年(一五五六)北條藤菊丸殿 金子五千疋にて鈴鹿大明神再建成就処」と記されています。
このように大変古く由緒ある神社なので、明治六年(一八七三)には郷社に列せられました。
祭神の須佐之男命は京都祇園社の八坂神社の御分霊で、これは後世疫病が流行した時、疫病消除を祈る人々が勧請したものです。
又、例祭には写真のような勇壮な神輿が出されますが、これも疫病平癒のお祓いで村々をまわったのがはじまりです。
欽明天皇っつったら百済から日本に仏教が伝来した時代ですよ!
崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の争い・・・歴史の授業でやったなぁ・・・いやぁ~懐かしい!
それはさて置き、伊勢の鈴鹿神社の神輿が流れ着いて、それを祀ったのがこの神社の始まりって事らしいですね・・・
神輿を返そうとは思わなかったんでしょうか?(笑)
そーいえば、さっき社務所を覗いた時に神輿が置いてあったけど、あれがその神輿なのかな?
随分とキレイな神輿でしたけど、欽明天皇っていったら6世紀ですよ!
さすがにそれはないか・・・そーだったら間違いなく国宝級のお宝ですね!
『例祭には写真のような勇壮な神輿が出されますが・・・』とありますが、写真を見てもドコが勇壮なのか自分にはイマイチ良く分かりませんでした・・・どの辺が勇壮なんだろう!?・・・神輿評論家に聞いてみたいです(笑)
さて、鈴鹿明神社はこれくらいにして、次の目的地である円教寺へ向かいましょう! |
|
|
まぁ、日蓮宗の普通な感じの寺です・・・が、由緒が結構興味深いです!
鬼子母神が祀られているお堂の傍らに案内板があるので取り敢えず見てみましょう!
つーか、先生がまた見切れてるよぉ・・・何やらボォ~っと何かを見つめている感じです・・・
働き過ぎで疲れてんのかなぁ?(笑)
円教寺(えんきょうじ)
山号 休息山 宗派 日蓮宗 所在地 入谷一丁目三二二一
寺の縁起書によると、文永八(一二七一)年九月十二日、日蓮聖人が龍ノ口(藤沢市)の形場で首を刎ねられようとした時、にわかに雷鳴が轟き、鈴木弥太郎貞勝公の鍛えた太刀は飛び散って聖人は難を免れた。(龍口法難)
このことに驚愕し聖人に帰依した鈴木弥太郎貞勝公は刑場から依知(厚木市)本間重連公の館に赴く聖人に、自邸に休息を願い、教えを受け「円教房」の名を頂いた。
後年、建治元(一二七五)年円教房は身延に日蓮聖人を訪ね自邸を献じて寺の建立を発願すると、聖人は日範上人(開山)を遣わして円教寺を建立されたのである。
写経 紺紙金泥法華経巻子仕立 一の巻(市指定重要文化財) 指定日 昭和四十三年三月二十七日
写経妙法蓮華経一の巻。寺伝によると日蓮聖人が龍口法難の折り、所持されていたものであるという。
製作年代は、鎌倉時代中期とみられ、格調高く市内では貴重な一品である。
鐙 一双(市指定重要文化財) 指定日 昭和四十四年六月二十四日
鐙は古墳時代末期から日本独特の発達を始め、平安時代末には足裏全体を掛けるものとなった。
そのうちでも佐々木掛けと呼ばれるものは最も大形に発達したもので、近江国(滋賀県)の佐々木氏領内日野で多く作られ、日野掛けとも称せられる。
この鐙は、その佐々木掛けの典型に近いもので、格調高く鎌倉時代の風を残した室町時代後期の製作と見られるが、寺伝では日蓮聖人使用のものと伝え、寺宝としている。
平成十六年七月再建 座間市教育委員会
龍口法難・・・日蓮四大法難のひとつですね!
藤沢の龍口寺では毎年『龍口法難会』という法要を執り行っていて、その際にぼた餅を撒きます!
その様子はコチラのページに書かせて頂いたので興味のある方は読んでみて下さい!
龍口法難で日蓮が首を刎ねられそーになった時、にわかに光の玉が現れて刀は折れ、処刑人は恐れて刑を執行出来ませんでした・・・その折れた刀を鍛えたのが鈴木弥太郎貞勝って人物で円教寺の開基って事らしいです・・・
マニアックですねぇ・・・知らないっすよぉそんな人(笑)・・・でもこーゆーの好きです!
ちなみに刀の名前は『蛇胴丸』といった様です!
寺宝に鐙がある様ですね・・・馬具といえば【続・畠山重保墓】のページで紹介した東光禅寺の酸漿蒔絵鞍・・・
畠山重忠愛用とゆー興味深いキャッチフレーズにも関わらず、製作年代は江戸時代とゆー400年のズレをものともしないテキトーさ!(笑)
そんなこんなで自分は馬具関連に良い印象はありません・・・
円教寺のそれも日蓮聖人使用の物といいつつも室町時代後期の作となっていますね・・・時代がズレズレです!
寺としては日蓮関連グッズであって欲しいと願う気持ちは分かりますけどね・・・ |
|
|
ちなみに今紹介したのはお堂に立て掛けられていた案内板です・・・石碑にも縁起がビッシリと記されていますので、興味のある方は是非とも現地に足を運んで御自分の目で確かめて下さいね(笑)
鬼子母神が祀られているお堂はトタン張りでちょっと貧相な代物ですが、一応内部も確認して置きますか・・・ |
|
|
扁額には『鬼子母尊神』の文字があり、堂内には鬼形の鬼子母神像が安置されていました・・・以上! |
|
|
本堂には『休息山』の扁額が掲げられています・・・日蓮が休息したからこの山号なんでしょうか?(笑)
もう少し見所があるといいんですが、何もありません・・・
今回の滞在時間は正味5分間・・・休息というにはちょっと短かったかな?
興味深い縁起があるだけに、それに関連した品々を拝見出来ないとゆーのは勿体ないと感じました・・・
日蓮使用の鐙(室町時代後期製作)は見てみたかったなぁ(笑)
さて、お次は近くにある番神水を見に行きますよぉ!・・・これまた日蓮と鈴木弥太郎貞勝に所縁のある物件です! |
|
|
『法華塚 北に三百米』と書かれた道標がありましたが、そんなに歩く気にはなれません・・・
多少の興味はありますが、メンド臭さの方が勝ってしまいました(笑)
そんな訳で法華塚はスルーで『平和の小径』とやらを進みます・・・ |
|
|
ドコからドコまでが平和の小径なのか知りませんが、取り敢えず通り沿いに『番神水公園』なる物がありました・・・
公園とゆーか、川の横にある小さな憩いのスペースといった方が分かり易いかも知れませんね・・・
水は凄く澄んでいてキレイでした・・・金魚の赤が映えますなぁ!
先生が『座間はキレイな湧水がある事でも有名だぞ・・・』と、前にしゃしゃり出て来て写真を撮っていました・・・
分かったから早くどいてくれ!(笑)
平和の小径の先には何やら怪しげな建物が建っています・・・取り敢えず行ってみましょう! |
|
|
番神堂ですねぇ~・・・堂内には小さな神様の像が沢山安置されていました・・・
神様を祀っているのにお堂ってのも違和感ありますが、明治の神仏分離までは神仏混淆ですから、こーいった物はその名残ってヤツですね・・・お堂の傍らに案内板がありますんで見てみましょう!
日蓮聖人御勧請三十番善神縁起
(番神様とは三十の神々が、毎日交替で降臨し、私共をお守り下さいます。)
文永八年(一二七一)九月十二日、鎌倉幕府は、日蓮聖人を捕らえ佐渡流罪とし乍ら、片瀬龍の口の刑場で首を刎ねようとしました。
当地に住む刀匠鈴木弥太郎貞勝公が鍛えた太刀蛇胴丸を、刑吏の武士が振りかざした刹那に江の島の方より、突如として光り物が現れ蛇胴丸が砕け散りました。
難を免れた聖人は佐渡守護代本間重連公の依知の館へ向かいました。
途中座間通過に当り鈴木弥太郎貞勝公は、自邸に聖人の御休息を願い教化を仰ぎ、帰依を誓い「円教房」のみ名を賜りました。
円教房が、「此の地の水は刀を鍛えるのに適しません。聖人のお力でよき水を授かりますなら」と申しますと聖人は傍らの石に『南無妙法蓮華経』と認め『法華経』を唱え地を掘りますと、俄に清水が湧き出ました。
流れは今尚絶えません。番神水と尊ばれ、嘗ては地域の大切な生活用水でした。
人々は、番神様を親しみ崇敬し、お守り申し上げております。
平成二十一年 休息山 円教寺
|
まぁ、こんな感じの謂れがある様です・・・
どの様に勧請されたのかは記されていませんが、番神水の名の由来は間違いなくコレでしょうねぇ・・・
ちなみに三十番神とは案内板の通り、三十柱の神が日替わりでお勤めしてくれるものですが・・・
ん?・・・と思いますよね?
30ってキリが悪いなぁ・・・31なら1ヶ月でスッキリするのに・・・みたいな・・・
まぁ、明治の始めまでは太陰暦でしたから、現在の太陽暦に比べて1年で11日少ない計算になります・・・
つまり、1ヶ月が30日・・・そー考えると三十番神もスッキリした存在になりますね!
三十柱の神の紹介は数が多くてメンド臭いので割愛させて頂きますが、本社は京都、滋賀が多い感じです! |
|
|
番神堂の裏手はフェンスで囲われていますが、その先の岩肌にはチョロチョロと水が流れていました・・・
そして、またまた案内板が立っています!
番神水(ばんじんすい)
所在地 入谷一丁目三二四五番地 水温十七・八~十八度
湧水量 日量四三二立法メートル(昭和52・1・4ー52・3・16市水道部調査)
ここは入谷一丁目の最北部で、相模川河岸段丘・崖下の湧水である。傍らに円教寺付属の「番神堂」があるので「番神水」と呼ばれている。
この湧水は付近に縄文時代中期の遺跡があることからも、大昔から人々が大切な生活用水として利用し続けてきたものと考えられる。明治から大正の時代になってからも、流域に当たる長宿通りの大部分およそ二十世帯は、引続いて井戸水の代わりにこの豊富な湧水を生活用水として利用していた。
伝説によると、このあたりに住んでいて、円教寺の開基となった刀匠の鈴木弥太郎貞勝が、たまたまこの地に来た日蓮聖人に、良い刀を鍛えるためにはより良い水が欲しいのだが・・・と語ったところ、聖人は祈祷をした後、杖を立て良い水の出るこの湧水の位置を発見してくれたというのである。
昭和五十七年三月 座間市教育委員会
自分の刀で殺されそーになった人物に、もっと良い刀を鍛える為の相談をするってのも凄い話ですなぁ(笑)
それに、たまたま来たんじゃなくて、お前さんが依知に向かう日蓮さんを自邸に招いたんじゃなかったのかい?
番神水を満喫し、円教寺へ戻り、再び車で次の目的地である龍源院へと向かいます! |
|
|
道標には『鈴鹿の泉・龍源水』の文字が刻まれています・・・ホントに湧水が多い土地なんですね!
それにしても田舎な風景だなぁ・・・番神水の流れに沿って先程の平和の小径の敷石が続いています・・・
パッと見はドブ川の様な風体ですが、水は恐ろしく澄んでいます!・・・このギャップがいいです!
前を走る先生の車に付いて行きます・・・迷ってます・・・すごく迷っている様子です(笑)
どー考えても違うだろ!・・・と思った所で先生がUターン・・・来た道を戻り、再び龍源院方面へ進みます!
そして、龍源院の駐車場が見えて来ました・・・しかし、先生は華麗にスルー!・・・おーい、ドコ行くねん!?(笑)
結局再び鈴鹿明神社の駐車場へ舞い戻ってしまいました!
先生に何で龍源院を華麗にスルーしたのか問い質してみると、
『工事中で駐車場も使用禁止かと思った・・・』との事・・・
確かに何やら大掛かりな工事をしていた様子でしたが、駐車場は普通に使える感じだったけどなぁ・・・
まぁ、また車を出すのもメンド臭いので、取り敢えず鈴鹿明神社の駐車場から歩いて向かう事にしました! |
|
|
さっきも通ったけどホント田舎な道だなぁ・・・でも、車で通るのと歩くのとでは、また違った印象を受けるモンです!
どーやら、この川にはホタルがいるのかな?・・・そんな感じの看板が立てられていました! |
|
|
道の右側には、またまた憩いの場的な小スペースがあり、『龍源水ホタルの公園』と記された道標が立っています!
やっぱホタルがいる様ですね・・・『湧水と歴史の里 鈴鹿・長宿』って案内板に色々と説明が記されていました!
ホタルイカ食いてぇ~なぁ~(笑) |
|
|
しばらくすると、龍源院の庫裡側の入口に到着です!
『辨財天参道』と書かれた道標が目につきますが、初めて訪れる寺ですし、取り敢えず正面から入りたいので先に進む事にします・・・ココは弁財天が有名な寺なんでしょうか? |
|
|
ちなみにこの道は『鈴鹿の小径』というらしいです・・・
寺側はシートで覆われて、何やら大規模な工事が行なわれているのは確かです! |
|
|
右へ曲がれば寺の正面入口ですが、先程車で通った時に気になった物件があるのでチェックです!
石柱が建っています!・・・当然この物件の名称が刻まれているモノと思いましたが、
『藤沢街道』の文字が・・・へぇ~・・・あぁそーですか・・・そーだよ、藤沢街道だよね・・・
ちょっと肩透かしを食らった感じでしたが、取り敢えずこの建物が何なのかを知る為に観察です! |
|
|
建物には『閻魔堂』という扁額が掲げられていました・・・あ~居ますねぇ・・・一番デカイのが閻魔大王でしょうか?
十王の皆さんと奪衣婆らしきモノも居らっしゃいますねぇ・・・
お堂を見た感じではちょっと不安だったんですけど、イイ感じですね!
さて、先程工事中といいましたが・・・ |
|
|
こんな感じです・・・確かにちょっと入り難い感じはしますが、駐車場は使える様に配慮されていました!
何の工事をしてるんでしょうか?・・・修復してるのか?、新たに建てているのか?
初めて訪れた寺なので全く分かりません・・・工事の概要などを明記した物が掲示されていましたが、弁財天が気になってしまって目を通すのを忘れていました(笑)
車は停められますが、カラーコーンでココから先へは進めない様になっています・・・
そして、先程素通りした庫裡側の入口から入る様にと促す看板が・・・
なんだよぉ~もぉ~・・・でも、閻魔堂が見れたので良しとして置きましょう!
ちなみに近くに『鈴鹿の泉』なる物がある様で、道標がありましたが当然スルーです(笑)
でも、先生のいった通り、ど~やらココら辺は湧水に恵まれた土地である事は確かな様ですねぇ・・・ |
|
|
弁財天の方へは行かず、取り敢えず入り口から左に進み本堂へ向かいました・・・
『寄進瓦受付』と書かれた立て看板が設置されています・・・
工事している建物に使われるんでしょうか?・・・まぁ、自分は貧乏人なんで寄進なんてしてる場合じゃないですけど(笑)
先生も寄進はしない様です・・・ケチだなぁコイツ!(笑) |
|
|
取り敢えず合掌・・・そして、弁財天を拝見しにレッツらゴーです! |
|
|
先生は自分の前を歩いて行きます・・・当然写りますよね・・・
でも今回はこのまま使わせて頂きます!・・・相変わらず神懸り的なフレームイン能力です!
自分のPCには余裕で写真集が出せるくらいの先生の写真が溜まっています・・・写真集売れるかな?(笑) |
|
|
しかし、ホントに水がキレイです!・・・昔はこの辺りにわさび田があったって話も頷けます!
突き当りに再び弁財天参道の道標の登場です!
階段ではなく、左に進む様です・・・小さな橋が架かっていますが、『辨天橋』というらしいです・・・ショボイ橋だなぁ・・・
何か弁天様を拝見するのが不安になって来ました(笑) |
|
|
橋を越えて進んで行くとあります・・・バナナの木が!
龍源院は曹洞宗の寺らしいですが、自分は何回か他の曹洞宗の寺でもバナナの木と遭遇しています・・・
禅寺の坊さんはバナナが好きなんでしょうか?・・・そんなバナナ!・・・寒っ(笑) |
|
|
バナナの木の向かい側は池とゆーか湿地とゆーか・・・まぁ、そんな感じです・・・
そして、何やらビッシリと文字の刻まれた石碑が建っています!
多分、弁財天の縁起とかが記されてるんでしょうね・・・字が小さいしメンド臭いなぁ・・・
でも文字は白いので読み易そーではあります・・・取り敢えずカメラで撮って、家に帰ってから読もっと(笑)
そして、道は行き止まり・・・そこにあるのは・・・ |
|
|
ですよねぇ~・・・弁財天に決まってますよねぇ・・・蛇の上に頭・・・宇賀弁財天ですね・・・
木造の弁天像を期待していた自分は少し物足りなさを感じましたが、まぁ、良しとして置きましょう!
もともと弁財天はヒンズー教のサラスバティーが仏教や神道に取り入れられた物といわれています・・・
そして中世の頃、宇賀神(蛇神)と習合します!
蛇の胴体にジジイや女神の頭・・・物凄いインパクトの強いフォルムですが、そーゆー神様なんです!
鎌倉の銭洗弁財天の奥宮の入口横にある石碑にも宇賀神が彫られていますんで、チェックして見て下さい!
宇賀神は弁財天の頭頂部に小さくちょこんと乗っている場合もあります!
パッと見は弁財天の頭に巻きグソが乗っている様で少しシュールなシルエットですが、断じて巻きグソではありません!
神様です、神様!・・・失礼な事をいってるとバチが当たりますよ!・・・って俺か!?(笑)
余談ですが、週刊少年ジャンプに連載していた『キン肉マン』という漫画に『ベンキマン』という超人がいました・・・
彼の容姿は、胴体が和式便所で頭には巻きグソが乗っているとゆー物・・・
う~ん・・・ドコか弁財天に通ずる物が・・・無いか(笑)
ちなみにアニメ版では巻きグソが蛇口に変わっていました・・・一応、良い子の皆さんが見ますからね!
どーでもいい話で失礼しました・・・聞き流して下さい!
参考までに【初詣2014】のページで紹介した鎌倉の光明寺の弁財天の写真を貼って置きますね!
頭頂部の巻グソ(宇賀神)の具合を確かめてみて下さい!(笑)・・・鳥居付きの良く見掛けるタイプですね・・・ |
|
ちょっと話が脱線しそーなのでコレくらいにして置きますね・・・
しかし・・・トイレの神様っていっても差し支えない容姿ですね・・・スッポンするヤツを持たせて置きたいくらいです(笑)
話を龍源院に戻しましょう・・・ |
|
|
工事中の区画が気になりますが進入禁止ですし、取り敢えずこの寺で見る物はもう無さそーです・・・
車を置いて来た鈴鹿明神社まで引き返しましょう・・・
先程は気付きませんでしたが、辨天橋の所に不動明王が居られました!
こーゆー隠れキャラ的な配置は意外と好きかも・・・ニクイねぇ(笑)
庫裡側の入口から鈴鹿の小径を撮っていたら、また先生がフレームイン!
どんだけ写りたがりなんだよぉ~もぉ~・・・しかし、歳のせいか先生もだいぶ腰が曲がって来たなぁ・・・
ってアレ!?・・・先生じゃねーや・・・散歩中の近所のバァさんか?・・・失礼しました(笑)
鈴鹿明神社の駐車場まで戻り、今回はこれくらいにして帰ろうかという流れになりました・・・
しかし、何か物足りなさを感じていた自分は、
『お土産に何か座間っぽい物を買っていきたいんだが?』・・・と、先生に尋ねると、何やらチラシの様な物を広げて色々と調べてくれました・・・しかし、如何せん情報が少なかった様で、候補はイマイチな感じ・・・
『アンテナショップ的なトコロはないの?』・・・と再び尋ねる自分・・・ |
|
|
そんなこんなで先生がまたもや道に迷いながら連れて行ってくれたのがココでした・・・
『米ディハウスくりはら』というトコロです・・・何でしょう・・・ちょっとニュアンスが・・・上手く伝わらなかったかな?(笑)
まぁ、確かにこーゆー所には地域の特産品とかが販売されてたりもするけどさぁ・・・
自分的には、鎌倉でいえば鳩サブレー的な一品はないのか?って尋ねたつもりだったんだけどなぁ・・・
でも、こーゆー所は意外と面白い物が置いてあったりして、結構時間を潰せたりもします・・・
ハズレるとかなり痛い目をみますけどね・・・『JAさがみ』の文字が妙に不安を掻き立てます(笑) |
|
まぁ、取り敢えず入ってみましょう!
あ~・・・いきなり予感が的中です・・・
コンビニで売っているお菓子が普通に売られてるし!
どーでもいいけどポテコとなげわはどっちかひとつ置いておけば十分ではなかろーか?
まぁ、こんなのばっか売ってる訳じゃなくて特産品っぽい物も多数取り揃えている様子ですから御安心を! |
さすがに、座間まで来てポテコを買う気にはなれません!・・・嫌いじゃないけどね(笑) |
|
|
何だかんだで、大根と『ランラン♪ララララ・フランス』という商品を買ってしまいました・・・
大根は地場物の様でしたが、ラフランスの缶ジュースは山形の商品でした・・・何で?(笑)
でも、一応、座間銘菓と銘うたれた商品もゲットしました!
その名も『座間ひまわり畑』・・・なんか・・・微妙(笑)
いや、いいんですけどね・・・なんかねぇ・・・安物のプリンターで出力したかの様なひまわり畑の絵がさぁ・・・
マドレーヌとクッキーがあったので両方とも購入しましたが、イマイチあか抜けないとゆーか、何とゆーか・・・
近所のオバサンが作ったかの様な・・・良く言えば素朴、悪く言えばテキトーな感じ(笑)
肝心の味ですが、近所のオバサンが作ったかの様な味でした・・・素朴な味です! |
|
|
少し消化不良気味に米ディハウスくりはらを出ると隣りには『焼き立てパン処』とゆー小さなパン屋さんがありました!
どーやら『キャラメリゼバウムクーヘン』とゆー商品を推している様です!
座間名物なのかどーか知りませんが、取り敢えず入りました・・・てゆーか、自分はこのままパンを買うんでしょうか?
先生の迷走にさんざん付き合わされた自分には、そんな事はもぉどーでも良くなって来ていました(笑) |
|
|
美味そーです!・・・でも、自分が求めている物とはちょっと違う雰囲気です・・・
座間まで来て普通にパンを買うってのも何かねぇ・・・今日のコンセプトとはちょっと違うんだよなぁ・・・
ココで購入してしまったら妥協した様で、何となく負けの様な気がします! |
|
|
ええ、そーです・・・自分は負けました!
ミックスピザ(¥280)と塩キャラメリゼバウムクーヘン(ハーフ¥450)を買ってしまいました・・・
何とでも言って下さい・・・もぉどーでもいいんです・・・疲れました(笑) |
|
でも見て下さい、このツヤ!・・・キャラメル部分が少々固いので、老人にはキツイかも知れませんが、期待を裏切らない予想通りの味でしたよ!・・・美味い!・・・疲れた時には糖分がいい!
と、最後は良く分からなくなってしまいましたが、これ以上彷徨ってもドツボにハマりそーだったので、今回の行程は終了として各々が帰路につきました・・・
そして、帰り道に渋滞にハマって更に疲れた自分なのでした(笑)
|
おまけ
|
龍源院の弁財天の所にあった石碑ですが、おウチに帰ってから碑文を読んでみました・・・
内容は以下の通りです!
龍源院辨財天縁起
当院二世住職実州存貞大和尚が堂宇改築の折(寛永年間)今より三百五十年程前、ある夜一匹の白蛇が夢枕にたち、其のお告げにより造立されたものであります
古来より辨財天は七福神の一人として人々の信仰厚く神聖視され、当辨財天も智慧財宝五穀豊穣の 神として造立されし石像であり、五巻の蛇体で重さ二百五十余貫、其の当時より裏山の洞穴に祀られ現在に至っており、昭和十年春、横浜貿易新報社四十五周年記念事業として、神奈川県下の名所史蹟四十五佳選を募集の時多くの信者の応募により、四十五佳選の中に当選し同社より記念碑を寄贈され門前に建立されております
今までの洞穴が崩れたので、本年巳年に当るため清水の湧く此の処にお祀りすることになり、壇信徒の浄財の喜捨を仰ぎ遷座することになりました
昭和五十二丁巳年四月吉日 龍源寺二十五世住職 吉村通玄
(以下は世話人の名が刻まれているだけなので割愛させて頂きますね)
ムムム・・・これは!!
聞き覚えのあるフレーズです!・・・横浜貿易新報社という会社名でピンと来ましたが、そーですか・・・
そーだったんですね・・・
【畠山地蔵尊】のページで紹介した『縣下名勝史蹟四十五佳選當選記念』と刻まれた石碑が思い出されます・・・
龍源院の弁財天も選ばれていたとは・・・
でもですよ・・・選ばれたからには横浜貿易新報社から記念に贈られた石碑があるハズなんですけど?
それらしい物は見当たりませんでしたよ!?
縁起をもう一度良く見直してみました・・・すると、
『四十五佳選の中に当選し同社より記念碑を寄贈され門前に建立されております』とあるではないですか!
そーか、門前にあるのか!・・・でも門なんてあったかな?
あるとすれば位置的には駐車場の辺りかな・・・もしかして工事してたのは山門だったのかな?
これは気になりますねぇ・・・でも、座間を再び訪れるには気力の充電期間が少し必要な感じです(笑)
でも気になる!・・・取り敢えずGoogle先生に頼ってみますか!
って事でマップを開いてストリートビューで龍源院を調べてみました!・・・すると、 |
|
ありましたよぉ~!、石碑が!・・・『龍源院辨財天』の文字があります!
ホント便利な世の中になったモンですねぇ・・・最新の工事中のビューには更新されていませんでしたが、自分が調べたかったのは正にこの風景ですから問題ありません!
いやぁ~、テキトーに巡った龍源院の弁財天が、あのマイナーな四十五佳選に選ばれていたとは・・・
ビックリです!・・・そしてこの奇跡(大袈裟か?)の様な巡り合わせに感動です!
どーやら自分はマイナー物件に引き寄せられる体質なのかも知れません(笑)
それはいいとして、門って中央に写っているあの赤いヤツの事なんでしょうか?・・・つーか、そーですよね?
現在の工事が門を修復しているんだとしたら、ちょっと規模が大き過ぎやしませんか?
もしかしたら新たに大きな門か何かを建てているのかも知れませんね!?
今一度工事中の写真を見てみましょう! |
|
う~ん・・・これは相当立派な物が建つんではないでしょうか?
気力の充電が終わったら再訪してみたいですね・・・その頃には工事も終わってるといいな!
写真を見ていて思ったんですけど・・・単管とシートで目隠しされている部分・・・下に少し隙間がありますよね?
矢印の部分を見て下さい!・・・隙間から何か黒っぽい物が見えています・・・コ、コレはまさか!?(笑)
最後になりますが、ココまで引っ張ったんですから龍源院の縁起について知って置きましょうか!
龍源院
この寺の縁起は寛正2(1461)年に建立され、かつては入谷丸山下(現在の富士山公園の西側)にあり、山梨県上野原の清源院八世・格雲守存を請して開山となし、清源院の末寺となった。
二世実州は堂宇を改築し、さらにある夜夢枕にたった白蛇のお告げにより、財宝・五穀豊穣を祈念して弁財天を造立し多くの信仰を得今日に至っている。
また伝説によれば、この寺の開基は渋谷高間という鎌倉初期の豪族渋谷氏の末流であったという。
高間は先妻との間の子小桜姫と後妻とその間の子の小柳姫を残したまま、山梨県上野原の報福寺で出家し諸国巡礼に出てしまった。残された後妻のお松は、吾が子小柳姫に家を継がせようと考え、小桜姫を殺して桜田(座間高校付近)の沼に埋めてしまった。
ところが小桜姫と仲の良かった小柳姫は、悲歎・絶望のあまり自分も桜田の泥田に身を投げて自殺してしまった。
事は村人に知れ渡り、お松は捕えられ相模川の堤防の補強のため、死刑の代わりに人柱として生き埋めにされてしまった。
やがて巡礼から戻った高間は、留守中に最愛の妻子が三人ともあわれな死をとげたことを知り、自分の屋敷を寺とし、三人の成仏と自己の滅罪を祈った。これがこの龍源院のはじまりであるという。
座間市教育委員会
う~ん・・・何ともな話ですなぁ・・・自分は先妻のその後が気になります(笑)
そもそも後妻を娶った時点で死別している可能性もありますね・・・
どーでもいいか・・・
ちなみに龍源院の弁財天は、相模七福神のひとつに数えられているそーです!
境内には『史跡風牛学舎跡』や『龍源院湧水』の案内板もある様です・・・
今回巡った場所のマップを貼って置きますので、気になったトコロがあったら是非行ってみて下さいまし!
つーか2015年、一発目の記事が座間とは・・・今年は大丈夫なんだろーか?・・・先行き不安かもです(笑) |
|
|
おしまい |