前回の予告通り、今回は野島にある旧伊藤博文金沢別邸を紹介させて頂きます!
まぁ、要するに初代内閣総理大臣であった伊藤博文の別荘ですね・・・
夏島にも彼の別荘があった事は前回に述べたと思いますが、ホントにこの辺りが好きだったんでしょうねぇ・・・
野島は自分が通っていた高校の目の前にあります・・・
そんな訳で自分にとっても様々な思い出のある場所です!・・・懐かしいなぁ・・・
部活で展望台までダッシュしたなぁ・・・授業サボってバーベキューもしたっけか(笑)
当時は伊藤博文の別荘があったなんて全く知らなかったなぁ・・・興味も無かったし・・・今も無いけど・・・
そもそもこの物件は5年前に再建築されて一般公開される様になったみたいです!
では、見て行きましょうか! |
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旧伊藤博文金沢別邸へは車でのアクセスが楽チンです!・・・だってホラ、もぅ見えてるじゃないですか(笑)
ちなみに野島公園第二駐車場の料金は1時間¥200、以降30分毎に¥100となっています!
別邸だけなら、ゆっくり見ても30分掛かりません!
でも、どーせ野島に来たのならグルッと一周散策するのも良いと思います!
何も考えずにボケぇ~っと歩けるスポットです・・・まぁ、イロイロと物件はあるんですけどね・・・今回は割愛します(笑) |
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『牡丹園入口』とありますが、これも別邸の庭の一部であります!
松並木がイイ雰囲気を醸し出しています・・・潮の匂いと松並木って相性抜群ですね・・・ |
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ほな、入りまひょか!・・・と、その前に案内板がありますんで、一応見て置きましょうか!
金沢の牡丹
この牡丹園は、かって野島にあった永島家の牡丹園を復元したものです。
永島家は江戸時代の初めに、儒学者の祐伯(泥亀)が父と共に江戸から金沢に移り住み、新田開発を始めてから約200年後、祐伯から9代の忠篤(亀巣)が泥亀新田を完成させ、また、製塩業で成功を収めました。
永島家の牡丹は、祐伯の孫の金七郎が酒井稚楽頭忠明から神田小川町の酒井家屋敷の庭園にあった牡丹数十種を拝領したもので、大切に育てられてきました。
牡丹園の美しさは天保10年(1839年)の『相中留恩記略』に「花の頃は壮観なり」と記され、徳富蘆花もその著『自然と人生』に「金沢の牡丹を見に行った」と記すなど、江戸から明治・大正期にかけて多くの見物客が訪れました。
現在の金沢区の花「牡丹」はこの牡丹園に由来しています。永島家と伊藤博文とは、亀巣の孫の亀代司が伊藤博文の夏の別荘の建設を請け負ったり、滞在中の伊藤博文の世話係を務め、さらには伊藤博文の推薦により衆議院議員選挙に立候補して当選しているなど深いかかわりのある間柄でした。
現在、永島家の屋敷の後は、住宅開発が進み、亀巣の偉業を讚える石碑が残るのみとなってしまったため、伊藤博文の旧金沢別邸の復元に伴い、その隣接地に牡丹園を整備しました。
ふ~ん・・・そーだったのね・・・製塩業で大成功かぁ・・・いいなぁ(笑)
確かにこの辺りの平潟湾では明治の頃まで製塩業が盛んだった様です・・・
鎌倉時代にも六浦から鎌倉へ朝夷奈切通を通り、塩を運ぶ商人が多くいた様です・・・
それ故に六浦道(金沢街道)は『塩の道』と呼ばれたり、塩嘗地蔵の様な伝説が生まれたりした訳ですね・・・
話が脱線しそうなので、取り敢えず牡丹園のある庭園部でも見てみましょうか! |
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当たり前ですけど海に面しています・・・潮風が気持ちイイです! |
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ちなみに訪れたのは10月12日・・・寒牡丹にもまだ早い時季ですね・・・
予想はしていましたが何も咲いていませんでした・・・でも、庭園は綺麗に整備されていて、心地良い空間である事は間違いありません!・・・掃除のオッサン御苦労様です(笑)
正面には八景島が見えます!・・・シーパラが出来た現在は賑わっていますが、昔は何も無かったですからねぇ・・・
ホント、変われば変わるモンですなぁ・・・
何やら遠くから叫び声が聞こえてきますが、サーフコースターかブルーフォールに乗ってる輩の絶叫でしょう・・・
八景島はあんなになってしまったけど、野島は今後ものんびりスタイルを貫いて欲しいなぁ・・・
まぁ、開発のしようもないか(笑) |
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海面に竹竿が何本も立っていますが、これは海苔の養殖ですね!
海苔網を張る為にこの様な竿をいっぱい立てる必要があるんです!・・・野島の海苔は食べた事がありますが、あまり記憶には残っていません・・・記憶に薄いとゆー事は、恐らく普通な感じだったのではないかと思われます・・・
海苔ってやっぱり香りが命ですよね!・・・以前、ダイソーで10枚入りの海苔を購入してみたんですが、恐ろしく不味かったです・・・何か異様に分厚くて、香りも全く無いんです!
5枚入りの商品もあったので同じく購入してみた所、コチラは普通の海苔でした・・・
磯の香りとパリッとした食感・・・あぁ~ツナマヨのおにぎり食いてぇ~なぁ(笑)
庭園には石碑も建っていました・・・碑文は以下の通り! |
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尾山篤二郎・・・知らんなぁ、誰すかそいつ!?
自分は近世の歌の世界には疎いし興味も無いタイプなもんで・・・まぁ、有名な方なんでしょうなぁ?
これは野島を題材にした歌なんでしょうか?・・・まぁ、そーなんでしょうなぁ・・・ |
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さて、庭園も満喫した事ですし、そろそろ建物内部を見させて頂くとしましょうか!
建物は先程からチラチラと目に入っていますが、茅葺で中々イイ感じの代物であります・・・
波ガラスが雰囲気イイですね!
温泉はありませんが、宿として開業するってのもありだと思います・・・少なくとも自分は泊まってみたいです!
庭から釣りも出来ますしね(笑) |
砂地ですから、投げっ放しでマッタリと過ごしていれば、イイ感じに天麩羅の材料が釣れそうな気がします・・・ |
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建物の海側外観はこんな感じです!・・・海側に突き出している部分が客間の様ですな!
お客さんも大満足でしょうなぁ・・・ |
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それでは玄関からお邪魔させて頂きましょうか!・・・旧伊藤博文金沢別邸とやらに!
ちなみに入館料は無料です!・・・良心的ですねぇ・・・
開館時間は9:30~16:30、休館日は毎月第1・3月曜日(休日の場合はその翌日)と年末年始(12/29~1/3)です! |
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玄関には足拭き用のおしぼりが置いてありました・・・砂浜で遊んで汚れている方は足を綺麗にしてから上がって下さいねって事です・・・別に汚れていませんけど気持ち良さそーだったので拭いてしまいました(笑)
入って左側には受付があり、リーフレットを配布している他、グッズの販売も行っています!
『抹茶の御用意もあります!』と2回勧められましたが、金を取られる様だったので2回拒否しました(笑)
自分は和菓子があまり得意ではないので、あまり魅力を感じませんでした・・・コーヒーなら飲んだかもなぁ?
右へ進むとトイレがある様でしたが、順路通りに左へと進みます・・・
歩きながら受付で頂いたリーフレットに目を通していると、興味深い写真が載っていました!
なんと、前回紹介した洲崎の明治憲法起草の碑がココ(旧伊藤博文金沢別邸)に建っているじゃないですかっ!?
場所的には玄関前の門脇・・・ちょうど旧伊藤博文金沢別邸の看板が立っている辺りです!
コレは一体どーゆー事じゃ!?・・・訳が分からんぞ!?
リーフレットには以下の様な説明が載っていました・・・
昭和37年(1962)に解体撤去された台所棟玄関の外観写真[横浜市所蔵]
建物手前に「明治憲法草創記念碑」が置かれていたが、近年になって洲崎交差点に近い東屋跡地付近に移設された。
ふ~ん・・・てー事はですよ・・・
明治憲法起草の碑は料亭東屋の裏庭に建てられた後、ココ(旧伊藤博文金沢別邸)へ移され、更に現在地へと移されたって事ですね・・・
何だよもぉ~・・・前回得られた情報はそんな事には全く言及してなかったぞ!
東屋跡地の宅地開発に伴う区画整理かなんかでちょっと移動したのかと思ってたら、1回野島まで来てたんじゃんか!
ホント説明不足でやんなっちゃうよぉ~・・・まったくもぉ~・・・
別にそこまで興味のある物件じゃないんで、どーでもいいんですけどね(笑)
建物についての説明もリーフレットに書かれているので一応読んであげましょう!
明治時代の茅葺屋根海浜別荘建築
旧伊藤博文金沢別邸は、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文公により、明治31(1891)に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築です。
明治期、富岡などの金沢近辺は東京近郊の海浜別荘地として注目され、松方正義や井上馨などが別荘を設けました。その後、大磯・葉山など湘南地方が別荘地として栄え、金沢はその役割を終えました。金沢別邸は、当時の別荘地の数少ない貴重な建築遺構です。
平成18年(2006)11月、横浜市指定有形文化財に指定されました。建物の老朽化が著しかったことから、平成19年(2007)、解体工事・調査を行い、現存しない部分を含め創建時の姿に復元することとなりました。
平成20(2008)6月より工事着手、平成21年(2009)10月に庭園と併せて竣工しました。
本施設は内外共にご自由に見学いただけます。
リーフレットは横浜市緑の協会が運営する旧伊藤博文金沢別邸公式ホームページでダウンロード出来ます!
その他説明等も詳しく書かれているので気になる方は参照してみて下さい!
新情報を整理出来た事ですし、先へ進みましょう! |
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調理場です!・・・明るいですねぇ・・・
博文は何を好んで食べていたんでしょうか?
肉かな?・・・魚かな?
どっちにしても美味いモン食ってたんでしょうねぇ・・・
何か腹減って来たなぁ(笑)
建物の所々には案内板が設けられていて、詳しい説明が書かれています・・・親切ですねぇ・・・
折角ですからちょっと読んでみましょうか! |
台所のようす
しつらえ
客間棟の西北に廊下を挟んで建つ台所棟は、調理場と奥の水屋、3畳と4畳半のかつての女中部屋とで構成されています。調理場には2段の戸棚、置きヘッツイ、座り流しを、さらに奥の水屋には井戸とヘッツイ、立ち流しを設えました。
井戸は邸内に4ヵ所あったといわれています。
博文の食事
博文の来邸時や来客のある場合の食事は、洲崎の東屋か野島の野島館に料理を注文していました。
また時には逗子より料理人を招いたり、野島の寿司屋から出前をとるなど、いわゆる店屋物が多かったようです。
息子文吉の記述によれば、「父(博文)が大磯に居た頃の朝食は多く梅干しと茶漬けくらいなもので、晩は好んで粥を食した。」とあります。妻である梅子の作る粥を特に好んだといいます。豆腐も好物の一つで、それを西洋皿に盛って一同に配っていたそうです。
こうした風景がこの金沢の地で見られたかは分かりませんが、大正11年(1922)の「備付器具控簿」には、西洋皿22枚の他、博文の好きな葡萄酒のコップ5個、息子たちが飲んでいた牛乳をいれる牛乳サシや、料理を入れる蝿帳(金網の戸棚)、20人前の食器が揃っていました。
大磯に居た頃は随分と質素な食生活を送っていたんですねぇ・・・ホントかなぁ?
身内の証言は当てにならんからなぁ・・・好感度を上げる為に嘘をついている可能性も否定は出来ませんね(笑) |
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水屋はこんな感じです・・・バーベキュー出来そうですね!・・・気持ちイイだろうなぁ・・・
ちなみに井戸は大正時代の物だそーです・・・ |
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3畳と4畳半の女中部屋はこんな感じです・・・何人の女中が居たんでしょうか?
しかし、畳の匂いって落ち着きますねぇ・・・日本人で良かったと思う瞬間でもあります・・・
こないだ住職と畳の素晴らしさについて語り合いましたが、やはりドコにでも座れるってのがイイですね!
洋間で四畳半じゃぁイスとテーブル置いたらかなり狭いですよ!
空間を有意義に使える和室は素晴らしい!・・・ソファーに座ってマッタリするのも好きですけどね(笑) |
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13枚の畳が敷き詰められた廊下の右側は中庭となっています・・・お洒落やなぁ・・・
そして左側には客用のトイレ・・・ |
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本漆仕上げの大便器と小便器です・・・展示物ですんで間違っても用を足したりしない様に!
便所
金沢別邸では客間棟に付属する来客用の便所の他、居間棟の主人用の便所と台所棟の管理人用の便所が3ヵ所ありました。中でも客間棟の便所は客用便所として使われ、手洗いの水屋は畳敷き、大小便器は板間となっています。
下には肥瓶を地中に埋め込み大小便を溜め、汲み口から肥柄杓で汲み取っていました。
便所は構造によって呼び方が違います。流水での浄化を期待するのが厠と呼ばれ、川岸に建てられた水洗式が古くからありました。
また、樋箱という木の箱で糞を受ける樋殿や、茶庭の砂雪隠のような砂便所、汲取便所や現在の水洗便所などがあります。この伊藤邸はすべて汲取式の便所でした。
案内板には汲み取りの様子が描かれていました・・・オッサンが柄杓でウンコを汲み取っています・・・
さて、そろそろ客間へとお邪魔させて頂きますか! |
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左側が『晴嵐の間』、右側が『帰帆の間』というそーです・・・金沢八景に因んで名付けられたんでしょうね・・・
メッチャ明るいです・・・オーシャンビューで開放感も抜群!
受付で抹茶を頼むとココで頂く事が出来ます・・・抹茶を頂ける寺は結構ありますが、ココはそれとは少し違った雰囲気の中でマッタリ出来そーですね・・・ |
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イイですなぁ・・・ホントに旅館として営業して欲しいなぁ・・・ |
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史料も展示されています・・・別邸と他の建物を繋ぐ設計図の様な物も展示されていました!
リーフレットを見てみましょう!
赤坂仮皇居御会食所移築計画[横浜開港資料館蔵]
明治39年(1906)、博文公は憲法草案の審議が行われた赤坂仮皇居御会食所を、既に建てられていた金沢別邸に接続して移築する計画をたてていました。御会食所と別邸を通路で繋ぐ計画が確認出来ます。結果的には、移築は実現しませんでしたが、明治憲法ゆかりの地・金沢に対する博文公の思いがうかがえます。
そんな計画を立てていたのね!?・・・もし実現していたら、どんな感じになっていたんでしょうか?
取り敢えず現在の駐車場の規模は半分くらいになりそーですね(笑) |
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内縁の様子・・・板の軋む音も情緒があります・・・
波ガラス越しに見える風景は、少し歪みがあり、それがまた何とも形容し難い雰囲気を演出しています! |
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優しくレトロな明かりの中、丹頂鶴の剥製はちょっと不気味かも・・・ |
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帰帆の間の床の間にはイロイロと置いてありましたが、金屏風についての案内板がありました!
金屏風解説
この屏風は、明治辛丑8月【明治34年(1901)8月】に伊藤博文が金沢の地で書き、当別邸の管理者である町屋の松本房治氏に贈ったものです。「春畝」とは博文の号です。
「水陸草木を愛するものは多くいる、晋の陶淵明は菊を愛し、李や唐より来る世人は牡丹を愛するが、私は蓮の花の、淤泥より出でても染まらず、真直ぐに清く玩ばれないところを愛する。私が考えるところでは、菊の花は隠逸なる者なり。牡丹は花の富貴なる者なり。蓮は花の君子たる者なり。」という内容で、中国宗代の宋学の始祖といわれる周惇頤の「愛蓮説」を自筆しています。
近代化を目指した明治の指導者の思想的背景が窺えるものといえ、常に天皇への忠義を忘れずに、国の為に至誠を貫こうとする博文の気持ちをよく表しています。
なんと、博文公自筆の金屏風だったんですね!・・・剥き出しで展示されているけど本物なのかな? |
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写真を撮りまくっていたら、ひとりのオバサンが受付の人に案内されて帰帆の間に入って来ました・・・
受付の人が『すぐにお持ちしますので、こちらでお座りになってお待ち下さい・・・』といっていました・・・
どーやらこのオバサンは抹茶を勧められて断り切れなかった様ですね(笑)
海を見つめてボーッとしてらっしゃいました・・・まぁ、心行くまでマッタリして下さいな!
彼女の寛ぎ空間を乱すのも悪いので先に進みましょう! |
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先程の廊下が右側から合流・・・そこには流し台が設置されていました・・・ |
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左側には『秋月の間』と『夕照の間』がありますが、何人かのグループが談話していたので後にして、先に突き当りにある風呂場と便所を見て置きましょう!
湯殿のようす
湯殿は、居間棟の西北に廊下を挟んであり、手前から脱衣所、湯殿、釜場と続きます。屋根は寄棟で板葺です。
湯殿の建築は、明治31年(1898)に土工で洲崎の大谷栄助と町屋の澤木茂兵衛によって地均しが行なわれています。
当初の風呂の形態は明らかではありませんが、創建からわずか9年後の明治40年(1907)には、風呂や流しの大規模な改造が行われ、現在の様な湯殿に設えられました。
大正12年(1923)にはサワラの板風呂を台湾ヒノキの板風呂に交換し、昭和9年(1934)にはコンクリートを流してタイルを貼る工事が行われました。解体調査時には、湯殿はありませんでしたが、試掘調査の結果、土中から創建時の土丹地業とその後の改修のタイル片が発見されました。
湯殿小話
風呂の改造
明治40年(1907)の改造では、5月に流しに地元産の土丹石と呼ばれる泥岩を敷き、セメントと御影粉を用い、人造御影塗りで仕上げていました。
このような工事中に来邸した西園寺公望は、事前に用意していた据風呂(鉄砲風呂)に浸かったようです。
6月になってようやく船大工の鈴木繁松に作らせていたサワラの板風呂が出来上がり、一緒に煙突や釜も新調しました。7月には大工の山口新三郎がスノコを新調し、ようやく風呂場の体裁が整いました。
工事中に客を呼ぶなど博文らしい逸話ですが、その時招かれた西園寺公望は、時の首相でした。どのような重要な案件を話し合ったのでしょう。
時代背景としては、このすぐ後に、日本の韓国支配が強化される原因となったハーグ密使事件が起こっています。
湯殿の維持
新たな湯殿には煙突が新調されましたが、皮肉なことに毎年のように煙突の修繕が行なわれました。
海辺ということで、塩害や暴風雨での破損が多かったのか、銅壺屋の幸次郎がいつもトタンを張り直していました。
この修繕は日本産業株式会社に引き渡される昭和17年(1942)まで続けられていたことが分かっています。
自分はヒノキ風呂ってあまり好きじゃないんですよねぇ・・・ツルッとした感じの石材が好きです!
タイルタイルした感じの風呂は貧乏くさくて嫌ですけどね・・・ |
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そして便所はこんな感じです・・・居間棟の便所は主人用との事ですから、博文はココで用を足していたんでしょうね・・・
やはり、客用に比べると質素な感じがします・・・
先程のグループの会話がヒートアップしていますが、待っててもラチが明かないので秋月の間と夕照の間に突入! |
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手前が秋月の間、奥が夕照の間です・・・先程の客間よりも落ち着いた感じです・・・ |
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縁側に寝そべって一日過ごしたくなりますね・・・自分がこの家に住んだら間違いなく堕落する事でしょう(笑)
朝マックして、シーパラで遊んだ帰りにバーミヤンでテイクアウトした中華を庭で頂きながら昼寝・・・
そして夜は屋形船で一杯・・・移動は全てタクシーです・・・完全にダメ人間ですね(笑) |
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秋月の間には色々と説明書きが掲示されています・・・金沢八景もカラーで掲示されていました・・・
前回の銅板プレートは酷かったからなぁ(笑)
八景に因んで名付けられた部屋は4つでしたが、もし赤坂仮皇居御会食所が移設されていたら、残りの4つはそっちに割り振られていたかも知れませんね・・・
写真を撮っていたら先程の憲法談義グループのひとりが手帳を広げながらフレームのド真ん中に割り込んできました!
別にいいけどさぁ・・・こっちはカメラ構えてさぁ撮るぞって体勢なんだから、少しは気を使ってもいいんでないか?
一言あれば事がスムーズに運ぶのに、自分の存在を完全無視された様でなんだか腹が立ちました!
部屋には自分とあんた等しか居ないんだし、狭い通路で撮ってる訳じゃないんだから、あと1~2秒待ってよぉ~・・・
会話が物凄いヒートアップしていたのでそれドコロじゃなかったんでしょうね・・・
憲法マニアか博文マニアか知りませんがベレー帽が妙に腹立たしい・・・手塚治虫かっ!(笑)
自分も夢中になっていると周りが見えなくなる時があります・・・気を付けよう・・・ |
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あ、そーそー、受付の近くに見学者用のトイレもちゃんとありますからね・・・ご安心を・・・
凄く綺麗で清潔感溢れるトイレでした!
思う存分用を足しましょう!(笑)
てな感じで、旧伊藤博文金沢別邸を紹介させて頂きましたが、自分の感想としては『キレイ!』の一言に尽きます!
まぁ、まだ新しい物件ですから建物が綺麗なのは当たり前ですけど、内部の掃除も行き届いていて感心しました! |
今後もこの状態を維持していただければいいなと思います・・・
自分のマッタリ暇潰しスポットとしては鎌倉文学館がありますが、ココもそれに似たスポットになるかも知れません・・・
建物はちょっと狭いですけどね(笑)・・・入館無料ってのは魅力的です・・・駐車場代は掛かりますけど(笑)
最後に伊藤博文についてリーフレットから・・・
伊藤博文公について
伊藤博文公は天保12年(1841)周防国(山口県)にて百姓の林十蔵・琴子夫妻の長男として生まれ、幼名を利助といいました。利助が12歳の時、父十蔵が萩藩の中間伊藤直右衛門の養子となり以降伊藤姓を名乗るようになります。
安政4年(1857)に松下村塾に入り吉田松陰に学び、桂小五郎や高杉晋作、井上馨や山縣有朋らと倒幕運動に奔走します。
維新後は、政府の近代化政策の中心的役割を担い、明治18年(1885)弱冠44歳で初代内閣総理大臣に就任しました。4度の内閣組閣と枢密院議長、初代韓国統監を経て、明治40年(1907)公爵を授与されています。
明治42年(1909)10月26日、中国黒竜江省のハルピン駅で68歳の生涯を閉じました。
伊藤博文を殺害した安重根は、アチラではいまだに英雄として扱われていますが、アチラと日本の国交はこの先どーなるんでしょうかねぇ?・・・ホントにメンド臭い世の中ですなぁ・・・
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おまけ
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前回、夏島貝塚通りを進んで明治憲法起草遺跡記念碑へ向かいましたが、その途中の交差点にある物件を発見しました・・・石碑です! |
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何なんでしょう?・・・こんな辺鄙な場所に?・・・まぁ、それをいったらこの辺りの全ての物件を否定する事になってしまいますけど(笑)・・・とにかく近付いてチェックするしかないですね! |
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石碑には『烏帽子巖之跡』の文字が彫られています・・・傍らには案内板も立っていました・・・
親切ですねぇ・・・取り敢えず読んでみましょう!
烏帽子巌之跡碑
烏帽子岩は烏帽子島ともいわれ、追浜の砂浜が東につきる突端に存在していた。大正七年に海軍航空隊の建設に伴う飛行場造成のため切崩され、消滅した。本碑はこれを記念して、昭和二年に建立されたものである。
当時の形状は名の如く烏帽子の形をしたもので、標高約十五メートル、周囲約二百メートルで、海を隔てて夏島と対していた。江戸時代には旅人や近傍の人たちは、この岩と夏島との間を海路往来していたもので、その風光明媚な自然景観は一幅の絵を見るようであったという。
このたび、旧飛行場先を、さらに日産自動車株式会社により埋め立てられたため、記念碑を本位置に移設して、その保存を図ったものである。
なお、烏帽子岩が存在していた位置は、本碑より北北東百五十メートルの処である。
昭和五十七年六月 横須賀市 日産自動車株式会社
辺鄙な場所といいましたが、開発が進み、埋め立てられる前は風光明媚な景勝地だった様ですなぁ・・・
博文の夏島の別荘も見てみたかったです・・・
『烏帽子岩』といえば地元民は皆、茅ヶ崎市のそれを思い浮かべるでしょうけど、ココにもあったんですねぇ!
サザンオールスターズの歌には出て来そうもありませんけど(笑)
烏帽子巌之跡碑の場所は前回貼った地図に加えて置きますね!・・・わざわざ見に行く様な代物じゃありませんけど・・・
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おしまい |