ポケットパークとは読んで字の如く、ポケットの様に小さな公園という意味だそうです・・・
公園というよりは小スペースといった方がしっくり来るかも知れません・・・都市空間でのちょっとした憩いのスペースは結構重要だと思います・・・歩き疲れてちょっと休憩したい時はカフェにでも入ります・・・
でもそこまでガッツリと休みたくない時に、誰でも自由に使えるベンチ等は非常に助かります!
その辺の階段や花壇のブロックに腰掛けるってのもアリですが、ちょっとだらしなく見えますからね(笑)
そんなポケットパークですが、鎌倉にも様々な場所に設置されています・・・
今回はその中でもまさにポケットパークと銘打ち、かっちょいい銅板プレートのある物件を訪れてみようと思います!
鎌倉駅西口から御成通り商店街を進んで行きます・・・この商店街界隈には結構隠れた名店があるので要チェック!
やがて道は由比ヶ浜通りへと繋がりますが、そこにはちょうど江ノ電の踏切があります・・・
そして踏切の横にある三角形のスペースが江ノ電ビューポケットパークであります! |
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10年ほど前に出来たスペースですが、踏切の真横にあるので、江ノ電が通ると大迫力です!
興奮して身を乗り出し過ぎない様に気を付けましょう!
江ノ電に轢かれたらカッコ悪いですから(笑)
自分は轢かれるなら新幹線の方がいいですね・・・
江ノ電って・・・ダサッ・・・
ベンチも背もたれがある訳でもなく、ちょっと休憩ってコンセプトにぴったりの造りです・・・ |
でも自分はココに人が座っているのを今まで見た事がありません・・・
みんな俺に隠れて座ってるのかな?(笑)・・・でも老人達には有難いでしょうねぇ・・・こーゆーの・・・
この道は藤沢駅へと繋がっているので交通量が結構多いです・・・平日の人通りはそれ程でもありませんけどね・・・
鎌倉文学館、長谷寺、大仏と観光王道コースですが他にも見ドコロは多々あります・・・観光で訪れた際は江ノ電で長谷駅まで行かれる方が多いとは思いますが、のんびり歩いて見るのも色々と発見があって楽しいと思います・・・ |
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銅板プレートと駅看板を模した物が建っています・・・『江ノ電大町停留所跡』と書かれています・・・
この駅看板風な物・・・長谷方面からだとその存在にすら気付かないと思います・・・立ってる場所が悪い!
下馬方面からも踏切に集中してるので意外と気付かないかも知れません・・・
この場所を車でよく通るって方は多いと思いますが、こんなの知らねーって人も多いのではないでしょうか?
取り敢えずプレートの説明を見てみましょうか!
江ノ電は、1902年に藤沢~片瀬(現江ノ島)が開通し、その後鎌倉に向かって延長され1910年に藤沢~小町(後に鎌倉に改称)が全線開通しました。当時、39ほどあった停留所(現在は15駅)は、電柱に駅名の看板をつけただけの停留所が多かったようです。
この地には、1907年から1944年まで『大町停留所』がありました。プラットフォームのある比較的大きい駅だったようです。
写真は、1935年頃に『大町停留所』から由比ガ浜通りを写したもので、右側の電柱に『大町』の文字が読み取れます。当時、由比ガ浜通りは鎌倉で最もにぎやかな商店街でした。
銅板の経年劣化が激しくて写真はよく分かりません・・・取り敢えずココに大町停留所があった様ですね・・・
そしてプレートの下部には昭和初期の鎌倉~長谷間の駅(停留所)が記されていました・・・
鎌倉―蔵屋敷―大町―琵琶小路―学校裏―和田塚―原之台―海岸通―由比ヶ浜―長谷・・・至藤沢
赤字が現在も残る駅です・・・駅多過ぎ!(笑)・・・昔の人って横着だなぁ・・・
これじゃあ停まってる時間の方が長いですよね?・・・待ってるより歩いた方が早いよ・・・
今でさえ和田塚と由比ヶ浜はどっちか一個でいいんじゃないかと思ってしまいます・・・
10kmしかない路線に15も駅があるんだから駅間距離が短いのは当たり前だけど、この2駅に関してはどーも納得が行きません・・・駅間距離も300mちょいぐらいだし・・・歩きなさいよ!
今度和田塚から乗って由比ヶ浜で降りてみようかな・・・そーゆー人はいるんだろうか?(笑)
ちなみにこの路線で駅間距離が1km以上あるのは稲村ヶ崎~七里ヶ浜間だけです・・・
江ノ電ビューポケットパークはこんな感じの物件です・・・あくまでも街の小スペースですからこんなもんです・・・
特別見に行く様な代物ではありません・・・
次のポケットパークは下馬の交差点にあります・・・ココから30秒も歩けば着いてしまう距離です・・・ |
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その名も下馬ポケットパーク!・・・まんまですね(笑)・・・ビルの植え込みの所に長~いベンチが設置されています!
手摺が邪魔で寝転がる事は不可能です・・・そーゆーの防止の意味も込めて設計されているんでしょうけど・・・ 掲示板には銅板プレートが取り付けてあるんですけど、劣化が激しすぎます! |
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これはちょっと酷いですね・・・コーティング剤が完全に剥げ落ちてしまって腐食が著しいです・・・
こーなってしまうと文字を読むのも一苦労です!
これも味があるというんでしょうか?・・・でも自分が愛でる銅板プレートとは少し趣を異にしています・・・
どちらかというと古看板カテゴリーに属しますね!
江ノ電ビューの方と同じく2005年11月、鎌倉由比ガ浜商店街振興組合による物ですが・・・えらい違いですね・・・ |
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上の写真は2010年に同じプレートを自分が撮影した物です・・・この3年であの劣化!?・・・何があったんでしょう?
貼り付けてある木の部分を塗り直しているようですが、そん時に劣化を早める原因となる何かがあったとも考えられますね・・・まぁ、もう何をいっても戻りません・・・取り敢えず内容を見て行きましょうか! |
下馬ポケットパーク Geba Pocket Park
下馬(げば)の由来
鎌倉時代、現在の下馬交差点あたりから鶴岡八幡宮までの区間は馬の乗り入れが許されず、また若宮大路を横切るときもここで馬を下りて八幡宮に礼拝したことから、下馬という地名になりました。
江戸時代もここに駒止めの柵があり、八幡宮への馬の乗り入れが禁じられていたようです。幕末の混乱を象徴する事件として生麦事件が有名ですが、下馬でも同様の英国人殺傷事件(1864)が起きています。
佐助川
このポケットパークの下には佐助川が流れており、1960年代から徐々にふたがかけられていきました。このポケットパークの舗装は、下を流れる佐助川をイメージしたものです。
下馬橋
かつてここに下馬橋がありましたが、1967年頃にその役割を終え、親柱だけ残されておりました。
このポケットパークでは地域の歴史の証人として、1925年築造の下馬橋の欄干を復元しました。
芸妓置屋『鶴本』
かつてここに芸妓置屋「鶴本」がありました。この掲示板の模様は、『鶴本』の透かし窓をイメージしたものです。
馬から下りた場所だから下馬です・・・まんまですね・・・
英国人殺傷事件は鎌倉事件と呼ばれています・・・幕末は似た様な外国人殺傷事件が多発しています・・・
鎌倉事件はイギリス軍のボールドウィン少佐とバード中尉が江ノ島、大仏を巡って鶴岡八幡宮へ向かう途中に下馬付近で殺害されたという物ですが、現在下馬にはそれを示す石碑や供養塔などはありません・・・
当時も現在も鎌倉で外人さんが向かう場所は決まっていたんですね・・・来迎寺とか行かないのかな?(笑) |
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当時の事件現場の写真だそうです・・・
若宮大路ですね・・・駒止の柵があります・・・
何やら人が集まってますが、現場検証でもしている最中なんでしょうかね?
奥の松林が海方面です・・・にしても長閑ですねぇ・・・
ドコの農村かっていうくらいの風景です・・・
現在の姿からはとても想像も出来ません・・・
松林いいですねぇ・・・ |
現在も若宮大路には松が植えられていますけど、松林というにはちょっと・・・ねぇ・・・
植えられている事にさえ気付かない人の方が多いんじゃないでしょうか?(笑)
一部分だけでもいいから復活プロジェクトやって欲しいもんです・・一ノ鳥居の南側なら問題ないと思うんだけどなぁ・・・
ちなみに写真は横浜開港資料館編集の【F.ベアト幕末日本写真集】からです・・・
ベアトは報道写真家として文久3年(1863)に来日しました・・・横浜の居留地に写真館を開業して幕末、明治の日本の風景などを数多く撮影し、それ等を写真集として発表しています・・・
ベアトは藤沢の宿に留まっていた様ですが、急遽現場に向かい殺害現場の写真を撮った様です・・・
実は当HPのトップページに貼ってある鶴岡八幡宮大塔の写真も彼が撮影した物であります! |
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殺害現場の写真は説明書きと共にもう一枚あります!
若宮大路から取った物の様ですが、長谷方面なのか大町方面なのかよく分かりません・・・
橋の袂に道標らしき物が建っていますが、さすがに判別は不可能です・・・デジカメ使えよベアトぉ~(笑)
う~ん・・・山はどっちにもあるしなぁ・・・
唯一のヒントがこれでは手詰まりですね・・・
取り敢えず説明文を読んで見ましょうか・・・ |
海岸から八幡宮の入口まで真直に走る『神の道』と呼ばれる長い並木道の中央から半分ほど行った所に、2人の英国士官が殺害された悲しい場所として外国人に知られているところがある。
1864年11月21日(元治元年10月22日)、英国第2大隊第20連隊のジョージ・ウォールター・ボールドウィン少佐とロバート・ニコラス・バード中尉は、鎌倉とその付近を見物するために、馬に乗って横浜を出発した。
江の島まで来て、ベアト氏その他の旅行者たちと朝食をすませた後、昼頃大仏に向かって出発した。写真に見える小さい石橋を渡っているとき、彼等は後ろから襲われ、身を護る暇も、持っていたピストルを抜く暇もなく切られた。
地元の役人が同夜神奈川奉行に知らせ、奉行が外国領事達に知らせたので、外国人数組と騎馬砲兵隊の分遣隊が直ちに現場に向かった。
不運な士官達の遺骨は、小さな小屋にむしろをかけて置いてあった。
地元の者から得られた情報は、若い士官は切りつけられてから数時間生きていて、年上のボールドウィンは即死であったということだけである。
2士官の遺体は横浜に運ばれ、軍葬が行われて墓地に埋葬された。ラザフォード・オールコック卿の強硬手段のおかげで、この殺害に関係したといわれる2人が、12月16日、多数の外国人の前で処刑された。
しかしその後、真の下手人である、かなり身分が高く、学問があり、頑強で筋骨たくましい、指導的な浪人が捕えられ、1864年12月28日(元治元年11月29日)の朝、戸部において、英国軍隊の面前で公然と打ち首にされた。
名前は清水清次である。有力な武士であったが、自分から望んで浪人になった者で、どうしても外国人を殺害したかったと告白した。彼は自分達が鎌倉で襲った2士官を領事であると思っていた。
襲撃の模様を綿密に述べているので、彼が主犯であることを誰も疑わなかった。処刑の際の彼の冷静さと勇気は驚くべきもので、もっとよい事のために用いられればと惜しまれる。
彼の首は吉田橋の近くに3日間さらされた。
清水清次は横浜市中を引き回された上で処刑・・・吉田橋に晒された首はベアトも撮影した様です・・・
うーん・・・写真に見える小さい石橋を渡っている最中に斬られた様ですね・・・
下馬交差点には下馬橋、延命寺橋、琵琶橋があります・・・どれも事件の時にはそこに架かっていた橋です・・・
琵琶橋は若宮大路に架かっていましたから1枚目の写真の後方に写っていると思われますが・・・
よく分からないですね・・・左側に川の流れの様にも見える物が写ってますけど・・・気のせいかな?
2枚目の写真の石橋が琵琶橋だとすると、地形的にちょっと不自然ですね・・・
延命寺橋だとしたら2枚目の写真の右側には延命寺があると思われます・・・もしかしたら写真の道標みたいな物は延命寺の石柱の可能性も・・・でも鶴岡八幡宮行くなら若宮大路進んで行けばいい訳だし、延命寺橋を渡る必要性は低いと思われます・・・間違えて元八幡行ったのかな?(笑)
下馬橋で殺されたのなら分かり易い話なんですけど・・・下馬付近でっていわれるとなぁ・・・
まぁ、テキトーな橋で殺されたとして置きましょう(笑)
その後、事件の翌年に間宮一という人物が真犯人として自首し、幕府を困惑させます・・・
幕府は清水清次の共犯者として彼を逮捕し、9月11日に処刑しています・・・
鎌倉事件は清水清次と間宮一が下馬付近で英国士官2人を殺害した・・・と、簡略化して説明される場合が多いですが、実際にはこういった背景が隠されています・・・
外交機密として長らく隠蔽されていた様ですが、間宮一が取り調べで別の共犯者の名を挙げ、その共犯者も後に逮捕され、ひっそりと処刑されたという話もあるそうです・・・
最初の2人はオールコック氏が帰国する前日というあまりにもタイミングのいい話なので、恐らく英国との関係悪化を恐れた上層部が犯人をでっち上げたんでしょう・・・冤罪ですよね・・・
3人目の清水清次は処刑の寸前まで、外国人を殺害して後世に名を残せる事を誇りに思うと叫んでいたらしいので、ちょっと分からないですね・・・まぁ、時代が時代ですから現代人の自分がその心中を量り知る事は不可能でしょうね・・・
取り敢えず最初の2人は日ノ本の為に捧げられた様な気がしてなりません・・・
芸妓置屋『鶴本』はプレートに印刷されていましたが、確かに掲示板と同じ様な透かし窓が3つあった様ですね・・・
やはりこのプレートは新しく設置し直した方がいいのでは?・・・さすがに見辛いです・・・
しかし、この道に敷き詰められたブロック材のデザインが佐助川をイメージしていたとは・・・ |
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考えた事も無かったですし、例えそーいわれても理解できません(笑)
白の割合を減らしつつも延々と長谷観音前の交差点まで続いていますよ・・・青とか水を連想しやすい色は使えなかったのかなぁ・・・
あまりにも素直すぎるとデザイナー的によろしくないんですかね?
何にしても、実際テキトーに石材を並べたのはガテンな方々です・・・ご苦労なこってす・・・ |
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当時の物だという親柱には大正十五年四月の文字が残っていました・・・大正十五年って1926年です・・・
プレートには1925年築造の・・・とあるけどこの1年の食い違いは何なんでしょう?
築造って竣工(完成)って意味で使ってるんじゃないのかなぁ?・・・まぁ、どーでもいいけど・・・
下馬交差点には他にも案内板があります・・・掲示板の向かい側には若宮大路の案内板があります・・・ |
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若宮大路
治承4年(1180年)鎌倉に入った源頼朝はこの地を政治の中心地とし、鎌倉幕府150年の基礎を築き、翌々年、八幡宮と由比ヶ浜を結ぶ道を一直線に改修しました。それが若宮大路の始まりだといわれています。
大路の中央部は『段葛』と呼ばれる一段高い参詣路となっており、頼朝が妻政子の安産祈禱のために造った貴重なものです。
また、ここ下馬交差点は、かつては下ノ下馬と呼ばれ駒留めがあった場所で、参詣者は皆ここで馬から下りたと言われています。
中世の都市計画によりつくられた若宮大路は、時代の推移とともに改修・補修が行われ、今なお古都鎌倉のシンボルロードとして生き続けています。
若宮大路とその周辺地区は、神奈川県の『うるおいのあるみちづくり事業』や鎌倉市の『洋風建築物保存事業』などにより、優れた都市景観が形成されていることが評価され、平成5年度の都市景観大賞を受賞しました。
若宮大路を挟んで向かい側には下馬の史跡碑があります!・・・碑文内容は以下の通りです・・・ |
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往昔鶴岡社参ノ武人ハ此ノ邊ニテ馬ヨリ下リ徒歩ニテ詣デタルニ因リ下馬ノ稱アリ今ニ地名トシテ存ス 此ノ 地点ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ屡々戦場ノ 巷トナリシコト古書ニ見ユ 尚ホ文永八年(皇紀一九三一) 九月十二日日蓮聖人名越ノ小菴ヨリ龍口ノ刑場ニ送ラレタマウ途上鶴岡ニ向ヒ八幡大菩薩神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顕ハシタマヘト大音聲アリシハ下馬橋附近ナリト傳ヘラル
昭和十二年三月建 鎌倉町青年團
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日蓮上人は文永8年(1271)の法難で松葉ヶ谷から龍ノ口刑場に送られる際、この辺りで叫んだ様ですね・・・
『誰か!助けて下さいっ!』・・・って違うか(笑)・・・セカチューならぬゲバチューになっちゃいますね・・・
そしてぼたもち食べてポパイの様にパワーアップして生き延びます・・・ってこれも違うか?
ポパイって古いなぁ(笑)・・・自分も忘れかけてましたよ・・・ケンシロウの様に袈裟が破れ散った事にしときましょ!
そして逆に処刑人の秘孔を突きまくり生き延びたんですね(笑)
皆さんも9月12日の法難会、ぼたもち撒きに参加しましょう!
食べればたちまち服が破れ、触った人が爆発するかも知れませんよ!
案内板にもある通り、昔は下ノ下馬と呼ばれていました・・・トップページに貼った鶴岡八幡宮境内図を見て貰えば分かると思いますが、若宮大路には駒止め柵が3つあった様です・・・上、中、下ですね・・・
したがって下馬橋は下ノ下馬橋となるわけです・・・
【吾妻鏡】には中ノ下馬橋と下ノ下馬橋の記述があります・・・てーわけで、中ノ下馬橋を捜しましょう!
二ノ鳥居の西側にあったらしいです・・・ |
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完全に暗渠と化していますが下ノ下馬橋の様に欄干だけ残っていました・・・橋名を記したプレートが取り付けてあったと思われるスペースには現在何もありません・・・戦時中の鉄不足で持って行かれちゃったんでしょうか?
写真の通り二ノ鳥居の西側真横にあります・・・狛犬デッカイなぁ・・・セメント造りのカッコ悪い代物だけど・・・
山里って店の目の前です・・・北鎌倉の店舗は物凄く雰囲気が良かったのでかなり通っていましたが、残念ながら現在はもうありません・・・自分が贔屓にしている店って良く潰れるんですよね(笑)
藤沢にあったハンバーグの店も潰れてしまった・・・かなり前の話ですけどね・・・あれは痛かったなぁ・・・
しかしこれがホントに中ノ下馬橋なんでしょうか?・・・確証はありません・・・でもわざわざ欄干を残すくらいですから、それなりの謂れがあるんでしょう・・・単に壊すのがメンド臭かっただけかも知れませんけど・・・
でもハッキリいって気付いてない人の方が多いですよね・・・残すならもっとアピールすればいいのに! |
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上ノ下馬橋は源平池に架かる橋との事ですので、赤橋(太鼓橋)の事でしょう!
将軍も赤橋の所で下馬している記述がありますからほぼ間違いないでしょう!・・・てゆーか・・・
渡りたくても馬じゃキビシイでしょコレ?・・・下りるしかないですね・・・馬車なんか絶対無理ですよ・・・
鶴岡八幡宮だけにツルツルして滑りまくりますし・・・まぁ、当時はどーだったか知りませんけどね・・・
現在は駒止めどころか通行止めです・・・七五三の時に駆け上がったのが懐かしい限りであります・・・
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おまけ
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早朝下馬付近を訪れるといつもポケットパークのベンチに腰掛けていたホームレス・・・
今日は見かけない・・・お亡くなりになったのか?
と思ったらバス停のベンチで気持ち良さそうに爆睡してらっしゃいました・・・
まったく心配かけさせやがって・・・心配してねぇーけど!
確かにこっちのベンチの方が楽そうですね・・・
つーか傘持ってたんだ?(笑) |
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おしまい |