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左の写真は全国的にも有数の参拝者数を誇り、鎌倉観光に訪れる多くの方々が足を運ぶ鶴岡八幡宮です・・・
人っ子一人いねぇ~じゃねぇ~か!・・・って話ですけど、
この写真は人混みの嫌いな自分が日の出前に訪れて撮った物だからであります・・・休日などは多くの人が訪れ境内は常に賑わいを見せています・・・ホントですよ(笑)
さてこの超有名な鶴岡八幡宮ですが、元からココにあった訳ではありません・・・ |
源氏と深い関わりのあるこの神社ですが、説明するには源氏と鎌倉の繋がりから話さないとなりません・・・
そもそも源氏はいつ鎌倉へ来たんでしょう?
長元元年(1028)に房総で勃発した平忠常の乱からスタートしましょう!
この乱は関東では平将門の乱(承平天慶の乱)以来の大規模な反乱といわれています!
乱を鎮圧する為に朝廷は平直方と中原成道を向かわせます・・・しかし乱は鎮まらず成道は解任・・・
その後も忠常の抵抗は続き、長元3年(1030)、しびれを切らした朝廷は直方を呼び戻し、代わりに甲斐守源頼信を討伐に向かわせます・・・そして翌年(1031)、頼信が上総へ向かおうとした時、忠常は出家し頼信に降伏します・・・
なんともあっけない幕切れです・・・
頼信の息子の頼義も共に乱の鎮圧に向かっていました・・・そしてその頼義の弓の腕前に感心した直方が娘を嫁がせ鎌倉にあった大蔵の屋敷を譲るんです・・・これが源氏と鎌倉が深く結び付くきっかけとなります・・・
この乱で頼信傘下に加わった坂東武士達も河内源氏が東国に勢力を拡げる基盤となりました・・・
そしてその後前九年の役で安倍氏を滅ぼし奥州を平定した翌年、康平6年(1063)に鎌倉の由井郷鶴岡(現在の材木座)に氏神である京都の石清水八幡宮を勧請します・・・これが由比若宮、鶴岡若宮といわれるものです・・・
そして時は流れ、治承4年(1180)に鎌倉入りした頼朝は、まずココへ訪れています・・・そして小林郷北山(現在地)に遷座したんです・・・当時は弦巻田といわれる湿地だったそうです・・・吾妻鏡には壽永元年(1182)4月24日、専光坊良暹と大庭景義がこの水田3町あまりを池にしたとの記録が残っています・・
良暹は前々からの頼朝との約束により走湯山(伊豆山神社)から治承4年(1180)10月11日に鎌倉入りし、翌日には現在地に遷座した鶴岡宮の別当となっています・・・
頼朝が鎌倉入りしてから一週間経ってないですよ・・・やる事早いですね・・・頼朝は自分の立ち位置がホント良く分かってます・・・
ちなみにこの時はまだ現在の様な本宮、若宮の上下両宮の形ではありません・・・
そして建久2年3月4日、大火事が起こります・・・以下【吾妻鏡】です・・・
隠。南風烈し。
丑の刻小町大路の辺失火す。江間殿、相模守、村上判官代、比企右衛門尉、同籐内、佐々木三郎、昌寛法橋、新田四郎、工藤小次郎、佐貫四郎已下人屋数十宇焼亡す。余炎飛ぶが如くして鶴岡馬場本の塔婆に移る。この間幕府同じく災す。則ちまた若宮の神殿・廻廊・経所等悉く以て灰燼と化す。供僧の宿坊等少々同じくこの災を遁れずと。
凡そ邦房の言掌を指すが如きか。寅の刻籐九郎盛長の甘縄の宅に入御す。炎上の事に依ってなり。
小町大路の辺で出火、強い南風に煽られて燃えます燃えます!辺り一面灰燼に帰した様です・・・
五重塔も若宮も御所もみんな燃えちゃったみたいです・・・でもすぐに再建に取り掛かります!
そして同年11月21日、
鶴岡八幡宮並びに若宮及び末社等の遷宮なり。義盛、景時等、随兵を率い辻々並びに宮中を警衛す。
その後幕下(御束帯・帯剱)御参宮。江間殿御剱を持ち御座の傍らに候ぜらる。朝光同じく参候す。
すでに殿内に送り奉る。好方宮人の曲を唱う。頗る神感の瑞相有りと。
新たにお引越しであります・・・この時に現在の形になりましたとさ・・・ザックリと説明させて頂きました・・・
大火事の前日、興味深い記事があります!・・・以下の通りです・・・
建久2年(1191)3月3日 辛亥 霽
鶴岡宮の法会、童舞十人(箱根の垂髪)有り。また臨時祭、長馬十騎、流鏑馬十六騎、相撲十六番。幕下御参宮。越後守、伊豆守、江間殿、小山左衛門尉、同七郎、三浦介、畠山次郎、和田左衛門尉、三浦左衛門尉、伊東四郎、葛西兵衛尉已下御共に候す。晩景事訖わり還御の後、供奉人等未だ退出せず、各々侍所に候す。その中に廣田次郎邦房と云う者有り。傍輩に語りて云く、明日鎌倉に大火災出来し、若宮・幕府殆どその難を免がるべからずと。
これ大和守維業の男なり。然れば家業を継がば、儒道の号有りと雖も、天眼を得難きかの由人これを咲うと。
伊東四郎がいます!(笑)・・・ じゃなくてその下、廣田次郎邦房って人物が、明日大火事で全部燃えるよ!って言ってたらしいんです・・・しかし、皆笑って信じてくれませんでした・・・
これ犯人コイツでしょ!・・・笑われた腹いせに(笑)
火事当日の『凡そ邦房の言掌を指すが如きか』という一文はこれの事の様ですね・・・
こんな怪しい発言してますが、その後特に問い質された様な記事はありませんでした・・・
鶴岡八幡宮の成り立ちをある程度理解して頂けたと思います・・・頼義が勧請した物を頼朝が現在地に移した!
そして頼義が勧請した場所に現在建っているのが今回紹介させて頂く元八幡であります!
元あったから元鶴岡八幡宮です・・・シンプルですね・・・ |
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大町四ッ角の交差点を南下して行きます・・・
そして本興寺、辻薬師堂を越えJR横須賀線の踏切を渡ります・・・するとすぐに右に入る細い道があります・・・
左の写真がその道の入り口ですが石標が建っています!
一応建っています・・・
気を付けて見ていないとまず見落とすと思います・・・
『元鶴岡八幡宮』と彫られているんだと思いますが、『宮』の字が地面に埋まってしまっています・・・ |
電柱にも元八幡って道標がありますがホント分かり難い場所にあります・・・
まぁ、ココからでも行けるんですけど元八幡の横に出てしまいます・・・どーせなら正面からお参りしたいです・・・
つーわけでココで曲がらずにもうひとつ先の交差点を右に曲がります・・・しばらく進むと道の左側にバス停元八幡が見えて来ます・・・その向かい側が入り口です!コッチの石標の方が分かり易いですね・・・ |
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かつてココにあったとはいえ、現在の鶴岡八幡宮の若宮大路と比べてはいけませんね・・・
レストランと同じですよ・・・高い金出せば当然美味い物食えます・・・お洒落な店は混んでます・・・
安くて美味い穴場な店を見つけた時の喜びは筆舌に尽くし難い物があります!
そう考えて良く見てみましょう・・・
何とも味のある道じゃぁないですか! |
マンホールの蓋なんか青だし、超お洒落!・・・しかも2つもるじゃぁないですか!(笑)・・・凄ぇ~!やるなぁ!
無理やりこの道を持ち上げてみましたが、悲しくなるだけなのでさっさとお参りして帰りましょう(笑) |
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こげな感じです・・・元八幡の史跡碑が建っています・・・やっぱココには建てますよね、外せない場所です!
鶴ケ丘八幡宮ハ東鑑ニ本社ハ伊豫予守源頼義勅ヲ奉シテ安倍ノ貞任征伐ノ時丹祈ノ旨有リテ康平六年秋八月潜ニ石清水八幡ヲ勧請シ瑞垣ヲ當國由比ノ郷ニ建ツ永保元年二月陸奥守義家修復ヲ加フトアルハ即此処ニシテ鶴ケ丘トハ昔時此地ヲ呼ヒタルナラム其後治承四年十月十二日源頼朝祖宗ヲ崇メンタメ小林ノ郷北ノ山ヲ点シテ宮ノ廟ヲ構ヘ由比ノ宮ヲ此処ニ遷シ奉ル之レ現時ノ八幡宮ニテ東鑑ニ治承四年十月七日頼朝先ツ遥ニ鶴ケ丘八幡宮ヲ拝シ奉ルトアルハ由比ケ浜ノ宮ナリ遷宮ノ後モ鶴ケ丘八幡宮ト云ヒシハ舊称ニ従ヘルナリ爾来此処ヲ元八幡ト称ス
昭和三年三月建之 鎌倉町青年團
頼義が勧請した事や、頼朝が現在地に遷宮した事、ココの地名が鶴岡であり現在地に移ってもそのまま旧称を使っている事など・・・結構分かり易く記されていますね・・・
鶴岡について【鎌倉の地名由来辞典】を開いて見ましたが載っていませんでした・・・
でも昔は由比ヶ浜に鶴が来ていたという話は聞きます・・・山の上に桟敷があり、そこで鶴の飛来を眺めて楽しんだって話です・・・鶴岡、鶴丘・・・色々と想像が膨らみますね・・・ |
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文学案内板がありました・・・芥川龍之介がココで新婚生活を送った事が書かれています・・・
彼が鎌倉に居た期間は僅か数年ですが中々渋い場所で暮らしてたんですね・・・ |
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鳥居を潜り・・・ささやかな社殿です・・・ココが現在の鶴岡八幡宮の始まりの地であるという事を頭に置きながら見れば、また違った風景となるかも知れません・・・以前はもっと色が薄かった記憶があるんですけど、塗り直した様ですね・・・ |
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お馴染みの鶴マーク・・・広い境内ではありませんが中々雰囲気もあります・・・音松稲荷や三十番神宮ほどではありませんが宅地に隠されている様な立地がたまりませんね・・・探し当てたぞぉ~って感じが否応なしに気分を高揚させてくれます・・・そして、大抵は裏切られます(笑) |
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参考までに、左上の写真は音松稲荷へ続く道、右上の写真は三十番神宮へ続く道です・・・
音松稲荷の方はホントやばいです・・・自転車降りて押して歩くのは至難の業ですよ・・・ペダルが脛に当たって痛い(笑)
話は元八幡に戻りまして・・・ |
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鳥居を潜った左側に『源義家公 旗立の松』なる物が置かれていました・・・例の如く何の説明もありません・・・
八幡太郎義家っていえば源氏のヒーローです!
説明何ていらねぇだろ?・・・て事なのかな・・・
義家は頼家の息子であります・・・前九年の役では父と共に奥州平定に向かっています・・・
そして永保3年(1083)の後三年の役で再び奥州へ向かう事となります・・・ |
その際に戦勝祈願しココに源氏の旗を立てたという話だそうです・・・源氏山に立てたって話は有名ですけどココでもやっていたんですね・・・
後三年の役は義家の私闘とみなされ朝廷からの恩賞は長い間出ませんでした・・・義家は従った武士たちに私財から報酬を出さざるをえません・・・しかし逆にこれが坂東武士の心を掴んだようです・・・私財を投げ打ってまでちゃんと自分達に報酬を与えてくれるなんて・・・なんと素晴らしい人物だ!・・・義家結果オーライ(笑) |
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さて場所は変わって坂ノ下の御霊神社です!
通称権五郎神社ともいわれている通り祭神は鎌倉権五郎景政であります・・・
ココには旗立の松ならぬ『弓立の松』なる物があります!
似ていますねぇ・・・コチラには説明がありました・・・
鎌倉、湘南地域を平安時代後期に開拓した開発領主である鎌倉権五郎景正公が、御領地を見まわる際に弓を立てかけられたと伝える松の古木
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景政は16才の時に義家に従軍し後三年の役に向かっています・・・矢で目を射抜かれながらも勇敢に闘ったという話は有名です・・・でもどーやら景政は北斗神拳奥義二指真空把は使えなかった様ですね・・・
すいません自分モロ北斗世代なもんで(笑)・・・飛んで来た矢を人差し指と中指で挟んで相手に投げ返すという何ともふざけた技の事であります・・・ケンシロウにボーガンの矢を放ったスペードはこの技により右目を潰されています・・・
さて景政ですが、永保元年(1181)とも三年(1183)ともいわれていますが、とにかく義家に大倉(大蔵)の屋敷四町四方を譲り、自分は甘縄へと移っています・・・義家が館を修造した時に譲ったともいわれていますから地続きだったんでしょうか?それとも別の場所?・・・これは意外と大きな問題かと思いますが・・・どーなんでしょ?
その話は後にして・・・つまり景政と義家は結構接点があるって事です・・・
これらの松がいつから祀られているのか知りませんが、例えば御霊神社の松の古木が枯れちゃったとします・・・
もったいないから景政が弓立てたって事にしよう!・・・じゃあウチは旗立てだぁ!・・・みたいな・・・
江戸時代には『後三年の役 聖地巡礼ツアー』に盛り込まれたかも知れません(笑)
いつ枯れたのか知りませんが、今の様に個人で情報を得られない昔であったならば言ったモン勝ちですよね?
うるさく反論する人もいないでしょう・・・そして現在へ至るみたいな(笑)
アホな話してしまいました・・・そーいえば山梨県北杜市に武田信玄が旗を掛けたと伝わる松があったと思います・・・
今はやはり枯れてしまって信玄公旗掛松碑と刻まれた石碑が建つのみの・・・
国鉄日野春駅の線路脇に立っていたこの松が鉄道の影響で枯れてしまったとして、所有者が国を相手取り訴訟を起こし勝訴したとの事で有名ですが、そんな事どーでもいい・・・
それより本当に信玄公が旗を掛けた松なのかどーかの検証に力を入れて頂きたいモンです・・・
景政、義家の時代よりはるかに新しい物件ですから、その分信憑性も上がりますが・・・
コチラの物件も多分でっち上げでしょうね(笑)・・・何も信じられない自分です(笑) |
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元八幡をすっかり満喫(3分くらい)したのでお家へ帰りましょう・・・先程通らなかった横の道を通って行く事にします!
進んで行くと道の左側に石清水の井と呼ばれる物があります・・・やはり謂れなどの説明はありません・・・
多分石清水八幡宮に因んだ名称なんでしょうけど・・・芥川龍之介もこの井戸の水を汲んだんですかねぇ?
なんて考えてたら小腹が空いたのでお家へは帰らずコロコロバーガーへと向かったのでした(笑)
さて、コロコロバーガーとは全く逆方向ですが、清泉小学校の角には大蔵幕府舊蹟の史跡碑が建っています! |
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今ヲ距ル七百三十七年ノ昔治承四年源頼朝邸ヲ此ノ地ニ営ミ後覇権ヲ握ルニ及ビテ政ヲ此邸中ニ聴ク所謂大蔵幕府是カリ爾来頼家實朝ヲ経テ嘉禄元年政子薨ジ幕府ノ宇津宮辻ニ遷レルマデ此ノ地ガ覇府ノ中心タリシコト實ニ四十六年間ナリ 大正六年三月 鎌倉町青年會
治承4年(1180)頼朝がココに屋敷を立ててから、嘉禄元年(1225)に北条政子が亡くなるまでココが幕府の中心地だったといっています・・・ |
分かり易い説明でいいですね・・・【保暦間記】によると頼朝は頼義の屋敷跡に館を建てたらしいです・・・
頼義の屋敷って事は義家の屋敷って事です・・先程も述べましたが後三年の役の辺りで義家は景政に大蔵の四町四方の屋敷を譲られています・・・これが父から譲られた屋敷と地続きだったのか、それとも離れた場所にあったのか?
どちらにしても義家の屋敷というひとくくりですが、大蔵幕府が実はもともとは景政の屋敷だった所に建っているという可能性も出て来るわけですよね・・・
それぞれの屋敷跡について詳しく調べた訳ではないので良くわかりませんけど(笑)
鎌倉の楯は父祖伝来の地と称して義朝が現在の寿福寺の辺に館を構えていましたがあの場所は何なんだ?
にしても鎌倉幕府創世記の貴重な遺跡に小学校建てちゃうなんて凄いですね・・・発掘調査とかやってたと思いますが更に詳しい調査は小学校が崩壊した時ですかね?・・・大地震来ないかな(笑)、休日で子供がいない時に局所的に小学校だけ揺れて倒壊してくれれば助かるんですけど・・・散歩してたオッサンひとり位の犠牲なら許容範囲とします(笑)
子供は可哀想だ・・・
政子が死んだ後、幕府は移動されました・・・
場所が分かり難いですが、若宮大路沿いの鎌倉彫会館と教会の間の脇道へ入ると宇津宮稲荷があります・・・ |
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そこに建ってるのが宇津宮辻幕府舊蹟の史跡碑です!
鎌倉幕府ハ初メ大藏ニ在リシガ嘉禄元年政子薨シテヨリ之ヲ他ニ遷サントノ議起リ及チ時房泰時等巡検評議ノ末同年十一月此ノ他ニ造營十二月将軍藤原頼經此ニ移リ住ス爾後嘉禎二年頼經再ビ之ヲ若宮大路ニ遷セルマデ天下ノ政令ノ此ニ出ヅルモノ凡ソ十二年ナリ 大正十年三月建之 鎌倉町青年會
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幕府が大蔵からココヘ移って来た経緯が記されています・・・北條時房、泰時などが検討した結果ココに決定した様ですね・・・北條執権邸は現在の宝戒寺の辺にありましたから近いですね・・・宇津宮辻子幕府は4代将軍九条頼経が再び移動するまで12年間続いたとも記されています・・・
若宮大路と小町大路の間には細い道が結構あり、それらは大いに鎌倉っぽさを感じさせてくれる代物です・・・
便利ですが土地勘がないと思い通りの場所へ出られないのも事実です・・・でも迷うのも楽しいと思います!
怪しい小路を見つけたら取り敢えず入りましょう!・・・何か発見があるかも知れません・・・よ?・・・(笑)
そして幕府の次の移動先は少し北側となります・・・狭い区域でコロコロと・・・せわしないですねぇ・・・ |
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大佛次郎の屋敷跡は現在大佛茶廊として営業していますが、その辻に若宮大路幕府舊蹟の史跡碑があります!
鎌倉ノ幕府ハ始メ大藏ニ在リシカ嘉禄元年政子ノ薨ズルト共ニ将軍藤原頼経之ヲ宇津宮辻ニ遷シ後十一年ニシテ嘉禎二年再ビ此ノ地ニ遷ス爾来九十八年頼経以後六代ノ将軍相繼ギテ政ヲ此ニ聴ケリ元弘三年新田義貞ノ鎌倉ニ亂入スルニ及ヒテ廢絶セリ
大正七年三月建之 鎌倉町青年會
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嘉禎2年(1236)から鎌倉幕府滅亡の元弘3年(1333)まで98年間ココに置かれていたと記されています・・・
遷された理由は土地に障りがあり頼経が病気になったからとか、頼経を監視する為とか色々いわれていますが、とにかく泰時邸の辺りに遷された様であります・・・理由が仮に前者だったとしたらこんな近くじゃあまり意味が無い様にも感じますが・・・やはり政治的な問題で遷されたと考える方が一般的でしょうかね・・・
大佛茶廊ですが、結構隠れ家っぽい感じでいいんですけど土日祝しか営業してないのが痛いです・・・
今年の夏休みは20日間だった様で・・・ちょっと休み過ぎなのでは?(笑)
文豪大佛次郎の屋敷をある程度一般に開放しているのは素晴らしい事だとは思いますけど・・・
興味のある方はどうぞ・・・お店HP |
より大きな地図で 鎌倉幕府(御所)の変遷 を表示 |
おしまい |