全国どこにでもある八雲神社ですが、鎌倉にもこの『八雲神社』と呼ばれる物件は4つあります! |
晴明石のある八雲神社(山ノ内) |
円久寺横の八雲神社(常盤) |
来迎寺前の八雲神社(西御門) |
そして、今回紹介する大町の八雲神社!
源義家の弟である新羅三郎義光に所縁のある厄除けで知られる神社です!
大町大路から妙本寺に抜ける細い道沿いに建つ神社ですが、他の3つに比べると観光客が目にする機会の多い神社ではないかと思います・・・
常盤の八雲神社なんか観光客ゼロだろーなぁ(笑)
大きいのが好きって人は鶴岡八幡宮へ行きましょうね! |
鎌倉には観光客が喜びそーな神社は鶴岡八幡宮と鎌倉宮くらいしかありません・・・
他はこじんまりとした地味な物ばかりです・・・地味なりにその歴史や由緒などに触れて感慨深くお参りしましょうね!
『やくも』なのか『やぐも』なのか・・・読み方で悩みますが、手持ちの【鎌倉の神社小辞典】には西御門のが『やぐも』で、他の3つは『やくも』とルビがふられていたので、ココではそーゆー事にして置きます!
大町のが『やぐも』と読むって話を聞いた様な気もしますが、まぁ、どーでもいっかぁ・・・漢字は同じだし(笑)
全国の八雲神社は主に素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀っています!
天照大神の弟で、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を倒してその尾から三種の神器のひとつである天叢雲剣(草薙剣)をゲットした神ですね・・・結構乱暴者だったそーです・・・
ちなみに現在、天叢雲剣は名古屋市の熱田神宮の御神体として祀られていますよ!
八雲神社の名の由来は、素戔嗚尊が『八雲立つ 出雲八重垣妻籠に 八重垣作る その八重垣を』という歌を詠んだ事に因むんだそーです・・・
一応、鎌倉市内にある八雲神社のマップを貼って置きますね・・・ |
より大きな地図で 鎌倉の八雲神社 を表示 |
今回紹介する大町の八雲神社の近くに黄色いマーカーがあるのが分かると思いますが、そこには大宝寺という寺が建っています・・・『佐竹屋敷』といわれていた場所ですが、そー呼ばれていたのには理由があります!
後三年の役で兄義家と共にこれを鎮めた新羅三郎義光は甲斐守となってココに館を構えたらしいです・・・
で、常陸の御家人佐竹氏が代々住んだので『佐竹屋敷』の名が付いたって訳です!
何故佐竹氏?・・・と思われる方もいらっしゃるでしょう・・・それはですねぇ・・・
佐竹氏初代の佐竹昌義が新羅三郎義光の孫だからです・・・源平合戦の時はゴタゴタしましたが、佐竹氏にも河内源氏の血が脈々と流れています・・・
鎌倉の流鏑馬で活躍する武田流と小笠原流・・・武田氏と小笠原氏もこの新羅三郎義光の子孫から始まりました・・・
その他、多くの有名氏族が彼の末裔から始まっています・・・
大宝寺に関してはまた別の機会に取り上げさせて頂こうと思います!・・・ショボイですが義光の墓もありますよ!(笑)
さて、そろそろ八雲神社へ行きましょうかね! |
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『厄除け祈願』と書かれた幟が並んでいます・・・赤には魔を払う力があるといいますが、賑々しいですねぇ!
この神社の裏山は衹園山ハイキングコースの起点となっています!
今までずっと『祇園山』だと思ってましたが、どーやら『衹園山』と書く様ですね・・・
『ぎおんやま』には変わりないですけど・・・日本語ってメンド臭いですね・・・
東勝寺跡まで繋がる実に短いハイキングコースですが、妙本寺へと下りる分岐もあります・・・1度くらいなら歩いてみるのも悪くはないと思いますよ!
あっという間に踏破出来ますんで、若干の物足りなさは否めませんけど・・・ |
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手水屋には『手水のつかいかた』という物がぶら下がっていました・・・
どーでもいいんですけど、少女の服装が昭和臭を放ってますねぇ・・・レトロ感溢れてますなぁ(笑)
赤に白の水玉・・・靴下にはサクランボみたいなの付いてるし・・・凄いセンスだなぁ・・・こんなの最近見た事ないよ!
でも、この絵・・・どっかで見た覚えがあります・・・ドコだったかな?・・・まぁ、いいや・・・ |
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狛犬もいます・・・やっぱ神社には彼等がいないと締まりませんよね? |
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社はこんな感じです・・・過剰なまでの厄除けアピールを除けば、まぁ、普通の神社って感じですよね・・・
一応、由緒を記した案内板が立っていますんで見てみましょう! |
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稲田比売命は【古事記】では『櫛名田比売(くしなだひめ)』、【日本書紀】では『奇稲田姫(くしいなだひめ)』と表記されています・・・素戔嗚尊の奥さんですね・・・
『大和撫子(やまとなでしこ)』の語源ともいわれている女神です・・・
稲田姫は足名椎命(アシナヅチ)、手名椎命(テナヅチ)という夫婦神の娘です・・・
『ナヅ』とは『撫でる』という意味で『撫でる様に大事に育てられた姫』という解釈がある様ですね・・・
8人姉妹でしたが毎年ひとりずつ八岐大蛇にパクッと食べられてしまい、残るは稲田姫のみという状況でした・・・
そんな時、出雲に降り立った素戔嗚尊がこの親子に出会う訳です!・・・彼は美しい稲田姫に一目惚れします!
そーして彼女を嫁にくれるなら八岐大蛇を退治してやるという条件を出しました・・・両親はOKを出します!
それにしても素戔嗚尊は人の弱みにつけ込んだ嫌な条件を出しますねぇ(笑)
素戔嗚尊は稲田姫の姿を櫛へ変え、自分の髪にさして八岐大蛇と戦い倒します!
そして元の姿に戻した稲田姫と結婚し、ポンポンと子供を産ませましたとさ(笑)
まぁ、稲田姫が美人だったから助かったって事でいいのかな?
もし【観蔵院】のページで話した石長姫(イワナガヒメ)の様に激ブスだったら、八岐大蛇に普通に食われて話は終りだった事でしょう・・・やっぱ美人は特ですね・・・この様に体さえ提供すれば大概の物は手に入ります(笑)
八王子命は素戔嗚尊と天照大神との誓約の際に誕生したとされる八柱神・・・
素戔嗚尊が高天原の天照大神を訪ねた時、彼女は弟が攻め込んで来たと勘違いしました!
で、その疑いを晴らす為に誓約が行なわれたって訳です・・・
天照大神の息吹から3人の女神、素戔嗚尊の息吹からは5人の男神が誕生しています・・・
まぁ、牛頭天王と習合した素戔嗚尊ですからね・・・牛頭天王にも8人の子がいたとされています・・・
素戔嗚尊、櫛名田比売命、八王子命は結構セットで祀られています・・・
『戦国時代小田原城主北条氏直公は祭礼保護の・・・』という下りがありますが、これは天正14(1586)の事の様です!
『祭礼に際し不敬不礼の者は厳科に処す』・・・との事です・・・ハメはずしたりしたら厳罰です!(笑)
八雲神社(大町)
大町の鎮守。古い厄除開運の社として知られ、地元では『八雲さん』、『お天王さん』と呼ばれ親しまれている。
社伝によれば、永保年間(1081~1084)、新羅三郎義光が兄八幡太郎義家の奥州攻め(後三年の役)の助勢に赴く途中にこの地に立ち寄った際、疫病に苦しむ人びとの姿を見て京都祇園社の祭神を勧請したのが始まりという。
創祀とともに悪疫は退散し、民は難を逃れ安堵したと伝えられる。
応永年間(1394~1428)、佐竹屋敷に祀られていた祠が合祀され佐竹天王と称した。佐竹氏は新羅三郎義光の子孫で代々、源氏、足利氏、豊臣秀吉に仕え、『天下六大名』のひとつに数えられた。その後も『祇園さま』と崇められ、江戸時代も代々の徳川将軍家より朱印を賜った。
明治維新の際、社号を鎌倉祇園社(祇園天王社)から八雲神社に改称。明治6年(1873)大町区の鎮守として『村社』に列格された。関東大震災では社殿が倒壊したが、昭和4年(1929)7月に再建された。
宝蔵庫には江戸時代の神輿四基、宝剣、銅鏡などガラス越しに自由に拝観できる。裏山は東勝寺跡に通じる衹園山ハイキングコースとなっており、四季を通じハイカーの姿が絶えない。 (参照:鎌倉の神社小辞典)
『四季を通じハイカーの姿が絶えない』とありますが、そこまで人気のあるコースではないと思います(笑)
新羅三郎義光が兄の助勢に向かう途中、この地で疫病に苦しむ民を救う為に京都祇園社から勧請・・・
中々イイ奴ですね・・・また、彼等は兄弟仲がいい事でも知られています・・・
苦戦する兄義家の援軍として出陣する事を朝廷に願い出るもその許しは得られず、官職を投げ捨ててまで兄の為に駆け付けた美談は有名です・・・
義家、義綱という勇猛を馳せた2人の兄とは年も離れ、彼等の武名に隠れ出世も遅かったとの事・・・
やっとの事で手に入れた官職です・・・それを手放してまで援軍に向かうなんて泣かせますねぇ・・・
もっとも、甥の義忠を暗殺したり、その実行犯の鹿島三郎を生き埋めにして殺したり(義光は鹿島三郎に義忠を殺した後は快誉という僧のもとで身を隠す様に指示していました)と、えげつない事もしてますけど・・・
鹿島三郎を殺したのは快誉(義光の弟)ですが、当初から事が済んだら口封じの為に始末する手筈だったんでしょう・・・
ヒドイ話です・・・ちなみに鹿島三郎は義光の息子(義業)の奥さんの兄です・・・
義家、義綱、義光は同腹の兄弟であり、それが仲の良さに繋がっていたのかも知れませんね・・・
例え兄弟であっても油断できない時代ですから、そーとも言い切れないかも知れませんが、後の世の頼朝、義経と比較してしまいます・・・
義経が参陣した際には、最初こそ義家と義光の話を持ち出してその行為を喜ぶ頼朝でしたが、最期は追い詰め追い詰め死に追いやってますからね(笑)・・・まぁ、2人は同腹ではありませんけど・・・
八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光・・・それぞれ石清水八幡宮、賀茂神社、新羅大明神で元服した事によりそー名乗っています・・・
ちなみに義綱とその6人の息子達は義忠暗殺の実行犯と疑われ、それぞれ悲惨な最期を遂げています・・・
真犯人は義光なのに・・・冤罪です・・・可哀想に・・・今も昔も権力が絡むとロクな事にならないですね・・・ |
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境内中程にある木の根元には『新羅三郎手玉石』なる物があります・・・そー書かれている立札があるだけで詳しい事は分かりませんが、義光が手玉に取ったんでしょうなぁ・・・何kgくらいあるんだろ? |
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社殿手前には一対の天水盤があります・・・東京オリンピックの聖火台を造った鈴木文吾って人が鋳造した物であると案内板には書かれています・・・神紋は八坂神社と同じ物ですね・・・五瓜に唐花紋です・・・
素戔嗚尊は木瓜と関係が深いですからね・・・
社殿の右脇を抜けて行くとには衹園山ハイキングコースの入口となります・・・ |
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ちょっと上った所に御嶽神社と三峰神社もあります・・・ショボイ(笑) |
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社殿の左側にも境内社が並んでいます・・・何かゴチャゴチャしてるなぁ(笑) |
諏訪神社(建御名方神) |
稲荷神社(宇迦之御魂神) |
於岩稲荷社(田宮於岩神) |
なんか綱(鈴緒)にピントが合っちゃてるなぁ(笑)
どれも鏡が置かれています・・・
於岩稲荷社は四谷怪談で有名なお岩さんを祀った神社ですね・・・
お岩さんも美人だったらあんなに苦労する事もなかったでしょうに・・・でも性格も悪かったって話も聞きますし、実際はどーだったんでしょうか?
ブスで性格も悪いって・・・かなり終わってるなぁ(笑) |
お岩稲荷はお岩さん本人が四谷にあった田宮家の敷地内に勧請したと伝わっている様です・・・
現在も同所に再建されています・・・怪談と商売繁盛の繋がりがどーもしっくり来ないですが、なんでもお岩さんがこの稲荷を勧請してから、貧しかった生活が少し向上したんだそーです・・・微妙だなぁ・・・
もっと一獲千金的な話じゃないとテンション上がりませんよ! |
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イイ感じに苔生した祠も並んでいます・・・湿度高そーだし苔もよく育つ事でしょう! |
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植木鉢と化した水盤(笑)
看板の『鎌倉最古』という赤文字が目立ちますね・・・その根拠は何なんでしょうか?
何でもかんでも古けりゃいいって訳でもないと思いますけど・・・だったら本社の八坂神社に行けって話です! |
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お守りなどのグッズも多種取り揃えているみたいですが・・・やはり湿気が多いのか見本はカビだらけ(笑)
これはちょっといただけませんねぇ・・・見本とはいえちゃんと管理していただきたい! |
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宝蔵殿はガラス越しにですが無料で拝観出来ます!・・・まぁ、これで金取られたら間違いなく暴動が起きます(笑)
新羅三郎義光関連の宝物とかは無さそーですね・・・【新編相模国風土記稿】でも見てみましょうか!
祇園天王社
松殿町にあり、 永保年中新羅三郎義光の勧請にて神体は秘像と云伝ふ、 氏也管領の頃は毎年六月七日公方屋敷に神楽を奏し奉幣の式あり、 又十四日の祇園会も是と同じ、
築地の上桟敷を構へ舞練物等見物あり、 又応永年中佐竹四郎義秀の霊を祀し社其屋鋪蹟にありしが、後年大破に及しより玆に合祀すと云ふ(其年代詳ならず)、
故に土俗佐竹天王と称す、 按ずるに、義秀は頼朝に属せし人にて時代違へり、 応永の末に其末葉佐竹上総介義顕、管領持氏の不審を蒙り討手を引請、 終に比企谷の法華堂(今の妙本寺也)にて自害す、
其霊祟あえいとて一社に祀りし事あり、 是今相殿の旧社にて義秀と云ふは義顕の誤なるべし、 例祭旧に因て六月七日より十四日迄行はる、 本日当村乱橋村の二所に仮屋を設、
前の二村小町村又雪ノ下村の内大蔵町の四所に四座の神輿巡行あるを例とす。 天正十四年六月小田原北條氏より祭礼の時の制札を出せり、 慶長九年三月社領五貫文及山林竹米、守護不入の御朱印を賜ふ、神主小坂播磨吉田家の門人。
宝物関連の記述は見当たりませんね・・・社伝が残っているとはいえホントに義光の時代からあったんでしょうか?(笑)
【吾妻鏡】には『松童社』の記述が見え、場所的にもココの事を指している様ですし、少なくとも鎌倉時代には確実にあったと見るべきでしょうね・・・八雲神社は『松堂祇園社』、『松殿祇園社』などとも呼ばれていました・・・ |
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しかし、神輿が公方屋敷まで渡御していたとは・・・御馬冷場の所ですから結構遠いですよ!、暇人だなぁ・・・
現在も『大町祭り』と呼ばれる夏祭りには4基の神輿が出揃い、『悪疫退散招福繁盛』が約束されるとして結構な賑わいを見せています・・・
そんな感じの八雲神社ですが、安養院へ行かれるなら途中立ち寄ってみては如何でしょうか?
特に何があるわけではありませんが、レトロな感じの少女が描かれた案内板を見て癒されましょう(笑)
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おまけ
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どっかで見た記憶があるレトロな少女の絵・・・う~ん、ドコだったっけ?
鎌倉だったと思うんだけどなぁ・・・って感じで今までに撮り溜めた鎌倉の神社の写真を見返していたら・・・ |
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発見しました!・・・全く同じ絵です(笑)
ドコにあったのかといいますと、腰越の小動神社です!
恐らく鎌倉でこの絵を見れるのはこの2箇所だけだと思います・・・
別にわざわざ見に行く様な代物ではありませんけど、発見出来てモヤモヤしていた物がスッキリした感じです!
小動神社・・・『こゆるぎじんじゃ』と読みます!
国道134号線沿いにある神社です・・・ |
駐車所が無いので車で素通りされるパターンの神社ですね・・・知ってるけど行った事ないよって人が結構多いんじゃないでしょうか?・・・祭神は素戔嗚尊、建御名方神、日本武尊だったと思います・・・
海に面しているので眺めはいいです!・・・意外と穴場です!・・・夕陽を見ながら黄昏ましょう!
江ノ島の八坂神社と合同で行われる天王祭は毎年山車も出る大掛かりな物で、物凄い賑わっています!
神輿や山車との距離30cmくらいの所を江ノ電が通過します・・・よく事故が起こらないものだと感心してしまいます・・・
現在、腰越から龍口寺まで江ノ電は路面電車状態ですが、もともとは柵があったけど山車が通れないから撤去されたなんて話を聞いた事があります・・・
それにしても神輿を担いでハシャいでるヤンキーは、もはや日本の夏の風物詩ですなぁ(笑)
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おしまい |