ブログ 長谷の市
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日曜日・・・朝早くに目が覚めてしまい、ボーっとしているのも何かもったいない気がしたので自転車で逗子海岸まで行って見る事にしました・・・
渚橋のファミマでコーヒー買って砂浜でマッタリ・・・5分後・・・飽きた・・・毎度の事ですけど・・・
何となく海が見たくなって来たはいいが何もする事がなく・・・結局すぐに帰るハメになる・・・30年以上住んでいるとそんなモンです・・・お店も微妙・・・価格と味を考えるとステーキガストが一番です・・・そんなモンです・・・
チェーン店も安心でいいけど、地魚料理の店とか出来ればいいのになぁ・・・
不満ばっか言っててもしょうがない、このまま帰るのも何かもったいないので鎌倉まで足を延ばしてみる事にしました!

逗子マリーナから材木座、由比ヶ浜、坂ノ下・・・ちょっと疲れたので海浜公園で休憩・・・
朝も早いというのに釣り人で賑わっていました・・・シロギスが好調!・・・天ぷらにしたら美味そうだな・・・
地元で釣りというといつも葉山方面に行ってしまうのでココはノーチェックでした、今度やってみよ!
向かいのローソンでお茶を買って裏道へ入ると地域の掲示板がありました・・・何気なく見ていると

『第二十回かまくら 長谷の市 いざはせ参ず!門前まち。』

ダジャレは軽くスルーして開催日を見るとなんと今日ではないですか・・・
光則寺で8時から朝市が開催とあります・・・長谷寺は9時から・・・
朝市好きな自分・・・これは行くしかありません!・・・でも8時までまだ1時間以上あります・・・結局さっきの公園で釣り人を眺めながら時間を潰す事にしました・・・  
坂ノ下 実朝歌碑
公園には3代将軍源実朝の歌碑があります・・・
小倉百人一首 第九十三番 鎌倉右大臣(実朝)
『世の中は つねにもがもな なきさこぐ あまの小舟の つなでかなしも』

この世の中はいつまでも変わらないでいてほしいものだ、渚を漕いでいる小船がをひき綱で引かれている風情は実にいい物だからなぁ・・・

武士としては初めて右大臣となった実朝・・・色々あったんですかねぇ・・・とても20代の若者の歌とは思えません・・・
甥の公暁に暗殺され若くしてその生涯を終えた実朝・・・甥に殺されるってどんな気持ちなんでしょうか?・・・想像も出来ません・・・自分の場合は、まだ小学校低学年なので指2本で返り討ちです(笑)

百人一首といえば、最近の深夜アニメで【ちはやふる】というのがありますが・・・超面白いですね・・・
カルタっていう微妙なテーマでよくあそこまで熱い展開に出来るのか・・・感心しながら毎週拝見しております(笑)

そろそろ時間なので光則寺へ向かいます!  
光則寺 スタンプラリー
開催の5分前に光則寺に到着・・・なんだこの人混みは!もう少し空いてるかと思っていましたが・・・
みんな暇なんだなぁ・・・家で寝てればいいのに・・・

パンフレットを頂きました・・・何だか意味が良く分かりません・・・全員にプレゼントと書いてありますけど20名とか抽選の文字が・・・サプライズってコレがサプライズですよ・・・自分の国語力が足りないだけなんでしょうか?
プレゼントは単体でそれを指しているのか?それとも下の3つのリストの事を指しているのか?
前者の場合なら『完走者全員に記念品をプレゼント、更に抽選で・・・』
後者の場合なら『完走者には下記景品獲得の抽選権が与えられます』
の方が分かり易いんだけどなぁ・・・日本語って難しいですね・・・なんて言ってる内に朝市開催です!
朝市1 朝市2
ふむふむ・・・ほうほう・・・へぇー・・・あ、そーなの?・・・パン美味そうだなぁ・・・でもいいや・・・ 
朝市3 朝市4
ひなやは、たまごかけごはん¥500で出店・・・美味そう~食いてぇ~けど、自分は黄身だけの卵かけご飯が好きなんですよねぇ・・・白身はどうも苦手で・・・
鎌倉すざくは朝もみ整体なるものを行っていました・・・イスが置いてありそこでモミモミしてくれるらしい!
晒し者感強すぎ・・・やる人いるのかなぁ?と思っていたらオバサンがモミモミを受ける様子!サクラ?(笑)

山門入り口で振り返る・・・最初は凄い人の数だなぁ・・・と思っていましたがそーでもありません・・・参道が狭いだけです。
う~ん・・・まぁこんなもんか・・・食材は南部市場まで買い出しに行く自分からすると、朝市と言うにはちょっと・・・
商店街の祭りかバザーって感じでしょうか・・・
値段も安くはないです・・・出店してるのが小売店ですから仕方ないですけどね・・・
こういう雰囲気も嫌いじゃありませんけど朝市と銘うたれるとなぁ・・・
長谷の市のコンセプトが、

僧門と商人と住人の三位が一体となって魅力ある『現代の門前町づくり』に取り組み、長谷と鎌倉の繁栄を創造するまつりごと

ですから、これでいいのかも知れません・・・確かに皆和気あいあいとして好感は持てました・・・
でも何も買いませんけどね(笑) 
門 石碑
少々不完全燃焼気味ではありますが、朝市はもう十分満喫しました・・・せっかく光則寺に来ているのだから寺も紹介させて頂きます・・・門前に例の石碑があります!

宿谷光則屋敷跡
宿谷左衛門尉光則ハ北条時頼ノ近臣ナリ 文應元年七月十六日 日蓮聖人立正安國論ヲ時頼ニ上ラント欲シ 光則ヲ長谷ノ邸ニ訪ヒ 縷々其ノ趣旨ヲ説キ 之ヲ手交ス 聖人龍口法難ノ時 最愛ノ弟子日朗ノ囚ヘラレタルハ 邸後山腹ノ土牢ニシテ億万斯年師孝ノ哀話ヲ刻ス 光則深ク聖人ニ服シ遂ニ邸ヲ寄セテ寺ヲ創ム 實ニ此ノ光則寺ナリ 
過グル人其レ襟ヲ正シテ當時ヲ追懐セヨヤ
                     昭和十五年三月 鎌倉市青年團

そう、コノ光則寺の名の由来は宿屋光則にあります!・・・石碑には出て来ませんけど日蓮の【立正安国論】は光則の父である行時によって北条時頼に提出されています!・・・この寺の山号も行時山であります!

創建は文永11年(1274)、開山は日朗、開基は宿屋光則・・・当然日蓮宗のお寺です・・・
石碑にもありますが文応元年(1260)7月16日、日蓮は立正安国論を建白します・・・法華経至上主義の過激な内容は他宗派の反感を買い日蓮は草庵を焼き討ちにされます(松葉ヶ谷の法難)・・・この時白い猿が道案内し難を逃れたという話が伝わります、その避難地には法性寺(逗子市)が建ち、山王大権現下に日蓮上人御法難窟があり、向かい側には日朗の墓が残ります・・・
ちなみに松葉ヶ谷法難の地は安国論寺長勝寺妙法寺、3箇所あります(笑)

建長寺を建てた時頼にしてみれば法華経以外は邪宗なんて言われたらケンカを売られたようなもんです・・・
てなわけで翌年、日蓮は伊豆に流されます・・・

その後もドタバタして龍ノ口刑場(現在は龍口寺)で処刑されかけますが突然光が迫ってくるという奇跡により難を逃れます・・・光はUFOだとか彗星だとか隕石だとか言われていますが何だったんでしょう?
この天変地異を報告する為に出た幕府側の使者と刑場側の使者がハチ合わせた場所が行合川・・・
名称の由来になっています・・・現在は川の横で世界一の朝食が食べれますね(笑)

処刑を免れた日蓮ですが佐渡へ流される事になります・・・その時に共に捕まっていた弟子の日朗はココ光則の屋敷で監禁されていました・・・現在もその土牢が残っています!
佐渡へ流される前夜、日蓮は日朗へ手紙(土籠御書)を送ったといわれていますが、その石碑も土牢の横に建っています・・・
なんにしろ光則は、自分の事よりも弟子の日朗の事を案じる日蓮の姿に感銘し、その後帰依して自邸を寺にしちゃったんですねぇ~・・・

さて、その土牢を見に行ってみましょうか! 
本堂 道
門の所で拝観料の¥100を納めましょうね!そこに【四季の光則寺山野草と茶花マップ】という手書きのプリントが置いてあるんですけど・・・これが・・・
細かい!・・・字小っさ!・・・花の寺として有名ですが相当好きなんでしょうね・・・でもこれじゃぁ主に花を愛でる老人層には読めないんじゃないかな?・・・これくらいの大きさでビッシリと記載されています・・・手書きだし文字が潰れて読めない物も・・・
こうなると自己満足の域を出ません!・・・ホントに好きなんでしょうね・・・

イモ虫系が嫌いな自分はこの寺はちょっと苦手です・・・道が狭い上にびっしりと頭上まで草木に覆われ、ダメですよ、あいつらブラ下がりますから・・・わざと落ちて来る時もありますから!逃げ場がありません!
宮沢賢治の『雨ニモマケズ・・・』の詩碑がありますがとても行く気になりません(笑)

本堂右手前には鎌倉3海棠のひとつがあります!・・・樹齢200年といわれ市指定天然記念物となっています!
他の2つは安国論寺と妙本寺にありますよ~・・・海棠は4月上旬位が見頃だとマップに書いてありました・・・
花を見に寺へ行くなら浄智寺、海蔵寺、東慶寺辺りがお勧めです!
さっさと土牢へ向かいましょう!
庫裡 階段
庫裡の脇をすり抜け階段を登ると小さな石柱があり田中智学の文字が見て取れました・・・何かしたんでしょうかね?
更にガシガシ登って行くと目的の物っぽいのが見えて来ました・・・
土牢1 土牢2
到~着~!・・・土牢はコンクリートで補強されていましたが、思っていたより大きいです!
格子と壁の間に隙間があり細い人なら脱獄可能です!
土牢3 土牢御書
中には合掌した坐像が・・・日朗なんでしょうか?・・・それと五輪塔2基、燈籠1基・・・住めそうな広さです!
土牢手前左側には土籠御書の石碑もありました・・・案内板もあります!

日朗上人の土の牢
文永十一年(1274年)頃に建立された光則寺は、もともとは北条時頼の側近・宿屋光則(やどやみつのり)の屋敷であったが、日蓮上人が佐渡へ流された時、高弟・日朗(にちろう)上人も捕えられ、この邸内の土の牢に監禁されたといわれています。その後、光則は次第に日蓮上人に帰依し、日蓮赦面後は日朗上人を開山に光則寺を創建した。この土の牢は700年以上の歴史を刻んでいると推定されています。
                                       平成18年4月 補強工事施工:東急建設株式会社

平面図と断面図も記されており土牢の全貌が良く分かります・・・

墓地を挟んで隣の山腹には大橋太郎通貞土籠がありますが通行禁止で現在は見る事が出来ません・・・
大橋太郎 この人物・・・九州の大名大橋の太郎・・・平通貞といわれていますが謎の多い人物です・・・【吾妻鏡】などの正史には一切登場しませんので・・・
なんでも頼朝の怒りに触れてココに放り込まれていた様です・・・
その後12才になる息子が通貞を訪ねて鎌倉へ来て鶴岡八幡宮で法華経を唱えてた所、その声が北条政子の耳に入り、感動した政子は頼朝の持仏堂へ招き法華経を唱えさせる事にしました・・・
そんなこんなで身の上話などをしてる内に素性が割れ処刑寸前の父も助かりました!
あぁ法華経って凄いね・・・って話です・・・
日蓮関連の文書の様ですが、田中智学か創価学会の人に聞けば分かるんじゃないですかね?
あの人たち日蓮の事凄い勉強してるからメッチャ詳しいですよ・・・感服します・・・

自分は高校の同級生に勧誘された事があります・・・卒業して間もない頃に電話が掛かってきてビックリした記憶があります・・・同じ部活だったし仲が悪い訳でもなく、かといって2人で遊びに行く様な間柄でもなく・・・
他のメンツも誘おうって言ったら、いや2人がいいって言うじゃありませんか!・・・
ここここれは!?・・・もしかしてヤローに告られるのか?・・・ムゲにもできんしどうやって断ろう(笑)
などと考えながら待ち合わせの喫茶店まで行くと・・・彼が居ました、それともう一人・・・

何だどーゆうこっちゃ?・・・と頭が困惑中に、
『この世には6つの世界がある・・・』とか何とかいきなり切り出して来ました・・・あ、なるほど、そーゆー事ね・・・
瞬間的に冷静さを取り戻すと共に、もの凄い腹が立ってきた事を今でも記憶しています!
2人っていったじゃんかよ・・・平気で嘘ついて友人を騙しやがって・・・こうなったらトコトン付き合ってやる!

もう一人が話出しました・・・
『自分は生まれつき心臓が大きい病気だったんだけど、徳を積む事によって無事手術も成功し、元気になりました』
なんじゃそりゃ!そんなんで俺を丸め込めると思ってんのか!本気なのかなこの人?盲目的過ぎるだろ!
『へ~手術したんだ・・・医者に感謝しないとね・・・』と皮肉たっぷりに返した・・・大人気ないなぁ・・・まぁ実際未成年、子供でしたから・・・30分くらい押し問答していた所、急に事務所に行こうと言い出しました・・・
あ~行きますよ、ただじゃ帰らねェ・・・裏切られた分はキッチリ取り返させてもらうよ!

事務所に入ると畳敷きの部屋に30人程の信者さんが居て、熱心に一台のテレビを見ていました・・・何かの演説か講演かそのような物だったと記憶しております・・・最後に数珠を取り出し皆が熱心に拝み始めました・・・
友人に『どうだった?』と聞かれ・・・
『どーもこーもお前が何をしようが勝手だけど、友人を騙してハメるのだけは納得いかん!』と立ち去りました・・・

後日部活のメンバーで集まった所、一人を除き全員騙されて誘い出されていた様でした・・・勧誘の選定基準はなんだったんでしょうか?・・・気になる所です・・・
何にしろ今では貴重な体験だったと感謝さえしています・・・あんな事でもなければ一生目にする機会のない現場でしたから・・・全然否定はしません・・・誰にでも心の拠り所って必要です・・・自分にもあります・・・人それぞれだと思います!

ただ、騙して誘い込む手口には今でも腹が立ってます・・・自分は腹が立っただけですけど傷付いた奴もいます・・・
結局何がしたかったんだ彼は?・・・単に信者を増やし教団内での自分のウケを良くする事が目的だったのか?
それとも本気で友人の幸福を願い信心を得るように説得にあたったのか?
今となっては知る由もありません・・・あれ以来連絡もありませんから・・・

多分前者でしょうね・・・もし自分が逆の立場だとしたら、これからも友人関係を続けて行きたいと思ってる相手を騙して宗教の勧誘なんかしませんよ・・・絶対に!Never!・・・その後気マズイじゃん!
あの日、自分が電話を受けた時・・・彼は既にそーゆー気持ちだったのかと思うと悔しいと言うか情けなくもあります・・・

え~と・・・だいぶ脱線してしまいました・・・失礼(笑)
気を取り戻して【新編鎌倉志】ではどの様に紹介されているんでしょうか?・・・見てみましょう!

【光則寺】(附宿屋光則が舊跡)
光則寺は行時山と號す。大佛へ行く道左にあり。此所を宿屋とも云ふ。相傳ふ、平の時頼の家臣宿屋左衞門光則入道西信が宅地なりと。昔し日蓮、龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朝・日心二人、檀那四條の金吾、父子四人、安國寺にて召し捕つて、光則に預け給ひ土の籠に入らる。日蓮不思議の奇瑞有て害を免る。因つて光則信を起し、宅地に草菴を結び、日朗を開山祖とす。光則が父の名を行時と云。故に父の名を山號として、我が名を寺號とすと云ふ。
近年、古田兵部の少輔重恆が後室、大梅院再興す。
【大梅寺】故に今大梅寺とも云なり。堂に日蓮・日朗の木像、光則・四條の金吾父子四人の像もあり。妙本寺の末寺なり。日朗の土の籠、寺の北の方、山上にあり。

近頃大梅院って人物が再興した事から現在は大梅寺とも言われてるよぉ・・・とありますね・・・
これは聞いた事なかったなぁ・・・少し調べてみると寺宝に大梅院尼坐像ってのがありました・・・天保15年(1844)に造られた物の様です・・・大梅院日進という人物のようですね・・・再興200周年記念とかで造られたんすかね(笑)

四条金吾頼基は江間光時の家臣で日蓮宗開宗当初からの熱心な信者で中心的な人物です・・・佐渡にも身延にも日蓮に付いて行きました・・・彼の屋敷跡には現在収玄寺が建っています・・・長谷寺横の小さな寺ですが花で埋め尽くされています・・・境内には四条金吾邸址 伯爵東郷平八郎書と彫られた大きな石碑があります・・・東郷平八郎も熱心な日蓮ファンとして有名ですね・・・
江間光時ですが名越光時とも、単に北条光時とも言われます・・・父は名越流北条氏の祖である北条朝時、祖父は2代執権の北条義時であります・・・  
孔雀 光則寺では孔雀を飼っていました・・・
超メタリックブルーですねぇ・・・あの頭にピロっと生えてるのは何なんでしょうね?・・・必要なんでしょうか?
じぃ~と見ていたらバサバサと暴れ出して色んな物が飛んできて大変でした・・・ご機嫌斜め?

そんなこんなしている内にもうすぐ9時です!
光則寺の朝市は十分堪能したので長谷寺へ向かう事にしましょう!

おしまい
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