ブログ 教恩寺タイトル
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今回は鎌倉市大町にある教恩寺を紹介させて頂こうと思います!・・・取り敢えず住所が大町の寺院を挙げますと、
安国論寺、安養院、教恩寺、常栄寺、上行寺、大宝寺、別願寺、本興寺、妙法寺、妙本寺・・・全部で10あります!
では、この中で一番マイナーな寺を撰べといわれたらどーでしょうか?

自分的にはやはり教恩寺かな?・・・って感じなんですけど、如何思われますか?
観光客が訪れる様な寺ではないですし、何より場所が分かり難いです・・・
辺鄙な場所にあるって訳ではないんですが・・・とゆーか、どちらかといえば車や人通りの多い通り沿いにあります!
でも、ちょっと奥に入った所に山門があるので、安養院と同じ通り沿いにこの寺がある事に気付いてない方も結構いらっしゃると思います・・・車だとほぼ100%気付かずにスルーでしょうね・・・

この下馬から名越切通まで続く通りは大町大路と呼ばれています・・・
特に小町大路と交差する辺りは、鎌倉時代の繁華街であったともいわれています・・・
現在も多くの商店が建ち並んでいる通りです・・・その建ち並ぶ商店の中に北村牛肉店というお店があります!
ココの昔懐かしい感じのコロッケは結構好きで、自分はよく買い食いしています!
まぁ、それは置いといて・・・この店の脇から北側に入る細ぉ~い道があるんですが、その先に教恩寺があるんです!
一応、通りからも山門は見えているんですが、見えるのはこの細ぉ~い道の正面にいる時だけですから、大抵の人は気付かないで通り過ぎてしまうパターンが多いと思います・・・

特に見ドコロがある寺でもないので、それでいいとも思いますが、せっかくなので近くに来たら足を運んでみるのも悪くはないと思います・・・それに、どんな小さな寺でも掘り起こしてみれば、何かしらの逸話が隠されていたりするもんです!

是非、北村牛肉店でコロッケを買って食べながら見物しましょう!・・・コロッケを食べ終わる前にこの寺の全てを堪能出来ると思いますよ!・・・そんな寺です(笑)
教恩寺1 教恩寺2
法要でしょうか?・・・喪服姿のオッサンが本堂へ向かって行きました・・・邪魔にならない様にサクッっと見学させて貰いましょう!・・・まぁ、1分もあれば事足りると思います(笑)
『時宗 教恩寺』とあります・・・ご近所の別願寺も時宗ですが、ココと同じくらい小さな寺です・・・
あちらには4代鎌倉公方足利持氏の大きな供養塔があるので、多少マシか?・・・でも山門が無いしなぁ・・・
どっちもどっちか・・・向かいの上行寺が怪し過ぎて、別願寺に気付かない人もいるかもなぁ(笑)
教恩寺の十六羅漢
山門には十六羅漢の彫り物があります!・・・恐らくこれが教恩寺の一番の見ドコロではないでしょうか?
しっかりと堪能しましょう!・・・そして堪能し終わったら帰りましょう・・・いやいや、まだ境内に入ってないし!(笑)
教恩寺3 教恩寺4
山門を潜ると、木が通せんぼしてます・・・やっぱ帰った方がいいんでしょうか?
腰の調子が悪かったら帰りますが、今回は絶好調なので潜って先へ進む事にします!
教恩寺5 教恩寺6
本堂には龍の彫り物があります・・・そして『中座山』の額が掲げられています!
正式には『中座山大聖院教恩寺』といいます!・・・中座って・・・やはり自分は席を外した方がいいんでしょうか?(笑)
教恩寺7 教恩寺8
御朱印はコチラのお洒落な窓口で頂きましょう!・・・呼び鈴を鳴らすと対応してくれるシステムの様ですね・・・
この寺は鎌倉三十三観音霊場の第十二番札所になっています・・・ちなみに聖観世音菩薩は秘仏の様です・・・
教恩寺9 教恩寺10
え~・・・見るモン無くなっちゃいました・・・あとは墓地があるだけです・・・
寺の縁起を記した案内板の様な物もありません・・・てー訳でココらでこの寺について少し知って置きましょうか!

教恩寺
鎌倉三十三所観音霊場第十二番札所。静かな住宅街のなか、表欄間に十六羅漢の木彫が施された山門の奥にあるこぢんまりとした寺。この一帯は旧名米町といわれた。
以前、この地には光明寺の末寺善昌寺があったが、廃寺となってから、延宝6年(1678)、貴誉上人によって材木座の光明寺境内にあった教恩寺が移築されたという。教恩寺は小田原北条氏の三代、北条氏康が建立したとされる。
本堂に安置されている本尊、阿弥陀如来像は鎌倉時代前期のもので、運慶作と伝えられている。

源平合戦で、東大寺と興福寺を焼き払った平清盛の子重衡が、元暦元年(1184)一ノ谷の合戦に敗れ鎌倉に連れてこられた時、頼朝が一族の冥福を祈るようこの阿弥陀像を重衡に与え、重衡も篤く信仰したという。
昭和12年(1938)頃、境内から宋や明の時代の銅銭がたくさん入った壺が出土し、当時の貨幣経済を知る貴重な資料となっている。
山門におおいかぶさるようなタブの古木やサクラ、よく手入れされた境内に咲く花が、ひととき喧噪を忘れさせてくれる。(参照:鎌倉の寺小辞典)

開山は知阿上人だそーです・・・三位中将平重衡が出て来ましたねぇ・・・
彼は一ノ谷の合戦で生け捕りにされて、鎌倉に護送されました・・・その後の平家滅亡の際、南都焼き討ちの罪を問われ、京都の木津川で斬首となりました・・・
この重衡という人物ですが、鎌倉に連行された時の潔い振る舞いには頼朝や御家人衆も一目置いた様です・・・
せっかくなので、その時の様子を【吾妻鏡】で追ってみましょう!

寿永3年(1184)3月28日 丁巳
本三位中将(藍摺の直垂、立烏帽子を引く)を廊に請せられ謁せしめ給う。仰せに云く、且つは君の御憤りを慰め奉らんが為、且つは父の死骸の恥を雪がんが為、試みに石橋合戦を企つ以降、平氏の逆乱を対治せしむること、掌を指すが如し。仍って面拝に及ぶこと、不屑の眉目なり。この上は、槐門に謁するの事、また疑う所無きかてえり。
羽林答え申して曰く、源平天下の警衛たるの処、頃年の間、当家独り朝廷を守るなり。昇進を許す者八十余輩、その繁栄を思えば二十余年なり。而るに今運命の縮むに依って、囚人として参入する上は、左右に能わず。弓馬に携わるの者、敵の為虜えらるは、強ち恥辱に非ず。早く斬罪に処せらるべしと。繊介の憚り無く問答し奉る。
聞く者感ぜずと云うこと莫し。その後狩野の介に召し預けらると。今日、武家の輩の事に就いて、仙洞より仰せ下さる事に於いては、是非を論ぜず成敗すべし。武家道理を帯する事に至っては、追って奏聞すべきの旨定めらると。

頼朝は本三位中将(重衡)と面会した様ですね・・・そして、
『後白河院の怒りを慰める為、又、父の仇討ちの為に打倒平氏の戦を始め、こーして貴方を捕虜にしてお会いできるのは大変な名誉です・・・同様に総大将の平宗盛殿にも対面出来るであろう事は確実でしょうかね・・・』といいました・・・

重衡は、
『源平は共に天下の見張り役・・・源氏が落ちぶれたので当家だけが朝廷を守る事にになり繁栄しましたが、今は命運縮まり捕虜となり連れて来られたのですから、何をかいいましょうか・・・武士として弓馬の道を歩む者が、敵の手にかかる事はそれほど恥ずべき事ではない・・・早くこの首を斬って頂きたい!』と答えました・・・

全く動じる事なく、毅然とした重衡の振る舞いには、その場にいた皆が感心しています・・・
その後、重衡は狩野介宗茂に預けられた様です・・・

寿永3年(1184)4月20日 戊子 雨降る。終日休止せず。
本三位中将、武衛の御免に依って沐浴の儀有り。その後秉燭の期に及び、徒然を慰めんが為と称し、籐判官代邦通、工藤一臈祐経、並びに官女一人(千手前と号す)等を羽林の方に遣わさる。剰え竹葉上林已下を副え送らる。羽林殊に喜悦し、遊興刻を移す。祐経鼓を打ち今様を歌う。女房琵琶を弾き、羽林横笛を和す。先ず五常楽を吹く。
下官の為には、これを以て後生楽と為すべきの由これを称す。次いで皇麞急を吹く。往生急と謂う。
凡そ事に於いて興を催さざると云うこと莫し。夜半に及び女房帰らんと欲す。羽林暫くこれを抑留し、盃を與え朗詠に及ぶ。燭暗くすは数行虞氏の涙、夜深けては四面楚歌の声と。その後各々御前に帰参す。

武衛酒宴の次第を問わしめ給う。邦通申して云く、羽林は、言語と云い芸能と云い、尤も以て優美なり。五常楽を以て後生楽と謂い、皇麞急を以て往生急と号す。これ皆その由有らんか。楽名の中、廻忽と云うは元廻骨と書く。大国葬礼の時この楽を調ぶと。吾囚人として誅せらるるを待つの條、存在旦暮の由が故か。また女房帰らんと欲するの程、猶四面楚歌の句を詠じ、彼の項羽過異の事、折節思い出すかの由これを申す。武衛殊に事の躰を感ぜしめ給う。
世上の聞こえを憚るに依って、吾その座に臨まず。恨みたるの由仰せらると。武衛また宿衣一領を千手前に持たしめ、更に送り遣わさる。その上祐経を以て、辺鄙の士女還ってその興有るべきか。御在国の程、召し置かるべきの由これを仰せらる。祐経頻りに羽林を憐む。これ往年小松内府に候すの時、常にこの羽林を見るの間、今に旧好を忘れざるか。

頼朝は重衡を慰める為に藤原邦通工藤祐経千手前を向かわせ酒宴を催した様です・・・
邦通から酒宴での重衡の言動や芸能に秀でた振る舞い(オヤジギャグに近いと思うのは自分だけでしょうか?)を聞いた頼朝は、世間体を考えてその場に居合わせなかった事を悔やんでいますね・・・
そして、千手前に宿衣を持たせて再び重衡の所に遣わした様です・・・
『田舎の女も逆にイイモンですよ・・・鎌倉にいる間は側に置いておくとよろしい・・・』って伝言と共に・・・
何かエロい雰囲気ですね(笑)
千手前は頼朝の官女から北条政子の侍女になった人物です・・・物腰が柔らかく、凄い美人だったそーです!
まさに大和撫子って感じでしょうか?・・・いいなぁ重衡・・・
まぁ、とにかく、これを機に千手前は重衡に仕える事になりました・・・

この2人の出会いですが、【平家物語】の方が多少詳しく書かれているので、そちらも見て置きましょう!
ちょっと長いですがオモシロいですよ!
【平家物語 第十巻 千手】

兵衛佐頼朝殿は三位中将重衡殿と対面していいました、
『後白河法皇の憤りをなだめ、父の仇を討とうと思い立ったからには、平家を滅ぼす事を考えていたが、まさかこの様にお目にかかるとは思ってもいませんでした、この調子だと屋島の宗盛殿にもお目にかかれそうですな・・・
ところで、奈良を焼き滅ぼされたのは亡き清盛殿の仰せですかな?、それとも時機を見計らってのことですかな?、いずれにせよ、とんでもない所業ですぞ!』


三位中将重衡殿は
『奈良炎上については亡き父清盛の処置でもなく、私の企てでもありません・・・ただ衆徒らの悪行を鎮めるために出陣したものの、思いもよらず寺院を焼滅させるに至ったのは自分の力不足でした・・・
昔は源平共に朝廷の左右に控えて警護していましたが、最近源氏の運が尽きた事は誰もが知る所で、今更いう事でもありません・・・当家は保元・平治の乱以来、度々朝敵を征伐し、その褒賞も身に余る程で、父清盛は太政大臣の座に就き、一族の昇進は六十余人、二十余年の間の繁栄は言葉ではいい表せません !

しかしながら朝敵を討った者は七代まで朝恩を失わないなどというのはとんでもない間違いです、亡き父清盛が、後白河法皇の為に命を捨て様とした事は何度もありましたが、彼一代の栄華であり、子孫はこの様になってしまったのですから・・・命運尽き都を出てからは、屍を山野に晒し、不名誉を西海の波に流そうと思っていました・・・生きながら囚われて鎌倉まで下るとは夢にも思いませんでした・・・ただ前世の宿業が恨めしい!

しかし、殷の湯王は夏の獄に繋がれ、周の文王は殷の羑里城に囚われたと史記にあります、古代でもこの通りですから末世では尚更です、武人たる者、敵の手にかかり死ぬ事は決して恥ではありません、貴殿に情けがあるなら今すぐこの首を刎ねて頂きたい!』
と答えると、その後は何も語りませんでした・・・

これを聞いた梶原景時は、見事な大将軍だと涙を流しました、侍たちも皆袖を濡らしました、頼朝殿も平家を私敵などとはゆめゆめ思ってはいないが、ただ後白河法皇の仰せが重たいと席を立たれました・・・
奈良を滅亡させた重衡は寺院の敵であり、宗徒らもいいたい事があるはずだろうとの事で、伊豆国の住人狩野宗茂に預けられました・・・

重衡の様子は、娑婆世界の罪人を冥土で七日ごとに十人の王に渡す時の様に見えて哀れでした・・・
狩野宗茂も情けのある者だったので、それほど厳しく接する事なく、あれこれと重衡をいたわり、湯殿を作って湯を引いたりしました、ここまでの道中で汗をかき、不快だから身を清めて処刑するんだなと思っておられた所、そうではなく、年の頃二十歳ほどの色白で清らかで髪型の実に美しい女房が、絞り染めの帷子に染付けの湯巻をまとって湯殿の戸を押し開けて入って来ました・・・
少しして、年の頃十四、五歳の袙の丈ほどの髪の女童が、小村濃の帷子に湯を注ぐタライに櫛を入れて持って来ました・・・重衡はこの女房に世話をされながらしばらく湯を浴び、髪を洗わせなどして上がられました・・・

その女房が暇を告げて出る時にいいました、
『男では味気なく思われるだろう、女なら却ってよいのではないかという事で参りました・・・どんな事でも御要望があれば承る様にと頼朝殿が仰せになりました・・・』

重衡は、
『今はこのような身になって何も思う事はない・・・ただ、出家をしたいと思っている・・・』と返しました・・・
女房は帰ってこの事を伝えました・・・

頼朝は、
『それは思いもよらぬ事だ、しかし、私的な敵であればどーとでも出来よーが、朝敵として預っているのだから、それを許す事は無理だ』といいました・・・

その後、重衡は警護の武士に尋ねました、
『ところで、今の女房は実に優雅な人であったが名は何と言うのだろう?』

『あれは手越の長者の娘で名を千手の前といいます、容貌も気立ても素晴らしく、この二、三年は頼朝殿に仕えておいでです』と警護の武士は答えました・・・

その夜、雨が降り何もかもが物寂しげな折、その女房が琵琶と琴を持たせてやって来ました、狩野宗茂は家子、郎等十余人を引き連れて重衡の御前近くに控えており、宗茂が酒を勧め千手の前が酌をしました・・・
重衡は少し受けたが、実につまらなそうにしていたので、宗茂は、
『もう聞いておられるかも知れませんが私はもともと伊豆国の者で、鎌倉へは旅で来ているのですが、思いつく限りの事はお世話したいと思っております・・・怠けて咎められても私を恨むなよと頼朝殿もいわれました・・・ほら、そなたも何か謡って、酒を勧めなさい』というと、千手の前は酌を差し、薄い衣を重たいからと、上手に舞えない事を機織り女のせいにするという朗詠を二度しました・・・

重衡は、
『この朗詠をする人を、菅原道真公は日に三度、天から翔け下りて守るとお誓いになったという・・・私は現世に於いては既に捨てられた身であり、歌を添えてもどうにもならない・・・しかし、罪が少しでも軽くなるならば、後について歌ってみようか』と言われると、千手の前はすぐに、十の悪を犯しても仏は浄土へ連れて行くという朗詠をし、極楽浄土を願う人は皆、阿弥陀如来の名を唱えよという今様を四、五回歌い終えた時、重衡は盃を傾けました・・・
千手の前はそれを受け宗茂に差す、そして宗茂が飲む時に琴を弾きました・・・

重衡は、
『この楽は普通は五常楽と言うけれど、私にとっては後生楽と思うべきかな?、ではすぐにも往生の急を弾かねばな』
と戯れて、琵琶を取ると転手をねじって弦を張り、皇麞急を弾じられました・・・

すっかり夜も更け、心も落ち着き、東国にもこのように風雅を解する人がいたとは、さあ、なんでもよいからもう一声といわれると、千手の前は重ねて、一樹の陰に宿り逢い、同じ流れの水をすくうのも、すべてはこれ前世の契り、という白拍子を何とも趣深く謡ったので、重衡も、燈火が暗くなって虞氏数行の涙を流すという朗詠をしました・・・

この朗詠の意味ですが、昔、唐土で漢の高祖と楚の項羽が帝位を争い七十二回の合戦をしましたが、そのたび項羽が勝利を収めた事がありました、しかし、ついに項羽が合戦に敗れて滅ぶ時、一日で千里を翔る騅という馬に乗って虞氏という后と共に逃げ様とした所、馬は何を思ったのか脚を揃えて動こうとしない、項羽は涙を流して我が威勢はすっかり落ちてしまった、敵の襲撃など物の数ではない、と、この后に別れる事ばかりを夜通し嘆き悲しみ合われた・・・
燈火が暗くなってくると虞氏は心細さに涙を流しました、更けゆくに従い敵の軍兵が四方から鬨の声を上げました・・・
この心を橘広相が賦にしたのを、重衡が今思い出だしたのだろうか・・・なんとも優雅に聞こえました・・・

そうこうしている内に夜も明けたので、武士達は暇を告げると退出しました、千手の前も帰りました・・・

その朝、頼朝が持仏堂で法華経を誦している所へ千手の前がやって来ました・・・頼朝は微笑んで、
『さても昨夜は見事な仲立ちをしたものだな』というと、近くで仕事をしていた中原親能が『どういう事ですか?』、と尋ねて来たので、頼朝はこういいました、
『平家の人々は甲冑、弓矢の他に興味は無いだろうと常々思っていた・・・しかしながら三位中将重衡殿の琵琶の撥音、朗詠の様は夜通し立ち聞きしていたが、なんとも優雅な人物であった』
親能は
『昨夜はちょうど体の具合が悪くて聞けませんでした・・・今後は毎度立ち聞きしようと思います!
平家は代々歌人や才人達が多いですから・・・先年、彼らを花に譬えたとき、この三位中将重衡殿を牡丹の花に譬えた事がありました』
といいました・・・

千手の前は却って物思いの種となってしまった様です・・・それ故、重衡が奈良へ連行されて処刑されたと聞くと、すぐに出家して濃墨染にやつれ果て、信濃国善光寺で修行して彼の菩提を弔い自分も往生の素懐を遂げたという・・・

いきなりソープランド待遇ですね(笑)
『どんな事でも御要望があれば承る様にと頼朝殿が仰せになりました・・・』 って、そーゆー事ですよね?(笑)
出家がどーのーなんて嘘つきやがって重衡の奴め・・・絶対美女のサービス受けてるよ・・・
名前なんか聞いちゃって興味深々じゃないか!・・・本人に聞けずに警護の武士に聞くなんて思春期かっ!
千手前も重衡の死後は出家した様で・・・お互いほのかな恋心みたいな物を抱いていたんでしょうかねぇ?

とまぁ、【平家物語】ではこんな感じに2人のやりとりが描かれています・・・悲恋ですねぇ・・・
斬首となると分かっている男を好きになってしまった千手前・・・どんな気持ちだったんでしょう?

悲恋といえば【扇ノ井】のページで話した頼朝の長女の大姫と木曽義仲の息子の義高の話がありますが、父義仲の死を知り、身の危険を感じた義高が鎌倉を脱出したのは何と、重衡が風呂場で千手前からサービスを受けた翌日の事であります!・・・悲しい恋は連鎖するんでしょうかねぇ?

【吾妻鏡】によると、元暦2年(1185)6月9日に重衡は興福寺の僧兵達の身柄要求によって南都奈良へ送られています!
同月22日には東大寺に送られ、翌23日に首を刎ねられた様です・・・

ついでに千手前のその後も【吾妻鏡】で追って見ましょう!

文治4年(1188)4月22日 戊子
夜に入り、御台所の御方の女房(千手の前と号す)御前に於いて絶入し、則ち蘇生す。日来差せる病無しと。
暁に及び、仰せに依って里亭に出ると云々。

夜になって千手前が気絶したけどすぐ復活した様です!・・・大事を取って自宅に戻された様ですね・・・
つーか出家したんじゃないのかよ?・・・何で鎌倉に居るんだよ!?

文治4年(1188)4月25日 辛卯
今暁千手の前(年二十四)卒去す。その性太だ穏便、人々惜しむ所なり。前の故三位中将重衡参向するの時、不慮に相馴れ、彼の上洛の後、恋慕の思い朝夕休まず。憶念の積もる所、若くは発病の因たるかの由人これを疑うと。

アレ?死んじゃったよぉ(笑)・・・24歳かぁ・・・可哀想に、まだまだこれから楽しい事いっぱいあっただろうに・・・
重衡に対する恋煩いが原因じゃないかって皆が考えている様ですが、死因は明記されていませんので断言は出来ませんね・・・スズメバチに刺されて死んだって可能性も否定は出来ません!・・・拾い食いして食中毒かも(笑)
どーでもいいけど出家してなさそーだし、善光寺も行ってなさそぉーだなコリャ・・・
【平家物語】よりは幕府公式記録の【吾妻鏡】を信じるべきですよね?

ちなみに【平家物語 第十二巻 重衡被斬】では、重衡が鎌倉から南都へ送られ、その首を斬られる所まで詳しく書かれています・・・まぁ、だいぶ脚色されてはいると思いますけどね・・・
その際に都へは入れなかったので、大津から山科を通り、醍醐を経て行ったので日野が近かったんですよ!
そこで重衡はこんな事をいい出します、

『この度、各々方が情け深く自分の世話を焼いてくれた事は何よりも嬉しかった・・・今一度、最後にお願いしたい事がある・・・私には子がいないのでこの世に思い残す事はないが、長年連れ添っていた女房が日野という所にいると聞いたので、もう一度逢い、後世の事を話して置きたいと思うのだよろしいか?』

子がいないといってますが、良智という息子がいた可能性があります・・・
【鶴岡八幡宮供僧次第】によると、彼は重衡の子とされていて、3代将軍実朝暗殺の際には公暁との共犯の疑いをかけられて取り調べを受けていた様です・・・まぁ、細かい事はいいか・・・

武士達も皆涙を流して『女房の事など何の問題がありましょう、さあ、すぐにでも』って感じで奥さんと会う事に!
えぇ~!って感じなんですけど・・・何か千手前が可愛そうな気が・・・綺麗な話で終わって欲しいのに・・・

重衡には輔子っていう奥さんがいて、彼が一の谷で生け捕りになった後は安徳天皇に仕えていました・・・
その後、壇ノ浦で安徳天皇が入水すると捕えられて京に連れられ、姉の成子と共に日野で暮らしていたんです!

涙の再会を果たした2人・・・重衡は前髪を噛み切って形見として渡したり、綺麗な服に着替えたり、歌の交換をしたりと有意義な時間を過ごした様です・・・
『なんとかして顔を見たいと思っていたので、もうこの世に露ほども未練はありません!』
といっていました・・・千手前の事なんか露ほども考えてない御様子・・・報われねぇなぁ・・・

『後の世でもう一度巡り逢いましょう・・・どうか一蓮托生を祈ってください・・・日も傾きました、奈良はまだ遠いですし武士達を待たせるのも気になります・・・』
というと、引き止める輔子を振り切り、重衡は出立したのでした・・・
輔子の泣き叫ぶ声は門の外遙かまで響き、それを聴く重衡も涙で前が見えなかったんだってさ・・・
やっぱ本妻は強しってトコロでしょうかねぇ・・・千手前は遊びだったのかな?(笑)

【重衡被斬】には、重衡が木津川で斬首されるシーンも詳しく書かれているので、興味のある方は是非読んでみて下さいまし・・・2人の再開シーンは【平家物語】でも結構メジャーなシーンです!

しかし、人生ってドコでどーなるか分かりませんね・・・常に分岐の繰り返しです・・・
後白河法皇は一ノ谷で生け捕りになった重衡の身柄と、平家が都落ちのドサクサに紛れて持ち去った三種の神器の交換を試みましたが、この要請を平宗盛は拒否したんです・・・
これを受け入れていれば、重衡の今後はまた違った物になっていたかも知れませんね・・・
でもそーすると、鎌倉に送られる事もなくなる訳で・・・千手前との出会いも無かったでしょう・・・
風呂場で千手前のサービスが受けられません!・・・う~ん、どっちが正解だったのかなぁ?(笑)

【新編鎌倉志】もみて見ましょう!
【教恩寺】
教恩寺は、寶海山と號す。米町の内にあり。時宗、藤澤道場の末寺なり。里老の云、本は光明寺の境内、北の山ぎはに有しを延寶六年に貴譽上人此地に移す。【善昌寺】元此の地に善昌寺と云て光明寺の末寺あり。廃亡したる故に教恩寺を此に移し、元の教恩寺の跡を所化寮とせり。本尊阿彌陀、運慶が作。相傳ふ、平の重衡囚れに就て此の本尊を禮し臨終正念を祈りしかば、彌陀の像、打うなづきけるとなん。

寺寶
【盃 壹箇】 平の重衡、千壽前と酒宴の時の盃なりと云傳ふ。大さ今の平皿に似て浅し。木薄くして軽し。内外黒塗、内に梅花の蒔絵あり。

寺宝のは先程の【吾妻鏡】や【平家物語】にも登場した物と同一の様ですね!
重衡千手前の出会いの証・・・これはロマンがありますねぇ・・・つ~か胡散臭ぇ~(笑)
現在も教恩寺に実在しているんすかねぇ?・・・手持ちの資料には阿弥陀と観音しか載ってないなぁ・・・
微妙だなぁ・・・あまり調べずにそっとして置いた方がいいかな・・・2人のロマンスにケチをつけるのは野暮ってもんです!
教恩寺11 教恩寺12
1分前後で堪能出来てしまう様な小さな寺にも、意外な逸話が隠されていたりします・・・
オモシロいですねぇ・・・小さな寺には案内板等が設置されていない事が多いので、自分で調べなければならないのが多少メンド臭いですが、過去との繋がりを確認出来ると自然とテンションも上がります!

さぁ、コロッケ片手に皆で行きましょう!・・・『Let's 北村牛肉店!、ついでに教恩寺!』(笑)

おしまい
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