ブログ 北野神社タイトル
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大船を散策した帰りに、何故か湘南モノレール沿いに国道134号線に出てみようなんて気分になってしまいました・・・
結構キツイ道程ですが天気も良かったので・・・天気って怖いですね(笑)

富士見町駅を過ぎ、天神下交差点に差し掛かった時、ふと思いました・・・そーいえば北野神社ってちゃんとお参りした事無かったなぁ・・・以前訪れた時は、階段がキツそうだったのでスルーしたっけか(笑)
そもそもこの辺りを訪れる事もほとんど無いので、この機会を逃したら次はいつになる事やら・・・
北野神社の参道1 北野神社参道2
つー訳で、やって来ました北野神社!・・・天神山に鎮座する山崎地区の鎮守様です!
燈籠の台座には梅鉢紋、そして神社が建つのは天神山・・・菅原道真臭がプンプンしますね(笑)
つーか北野神社って名称が既に臭ってます・・・お察しの通り祭神は菅原道真と素戔嗚尊です!
説明は後にして、取り敢えず山を登りましょう!
北野神社参道3 北野神社参道4
階段の下から鳥居が見えています!・・・前回訪れた時は、この鳥居のすぐ先に社があるんだと思っていました・・・
しかし登ってみると、その先にも延々と続く階段が・・・
即Uターン(笑)・・・みたいな感じでした・・・今回は気合を入れて社を目指します!

江ノ島エスカーがココにも欲しいです・・・ホントに長い階段だけは勘弁して頂きたい!
『〇〇と煙は高い所が好き』といいますが、高台に建つ神社って多いですよね・・・そんな事いったら罰当たるか?(笑)
北野神社参道5 北野神社参道6
途中、小さな祠がありますが、何を祀っているのかは分かりません・・・つーかもう帰りたい・・・
北野神社参道7 北野神社参道8
何段あるのか数えていましたが、途中で友人から電話が入り分からなくなってしまいました(笑)
今度あいつに数えさせよう・・・つーかもう帰りたい・・・
北野神社参道9 北野神社参道10
木々から漏れる光の量が増えて来ました・・・平場が近い予感!
途中石段は2手に分かれますが、恐らく上で合流するパターンだと思います・・・取り敢えず道なりに進みます!
つーかホント帰りたい・・・
北野神社参道11 北野神社参道12
鳥居があります!・・・更に先に階段がある様ならば引き返すつもりでしたが、屋根が見えて来ました!
どーやら到着の様です!・・・疲れたぁ・・・でも思ったより広いスペースに社は建っていました!
もっと窮屈に建っているんだろうなぁ・・・と、勝手に想像していたので多少の開放感が疲れを癒します・・・
北野神社の狛犬1k 北野神社の狛犬2
狛犬は御覧のあり様でした・・・吽形に至っては何なのかすら判別不能です(注:鳥居を潜った側から撮影してます)
そーいえば2年ほど前に、頼朝の墓が破壊された時、その下にある白旗神社の狛犬も破壊されましたね・・・
吽形の胴部分が真っ二つに割れていましたが、ココの狛犬も破壊された物なんでしょうか?
それとも経年劣化や自然災害でこの様な姿になってしまったのか?・・・つーか修復しないのかな?

白旗神社の方は犯人も捕まり、狛犬も綺麗に修復されました・・・ココの狛犬もこれではちょっと可哀想です・・・
しかし、こーいった物をぶっ壊す人の心境が分かりませんね・・・
北野神社1 北野神社2
社はこんな感じです・・・シンプルですね・・・拝殿の縁側に横になり、息を整えさせて頂きました(笑)
何だかんだいって結構気持ちのいい場所です・・・誰もいないし・・・
天神山碑1 天神山碑2
社に向かって右側には【天神山碑(明治44年銘)】が建っていました・・・そして反対側には、
北野神社の宝篋印塔1 北野神社の宝篋印塔2
宝篋印塔が一基建っています・・・厳重?にガードされています・・・そして傍らには、
『市指定有形文化財 石造 宝篋印塔(応永十二年銘) 一基』と書かれた柱が立っています!

応永12年(1405)の銘がある宝篋印塔で、 四方に薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が彫り込まれている珍しい物だそうです・・・ちなみに上の写真に写っているのは薬師如来ですね!
左側に立っているのは宝篋印塔の案内板かと思ったら、

宝篋印塔付近 たき火禁止 ※違反すると消防法により罰せられます 鎌倉市消防本部 NO SMOKING

こんなのより案内板立てておくれよぉ~・・・
菅公千年祭碑1 菅公千年祭碑2
そしてデッカい石碑も建っていました・・・『菅公千年祭碑』の文字があります!
ビッシリと碑文が刻まれていました・・・どーやら明治35年(1902)2月25日に建てられた物の様です・・・
千年祭に建てられた石碑なんで当たり前ですけど、菅原道真は延喜3年(903)2月25日に九州の大宰府で亡くなっています・・・最強の怨霊ともいわれる天神様も千年の時を経て安らかに眠っている事でしょう・・・

怨霊といえば平将門も有名ですよね・・・将門の生誕年は不詳ですが、一説には延喜3年(903)ともいわれています!
もしかしたら将門は道真の生まれ変わりなのかも知れませんね(笑)

碑文は漢文で、当然漢字だらけです・・・目がシパシパします(笑)

大教正 持住圓覚沙門 洪嶽宗円謹撰幷書

と、締めくくられています・・・この石碑は円覚寺第207世の釈宗演(洪嶽宗演)の手による物だったんですね!
釈宗演は鈴木大拙を通訳に連れて渡米し、アメリカで初めて禅についての講演を行った人物です!
また、東慶寺初の男性住持としても知られていますね・・・まぁ、とにかく有名人です!

碑文には『夢想国師』『宝積寺』の文字も見て取れます・・・全文を読む気にはなれませんが、これだけのキーワードがあれば十分です!・・・ココらで北野神社についてちょっと調べてみましょう!

取り敢えず神社庁の北野神社の項を見てみると、
御祭神 菅原道真
祭礼 
2月25日 祈年祭
7月15日 夏季例祭「天王祭(てんのうさい)」
7月22日 夏季例祭「行き合い祭(ゆきあいまつり)」
9月25日 例祭「鎌倉神楽(かまくらかぐら)」
御由緒
暦応年間(1338~1342)に夢窓疎石が京都の北野天神社を勧請した。貞治元年(1362)12月円覚寺塔頭黄院主が当社を再建した。
岩瀬村の五所明神に合祀されていた相殿の牛頭天王は延宝年間(1673~1681)に、神託により当社に合祀された。

夢窓疎石が京都からこの地に勧請した様ですね・・・
行き合い祭は山ノ内の八雲神社と行います!・・・晴明石や鎌倉最大最古の庚申塔がある神社です!
『黄院』黄梅院の事だと思います・・・天神様の話をしてるのに『梅』が抜けちゃいましたね(笑)

そして、岩瀬にあった牛頭天王が合祀された様ですね・・・これに関しては【新編相模国風土記稿】に経緯が書かれていましたので下記参照!・・・そーいや八雲神社も古くは牛頭天王社と呼ばれていました・・・
【安倍晴明を捜せ!】のページでも話したかな?・・・もう忘れちゃったなぁ(笑)
話は常に脱線する事を心掛けているので、段々ファイル数が増えて来た現在、自分がドコに何を書いたのか把握しきれなくなって来てます・・・何しろテキトーですから(笑)

天神様と牛もお馴染みの組み合わせですよね・・・よく見かけます!

【天神社】
字天神山にあり、 山麓を小名神代と唱ふ、 束帯の像(長一尺五寸余)を安ず。
暦応中、夢想国師、北野天神を模して勧請すと云。当時は神田等数頃を附し松尾の社人を迎へ祭祀に奉ぜしめしとなり(文禄元年3月、鶴岡の巫となれり今雪下村に住る、八乙女山崎守王是なり)十一面観音の木像(長四尺余春日作)一躯あり、 此像は宝積廃寺の本尊なりしと伝ふ(土人の伝に、古仏は宝暦の頃、円覚寺へ移し、当今の像は其模像なりとも云ふ)。
貞治元年12月、円覚寺塔頭黄梅院主当社を再建せしこと義堂が撰せし祭文に見えたり。
例祭9月25日(山崎守王を始め覡祝来りて神楽を奏す)。
相殿に牛頭天王を祀る(昔は岩瀬村、五社明神に合祀せしを延宝中、山之内村の仮屋に迂せし時、洪水の災を避、当所に捧持し当社の庭中に安置せしが、神託により当社に合祀すと云)。
6月7日祭事あり(山之内村の仮屋に渡輿す、仮屋の処を天王屋鋪と唱へ、除地とす、同14年、鶴岡の伶人来て楽を奏し、建長寺辺より小袋谷村迄巡行して帰輿あり、当村、及山之内・台・小袋谷・大船・岩瀬・笠間・今泉・小菅谷・飯島等十町の鎮神とす)。

社地に古松あり、文殊松と呼ぶ(大船村常楽寺、文殊堂に向て枝葉茂れり、故に此名ありとぞ)。
古碑一基 応永11年、宝積寺の僧教音の建る所と云、文字摩滅して読べからず。
山崎天満宮再造碑 文化8年9月、里正九左衛門尋庸(梅沢氏)の建る所なり。
末社 神明。

五社明神は岩瀬の五社稲荷神社の事です!・・・五所明神、五所の宮などともいわれています!

フムフム、一応手持ちの資料も見てみましょうね!

北野神社
祭神:菅原道真、素戔嗚尊
山崎の鎮守。暦応年間(1338~1342)、夢窓疎石が京都北野天満宮を勧請したと伝わる。貞治元年(1362)、円覚寺塔頭黄梅院主が再建。
村の鎮守となったのは江戸時代以降のこと。延宝年間(1673~1681)、岩瀬村五所明神に祀られていた牛頭天王が合祀されたと『相模風土記』にある。寛政9年(1798)には祭日や神楽など定められ、それらは現在も受け継がれている。
菅原道真没後1000年にあたる明治35年(1902)3月には盛大な式典が行われた。平成14年(2001)には1100年祭が執り行われた。
(参照:鎌倉の神社小辞典)

特に目新しい情報はありませんね・・・あとは・・・宝積寺か・・・
この近くに昌清院(一般拝観不可)という円覚寺の塔頭があって、廃寺となった宝積寺の本尊十一面観音を所有しているという情報は知っていましたが、【風土記稿】の記述をみるに、その前には北野神社にあったんでしょうか?
ん、まてよ・・・そーいや天神の本地仏は観音様だったなぁ・・・
石碑に書いてあるくらいだから北野神社と宝積寺に何らかの結び付きがある事は容易に察しがつきますが、やはり何かありそうですねぇ・・・もっと深い何かが・・・でもあの目がシパシパする石碑はもう見たくないなぁ(笑)
これは【鎌倉廃寺事典】の出番かな?(笑)・・・取り敢えず見てみましょう!

宝積寺 ほうしゃくじ 禅宗 山崎
宝積寺ヶ谷にあった。『風土記稿』は暦応年中(1338~1342)夢窓疎石が開創したとの伝をのせているが、別に『鹿山略記』ををひいて方外宏遠が開山であるとし、この方が正しかろうとしている。黄梅院文書によると、宏遠が心翁中樹に与え、某がこれを他門に売ったらしい。これは後に心翁中樹の門中に還補された。宏遠は貞治2年(1363)に死んだ人であるので、これによって創建の年代が察せられる。

貞治6年(1367)3月、義堂周信は某氏より万寿寺住持職補任の命をうけてこれを避け、一時当寺にかくれた(『空華日工集』)。また当時は愛甲氏の菩提寺であって、応永元年(1368)8月5日その室を葬った際、周信が導師をつとめている(『空華日工集』)。また応永7年(1374)に円覚寺が火災をおこして一山焼亡したとき、長老大法大闡はこれを嘆いて潜かに山をでて当寺に匿われた。円覚寺の僧従らは義堂周信に依頼して、彼を大闡と会見させ、大闡をしいて帰住させたことがある。上の義堂周信の隠棲といい、大法大闡のそれといい、当寺の性格の一斑を語るようである。
廃年は詳らかでないが、室町時代に長尾忠景から慈光院某に充て、宝積寺のことについて隔心なきことを述べた書状があるので、そのころまでは存在していたことがわかる。ちなみに長尾忠景は文亀元年(1501)に死んでいる。

義堂周信が隠れ住んでいた時があったんですね・・・ 【空華集】で有名な周信は初代鎌倉公方足利基氏に招かれて鎌倉へ来た禅僧です・・・2代鎌倉公方足利氏満の教育係りも務め、帰京後は南禅寺、建仁寺、等持寺などの住持を務めた高僧です・・・って話は確か【竹の寺】のページでもしたと思います・・・

ココの宝積寺も愛甲氏の菩提寺だったんですね!・・・厚木市愛甲にも宝積寺という寺があり、愛甲氏の菩提寺だったと伝わります・・・田んぼに囲まれた実に長閑な寺です・・・

愛甲三郎季隆
という頼朝、頼家、実朝と源氏三代に仕えた武将がいます!・・・愛甲氏の名を有名にした彼ですが、その墓と伝わる五輪塔が愛甲の宝積寺にあったと思います・・・そして同じく愛甲の円光寺にもあった気がします(笑)
まぁ、墓の話はテキトーに流して置きましょう・・・

季隆は弓の名手で、【矢立杉】や【遠矢塚】など弓に関する伝説が多いです・・・
そしてあの畠山重忠の命を奪ったのも季隆の放った矢です!
以下は【吾妻鏡】の元久2年(1205)6月22日の記事の一部です・・・

凡そ弓箭の戦い、刀剣の諍い、刻を移すと雖もその勝負無きの処、申の斜めに及び、愛甲の三郎季隆が発つ所の箭、重忠(年四十二)の身に中たる。季隆即ち彼の首を取り相州の陣に献る。

重忠の首を斬り落としたのも彼です!・・・こーして重忠は北条時政の謀略によって無念の死を遂げました・・・

また、季隆は頼朝邸の新築祝いパーティーでも弓の腕前を披露した様です!
治承4年(1180)12月20日 戊戌
新造の御亭に於いて、三浦の介義澄椀飯を献る。その後御弓始め有り。この事兼ねてその沙汰無しと雖も、公長の両息殊に達者たるの由聞こし食さるるの間、件の芸を試みしめ給う。酒宴の次いでを以て、当座に於いて仰せらると。
射手
一番 下河邊庄司行平  
愛甲の三郎季隆
二番 橘太公忠       橘次公成
三番 和田の太郎義盛  工藤の小次郎行光

今日御行始めの儀、籐九郎盛長が甘縄の家に入御す。盛長御馬一匹を奉る。佐々木の三郎盛綱これを引くと。 

季隆の名がありますね!・・・これは前日鎌倉に到着した橘右馬允公長の息子公忠公成が弓の名手だという事で、その腕前を見てみようって事で余興として急遽催された様です!

公長は平家方の武将でしたが、時勢を読み源氏に仕える事を決心した人物です・・・
なんでも粟田口で源為義の家来の長井斉藤別当実盛片桐小八郎と喧嘩をした際、為義はそれを朝廷に訴え出る事もせず許し、むしろ自分の家来である2人を叱ったとの事・・・
で、その時の恩から源氏への忠誠心があるんだとさ・・・まぁ、何だかんだいっても寝返ったって事ですね(笑)
と、話が脱線して来たので元に戻しましょう!

自分は夢窓疎石北野神社の勧請と共に宝積寺も京都からココへ写したと予想していたんですが、【鹿山略記】の話を考慮するとそーともいい切れませんね・・・でも多くの文献で鎌倉の宝積寺の開山は夢窓疎石としているので、今回は掘り下げずにそーゆー事にして置こうかと・・・長い物には巻かれろ的な・・・何よりメンド臭いですから(笑)

一応京都の宝積寺(宝寺)も調べてみると、神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立・・・
聖武天皇の勅願ってフレーズでピクッとしましたが、やはり行基が出て来てしまいました・・・
今回は行基との遭遇は無いと思っていましたが、相変わらずドコにでも出て来るなぁこのオッサン(笑)
まぁ、今回は軽くシカトして置きましょう・・・
山号は天王山・・・羽柴秀吉明智光秀が戦った(山崎の戦い)あの天王山です!
寺はその南側中腹に位置しています・・・何と京都の山崎の地にある寺でした!
そして天王山といえば、その名の由来は牛頭天王を祀った山崎天王社(現在は酒解神社となっています)です・・・

より大きな地図で 京都の宝積寺と酒解神社 を表示
天王山、宝積寺、酒解神社の位置関係は上のマップ通りです・・・
色々と鎌倉の方とも繋がって来ましたね・・・もっとも北野神社に牛頭天王が合祀されたのは延宝年間(1673~1681)の様ですから、後付の様な気もしますが(笑)
夢窓疎石が京都山崎の宝積寺を写して鎌倉の山崎へ寺を建て、北野神社の別当寺とした可能性は十分ありますね!
もしかしたら鎌倉の山崎という地名はこの時に付けられたという可能性も考えられます!
これは【鎌倉の地名由来辞典】を開いてみる価値がありますね・・・何だかワクワクします!

山崎
もと鎌倉郡山崎村・洲崎村。円覚寺塔頭黄梅院領。東は台、西寺分、南梶原、北柏尾川(戸部川)を限り、天神山の南東に位置する「山崎狭隘」の要衝の地。新田義貞鎌倉攻めの「洲崎古戦場」に含まれ、北野天神社を祀る天神山は砦とみられる。
地名の由来は山丘の先端という地形にもとづくのに加え、京都山崎に模したもので、初見は『日工集』貞治6年(1367)3月17日の「潜かに山崎に匿る」。義堂周信(1388年寂)は鎌倉公方足利基氏の万寿寺住持就任の懇請を謝絶し、山崎(宝積寺か)へ隠棲した。同書応永7年(1374)11月23日には円覚寺大火のため、長老大法大闡が「山崎宝積寺」に潜隠している。
この宝積寺(廃寺、宝積寺ヶ谷)は、京都山崎の宝積寺(略称、大黒天宝寺)を模して創建されたという。
康正3年(1457)2月日「今川範忠禁制」に「相州山崎村」とあり、村として成立していたことがわかる。

明応3年(1494)4月19日「玉井院檀那本銭返売券」の「山崎泉蔵坊」は熊野詣の先達職をもつ坊で、永正17年(1520)3月25日の資料には「鎌倉山崎泉蔵坊 祐秀」と、同詣の先達名が具体的に認められるなど、江戸期に続く熊野信仰の拠点となっていた。
小田原北条時代には「東郡」に属したが、江戸時代には鎌倉郡のうちとして正保元年(1644)「正保国絵図」にも「山嵜村」とある。

小名に熱海・湯之本・神代・祢宜崎・宝積寺谷・大谷・柿原・西谷・十三坊塚・大下・稲荷山・池ノ谷・薬師堂兔などがある。明治12年(1879)の戸数52、人口284人。明治22年(1889)町村制施行により深沢村の大字、昭和23年に深沢村が鎌倉市との合併で同市の大字となり現在に至ったが、この間、昭和42年2月、住居表示により山崎の一部が台1~2丁目となった。
鎮守北野神社には応永12年(1405)銘の石造宝篋印塔がある。浄刹には円覚寺派の昌清院があり、山崎天神の本地仏とつたえる銅造十一面観音立像(旧宝積寺本尊)が伝蔵されている。

もひとつおまけに!

山碕郷
現山崎周辺の地域と推定。室町期に見える郷名。
もと洲崎と呼んでいたが、山崎(現京都府大山崎町)所在の宝積寺を模して、この地に宝積寺を創建したところから、それに因んで地名を山崎に改名したと伝えられる。
また、当地の地形が山の先端部に位置することに由来するともいわれる。この地域には、室町期より山崎村の存在が確認されるが、享徳6年(1457)足利成氏證判黄梅院領知行注文で、円覚寺黄梅院領当知行のひとつとして、「相州山内庄山碕郷」と郷名がみられる。

うん、言い切れないにしても鎌倉の『山崎』の地名は、やはり京都の『山崎』から来ている可能性が髙そうですね!
今回は成果があって嬉しいな!・・・調べても何も出て来ないとつまんないですからね!

一応、夢窓疎石、宝積寺、牛頭天王、というキーワードで鎌倉と京都の2つの山崎が繋がりました・・・
てー事は鎌倉の山崎は北野神社から始まったとも言えるとゆー事ですね!
この神社を再訪する事は当分無いと思いますが、今回意外な収穫がありましたねぇ・・・
苦労して階段上った甲斐があったってモンです!(笑)
山崎天神山城跡 天神山に砦があったって話は有名で、誰が書いたのか知りませんが境内にあった地図に『山崎天神山城跡』と書き込まれていました・・・マジックで(笑)
天神山には天神山城遺跡という物があって、古代から近世まで様々な物が出土している様です!

そーいえばアメリカで犬の散歩中のオッサンが、埋まっている缶の一部が地表に出ているのを発見して掘り出してみたら、何と金貨が詰まっていた・・・
てゆーニュースをこないだ見ましたが、ホントにドコに何が埋まっているか分からないですよね!
オッサンは金属探知機を使って全部で8つの缶を掘り出したらしいです・・・
金属探知機を持ち出してまで掘るってのが誠にアメリカ人らしい(笑)
最終的に金貨1.400枚以上(推定10億円)を掘り当てたそうです!・・・凄いなぁ・・・
ウチも500円玉でいいから出て来てほしい・・・50円玉でも掘りますよ!(笑)

まぁ、自分の場合は夢ばかり追わずに現実を見た方が良さそうです・・・
神明宮1 神明宮2
境内の一画には柵に囲まれた2つの祠がありました・・・傍らに建つ石碑に何か書いてありそうですが、柵があるので読む事が出来ません・・・裏側に回り込んで覗き込めば何とか読めそうな気もしますが、怪し過ぎますよね・・・
何より石碑ひとつにそんなに必死になっている自分が嫌です(笑)

手持ちの資料によると、『末社:神明宮』とありますんで、多分これの事でしょう!
【風土記稿】にも『末社:神明』とありましたしね・・・まぁ、アマテラスを祀った伊勢信仰の名残って事でしょうね・・・

先程上って来た石段の2手に分かれたもう一方は、この祠の所に繋がっていました!
帰りはコチラの道を通りましょう・・・といっても数秒歩けば先程の道と合流ですけど(笑)
脇道 庚申塔
必死こいて上って来た階段を下って行くと、来る時は気が付かなかったんですが、左に脇道がありました・・・
イイ感じの山道です・・・好奇心に駆られて侵入すると、道はすぐに下って行き庚申塔のある道路まで出てしまいました!
道路は細くて一方通行なんですが、手広方面へ抜ける道なので、ひっきりなしに車が通ります!
モタモタと写真等を撮っていると危ないので注意して下さい・・・

北野神社まで自転車を取りに戻り、日本最初の自動車専用道路だった道を通り国道134号線に出た時は結構ヘロヘロ状態でした・・・アップダウンの連続で乳酸溜まりまくりです・・・
何とか家まで辿り着き、庭の椅子に腰かけて20分くらい放心状態・・・何やってんだろう自分(笑)

それにしてもこんだけ面白い由緒がある神社なのに、それを知らせる案内板が無いってのは勿体ない気がします!
観光客はまず来ないでしょうけど、氏子衆の頑張りに期待したい所ですね!

おまけ


北野神社横の山道1 北野神社横の山道2
北野神社の社の右側には更に山道が続いていました・・・まぁ、取り敢えず行きますよね(笑)
疲れるの分かっていても行きますよね・・・何かあればいいんですけど、何もなかった時の虚しさといったらもぉ・・・
疲れ倍増、自転車放置でタクシー呼んで帰りたくなります!
北野神社裏山の怪しい石碑1 北野神社裏山の怪しい石碑2
しばらく進んで行くと、道の真ん中に手水鉢の様な物が見えて来ました!
おっ、奥にまだ社的な何かがあるのか!?・・・何も期待していなかっただけに好奇心は3割増しです!
でも、道の真ん中に手水鉢?・・・何か違和感がありますね・・・道幅が狭いからかな?
などと考えながら近付いてみると・・・ん?・・・違うなぁ・・・手水鉢じゃぁないぞ・・・何か付いてるぞ!?
北野神社裏山の怪しい石碑3 北野神社裏山の怪しい石碑4
近付くにつれ、それが何なのか分かって来ました・・・石碑です!・・・ぶっ倒れた石碑です!
地震か何かで倒れたんでしょうか?・・・でも何故こんな所に石碑が建ってんだ?
下の平場に置けばいい物を、わざわざこんな山道に置くなんて・・・
やはりこの奥に何かあるんでしょうか?・・・気になりますねぇ・・・取り敢えず石碑を調べてみると、
北野神社裏山の怪しい石碑5
弘法大師が彫られていました・・・『高野山奥之院』の文字もあり、歌も彫り込まれています・・・
台座には『東京 京ばし元講』と彫られ、大勢の氏名が彫られていました・・・大正5年に造立された物の様です!

何故に弘法大師?・・・いや、別にいいんですけど、何か釈然としません・・・
考え込んでもしょーがないので先に進む事にしました・・・しかし、再び考えさせられる状況に追い込まれる事に・・・

何と同じ様な石碑がいっぱいあるじゃないですか!・・・10基以上はあったと思います!
ちょっと興奮して写真を撮るのをすっかり忘れていました(笑)
倒れたり壊れていたり・・・何故こんな所に?・・・とにかくちょっと異様な光景である事は間違いありません・・・

石碑の台座部分には番号が彫られていて、70~80番代の物がゴロゴロと・・・
恐らく当初は88番まであって、ミニ霊場みたいになっていたのではないでしょうか?

それともココ以外の場所にも数基づつ割り振られて置かれていたんでしょうか?
だとしたら、この様な場所がドコか他にもあるという事になりますね・・・ドコ!?・・・現在も人知れず残ってるの!?
最初に見た石碑に『高野山奥之院』とある事から、ココが結願場所である事は間違いないでしょう・・・

天神山
に88基全ての石碑が置かれていたのか?・・・それとも別の場所にも割り振られて置かれていたのか?
謎は深まるばかりなのでした・・・

ちなみに道を進んで行くと三菱電機の方へ出れますよ!

おしまい
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