ブログ 龍宝寺タイトル
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久し振りに鎌倉の記事を書こうと思います!・・・一応、鎌倉探訪のページですからね!
久し振りにってのが既に変な感じですが、まぁ、いつも言っている様に・・・テキトーですからっ!

テキトーですが何か?』

そんな感じですが、書く時は書きますよ!・・・基本、鎌倉好きですから!(笑)

今回紹介するのは『龍宝寺』とゆー曹洞宗のお寺であります!
鎌倉の外れに建っている寺なので、観光コースに入れ難い寺なんですが、境内は広くてキレイ!
明るい雰囲気の参道が印象的な寺です!

外れにありますから、当然無料Pアリ!・・・それに外れなりに付近にはイロイロとありますんで、五山巡り、大仏、鶴岡八幡宮などの市街地物件を切り捨ててコースを組み立てても結構楽しめると思いますよ!
鎌倉に飽きたら訪れてみて下さい!・・・新鮮な気分で意外な発見をしたりしなかったり出来るかも知れません(笑)
鎌倉に飽きたらってフレーズは失礼だったかな?・・・ココも鎌倉市ですからね・・・一応・・・

では、そろそろ鎌倉の外れ(龍宝寺)へ行きましょうか!(笑)
龍宝寺1 龍宝寺2
山門越しに続く幅広の参道が気持ちイイですね・・・この開放感がイイ!
背の高い古木等が並んでいる参道も雰囲気があり好きですが、コチラの開放感もイイ!
寺が自分の来訪をフルオープンで迎えてくれている様な気分にさせてくれます!
厳粛な気分にさせる古刹特有の空気感もイイですが、フレンドリーな感じも嫌いじゃないです!

『鎌倉・玉縄城を偲ぶコース 案内図』とゆー物がありましたが、確かにイイ散歩コースですね・・・
でも玉縄城址は清泉女学院の敷地内にあるので、実際に見学するには手続きが必要になります!
カメラ片手に校門前をウロウロしていたら、間違いなく警備のオッサンに注意されますよ!(笑)
まぁ、今回は歩く気分ではないので行きませんけど・・・

早速ですが、案内板があるので見て置きましょう!
龍宝寺案内板1
案内板の通り、龍宝寺は玉縄北条氏と関わりの深い寺であります!
『新井白石の牌』って何だろ?・・・何度か訪れてますけど、そんなのあったかな?
龍宝寺案内板2
『新井白石の碑』・・・案内板の『牌』は誤植か?・・・石碑があるってのか?
気になるなぁ、もぉ・・・どっちなんだよぉ!?

『海外各戦場の霊骨、霊石、霊砂』ってのも気になりますなぁ・・・戦場ってドコ?、骨って誰の?
まぁ、お釈迦様の骨・・・所謂、『仏舎利』ってヤツですが、そんな大変貴重な代物も読売ランドにありますし・・・
ドコに何があっても不思議ではないですよね?(笑)
ちなみに、寿司の『シャリ』の語源は仏舎利だそーですよ・・・
高名な方の骨は分骨されて祀られるパターンが多いですが、削り取られた小さな骨粒が米粒に似ているからだとか・・・
寿司食いてぇ~!

更に早速ですが、手持ちの資料の【鎌倉の寺小辞典】も見て置きましょうか!

龍宝寺(りゅうほうじ)
玉縄北条氏の菩提寺として栄えた。寺伝によれば、玉縄城主北条綱成が文亀3年(1503)に建立した瑞光院がこの寺の始まり。開山は泰絮宗栄禅師と伝えられる。

天正3年(1575)、玉縄四代城主北条氏勝によって現在地に移された。龍宝寺の名は氏勝の父である三代城主・氏繁の戒名「龍宝寺殿大応栄公大居士」からとられている。

創建当時は広大な寺領を有したが、小田原北条氏の滅亡とともに衰退。豊臣の軍勢と対峙して玉縄城にこもった氏勝も降伏、開城した。氏勝はのち家康に仕える。

明治10年(1877)には玉縄学校(現在の玉縄小学校)がこの寺に移り、50年の間、寺は学校として使われた。

本堂には本尊の宝冠釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられ、歴代玉縄城主や源実朝の位牌が安置されている。境内には江戸時代の儒学者新井白石の碑や国指定重要文化財の旧石井家の住居もある。住居内に収納されていた民俗資料は、境内の玉縄民俗資料館にある。

境内には花木が多い。ウメやモモ、ショウブやボタン、シャクヤクが季節を彩る。

小百科
玉縄城主の菩提寺として、裏山には三代にわたる城主の墓がある。徳川家宣、家継時代に文治政治を発展させた新井白石は、当時天領だった植木から家禄を得て、城廻を治めていた。当時朝鮮からの使者を藤沢宿まで出迎え、龍宝寺を宿舎として使ったという。

あの新井白石がこの辺りを治めていたとは・・・知らんかった・・・
ちなみに白石は龍宝寺に200石を献上したそーです!
龍宝寺山門 龍宝寺3
茅葺の山門がイイ味を出しています!・・・いやぁ~イイですなぁ~・・・
その山門の傍らに建つ石碑には『禁葷酒』の文字があります・・・『きんくんしゅ』・・・
葷とはニンニク、ネギ、ラッキョウなど、臭いが強い野菜を指しているそーです、また、これらの野菜は精が付く事から転じて色欲の事も指しているのではなかろーか?・・・とゆーのは自分のテキトーな推測です(笑)
しかし、なんとも禅宗らしい文言ですなぁ・・・

この『禁葷酒』の石碑ですが・・・
禅寺の門前でしばしば目にする機会があります!
そーですねぇ・・・例えば、ウチの近くの禅寺とゆーと・・・【続・雪の神武寺】のページで紹介した海宝院がありますが、
海宝院1 海宝院2
ほらね・・・あるでしょ!

何か懐かしいなぁ・・・メッチャ雪降ってたもんなぁ・・・あん時は自分も結構な暇人だったなぁ(笑)
現在、そのツケが回って来たんでしょうか?・・・忙しくてドコにも行けねーや・・・
海宝院3
海宝院も曹洞宗の寺です!
いやぁ~、しかし、あの日の海宝院は格別に良かったなぁ・・・

一口に『禅宗』といっても、臨済宗、曹洞宗、そして江戸時代に広まった黄檗宗の3つがあります!
ちなみに黄檗宗の開祖である隠元は日本にインゲンマメを持ち込んだ人物だともいわれています・・・
まんまじゃんか(笑)

禅宗といわれて連想するのは、やっぱ座禅ですよね!?
でも座禅ひとつとってもイロイロあります!
何かを考えながら行うのが臨済宗・・・無になって行うのが曹洞宗・・・
したがって、主に庭や通路の方を向いて座禅しているのは臨済宗・・・壁に向かって座禅しているのは曹洞宗・・・
とゆー判別の仕方も出来ます・・・奥が深いですね・・・
玉縄ふるさと館 龍宝寺参道1
山門の右側には玉縄ふるさと館があります!・・・まぁ、所謂、民俗資料館です・・・
平成23年3月に玉縄民俗資料館旧石井家住宅を合わせて命名された様です!
何気に結構ヒマを潰せる場所だと思います・・・入館料は徴取されますけどね・・・

しかし、この参道はホントに気持ちイイですなぁ・・・何か知らんけど走りたくなります!(笑)
玉縄幼稚園 子育地蔵堂1
左側には玉縄幼稚園があります・・・寺と幼稚園はお馴染みの光景ですね・・・
自分が通っていた幼稚園も寺が経営していました・・・

プールの横に何だか怪し気な建物が・・・中を覗いてみると、
子育地蔵堂2 龍宝寺参道2
地蔵菩薩が一体安置されていました・・・ズレた光背がちょっと悲しいです(笑)
先程の案内板から察するに、コレが子育地蔵尊なんでしょうなぁ・・・
園児達の成長を優しく見守っておられるんでしょうなぁ・・・でも、やはりズレた光背が悲しい(笑)

少し進むと、石碑が建っています・・・何の石碑でしょう?
團成雄鎮魂碑 『いざさらば 吾が身散るとも 我が心
              堅く護らん 皇孫の國   功雄』


明らかに戦争の匂いがします・・・
この石碑とは直接関係はありませんが、大戦中、龍宝寺山門前には通称『大船捕虜収容所』と呼ばれる物があり、多くのアメリカ兵が収容されていたそーです!

正式名称は『横須賀海軍警備隊植木分遣隊』・・・
ココでは、捕虜に対して行えない尋問等を行っていた様です・・・
そして、尋問を受けたアメリカ兵は、その後、陸軍の収容所に移されたそーです・・・
国際赤十字に告知する事もなく、所謂、黒い建物状態だったみたいですね・・・
戦後、虐待があったとして捕虜から訴えられ、関係者等が戦犯として裁かれています!

ちなみに大船捕虜収容所の建物は、戦後に玉縄幼稚園の園舎として利用されたそーです!

あ、石碑の話でしたね・・・
何の石碑なのかは、裏側をみれば分かると思います!
神風特別攻撃隊至誠隊隊長として24歳の若さでその身を散らした團野功雄って人物の鎮魂碑の様ですね・・・
碑に刻まれた歌は辞世の句って事でしょうか?・・・つーか團野功雄って誰なんだよ?(笑)

物知りな友人からの情報ですが、何でも龍宝寺の先代住職である団野弘之氏の弟さんって事らしいです!
弟の鎮魂の為に兄が建立したんでしょうなぁ・・・いい話でねぇがぁ・・・弟の功雄さんも安らかに眠っている事でしょう!

先へ進みましょう!
手玉石 庚申塔
手玉石、道祖神、庚申塔、馬頭観音・・・そしてその奥には何やら怪し気な建物が・・・
あの社には何が祀られているんでしょう?・・・取り敢えず行ってみましょう!

しかし、以前訪れた時よりも何となく開放感に満ちているとゆーか、境内の雰囲気がちょっと違う様な気がします・・・
参道沿いに金網のフェンスがあった様な記憶があるんですが・・・まぁ、いーか・・・
新井白石之碑1 新井白石之碑2
社の手前には石碑が建っていました・・・これは見覚えあるぞ!
傍らの石柱には『新井白石之碑』と刻まれています・・・
え!?・・・コレが!?・・・そーだったんですか?・・・へぇ~・・・

文字は経年劣化による磨滅で判別不能です・・・
『朝散大夫新井源公碑銘』ともいい、享保10年(1725)に室鳩巣が撰した物の様です・・・
室鳩巣って懐かしい名前が出て来ましたねぇ・・・白石の紹介で幕府に仕える事になった儒学者です!
家宣・家継・吉宗と三代に渡り仕えた人物です・・・日本史でやりましたよね?

しかし、何か違和感あるんですよねぇ・・・こんな所に建ってたかなぁ?
基礎のコンクリートもどちらかとゆーと新しい感じだし、別の場所から移設した可能性もあります!
でも、移設したにしても、ドコにあったのかまでは記憶にありません・・・
ただただ、自分はこの空間に何か違和感を感じる・・・ただそれだけの事です・・・

まぁ、いーや・・・今はそれよりも怪しい社が気になります!
金毘羅宮1 金毘羅宮2
どーやら怪しい社は金毘羅宮だった様です!・・・そーいえば、こんなんあったなぁ・・・何か思い出して来ました!
でも建物の向きが以前と比べて90度ズレている様な気がします・・・
まぁ、人の記憶なんて結構いい加減なモンですからね・・・何ともいえません!
『~の様な気がする』で全て済まして置くのが無難かも知れませんね(笑)

金毘羅宮の所から墓地へと繋がる道を少し進んでみましょう!
龍宝寺墓地1 龍宝寺墓地2
明るい雰囲気の参道とは対照的に、少し暗い感じの山腹沿いに無数の石仏や石塔が並んでいます・・・
龍宝寺墓地3 龍宝寺墓地4
雰囲気はありますね・・・暑い季節でもココなら幾分は過ごし易いのではないでしょうか?
木陰で休息すれば熱中症対策にもなりますしね・・・こまめな水分と塩分補給も大事です・・・って何の話をしてんだ?

道はまだ続いていましたが、取り敢えず金毘羅宮まで戻りましょう!・・・あまり疲れたくないので(笑)
バナナの木 龍宝寺のやぐら
金毘羅宮の所から右に目をやると、道の突き当りにバナナの木が見えました!
またバナナだよ・・・禅寺とバナナの組み合わせ・・・何度か目にして来ました・・・
バナナの木といいますが、実際には草ですし、厳密には果物ではなくて野菜といえるかも知れません!
だとすると精進料理の食材としても利用価値があるんでしょうか?
でも、バナナ料理ってなんか微妙だなぁ・・・おかずとして出て来たら厳しいかも・・・
やっぱり、そのまま食べるかデザートがいいですよね?

なんて事を考えながら周囲に目をやると、やぐらを発見!
ジィ~っと見ていると、これまた記憶が蘇って来ます・・・コレって!?
う~ん、先程の新井白石之碑なんですけど・・・数年前はこのやぐらの中にありませんでした?
もし、そーだとしたら、自分が感じていた違和感もスッキリするんですがねぇ・・・
当時は『新井白石之碑』の標柱も立ってなかったと思います・・・
『何だろうコレ!?』・・・って思っていた記憶は残っています!

うん!、確かにココにあった!・・・あ、いや、あった様な気がします(笑)
何方かご存知の方がいらっしゃたら教えて頂きたい・・・まぁ、自分の中の違和感がスッキリするだけの話ですけどね!
池 龍宝寺参道3
再び参道へ戻り、本堂を目指します・・・あ、見えて来ましたね!
でも、右側にまたまた怪しい社が(笑)・・・取り敢えず見て置きましょう!
福徳稲荷堂1 福徳稲荷堂2
福徳稲荷堂です・・・
案内板等はないので由緒とかは分かりませんが、御利益のありそーな社名ですね・・・
取り敢えずお参りを済ませ、再び本堂を目指して進みます!
龍宝寺庫裡 回廊
こちらは庫裡の玄関の様ですね・・・庫裡と本堂は趣のある回廊で繋がっています・・・
駐車場 龍宝寺本堂1
本堂手前には駐車スペースがあります・・・山門の手前、道路向かい側にも駐車場はあります!
出来ればソチラを利用したいですね・・・本堂でお参りする前に参道をゆっくり歩いて心を落ち着かせたいモンです!

本堂は銅葺の重層入母屋造との事ですが、中々スタイリッシュな感じがします・・・
龍宝寺本堂2
昭和26年(1951年)、龍宝寺は火災により山門と鐘楼以外を全焼しています・・・
現在の建物は案内板にあった通り、昭和34年(1959)に大岡実の設計により再建された物です!
したがって古い物ではないんですが、自分は結構好きですね!・・・本堂も開放感に満ちている感じがします!
龍宝寺本堂3 龍宝寺本堂4
五百羅漢 堂内には五百羅漢がビッシリと並んでいます・・・
印象的な光景です・・・

羅漢とは、仏教に於いては尊崇されるべき聖者の事をいいます・・・阿羅漢ともいいます・・・
五百羅漢とは仏陀(釈迦)に付き従った500人の弟子達の事、又、釈迦入滅後の仏典編集に集まった弟子達の事ともいわれています・・・
ちなみに我が神奈川県にはその名を冠した駅がありますよ!・・・五百羅漢駅!、御存じない方は探してみてね!(笑)
龍宝寺参道4 龍宝寺参道5
本堂から山道を振り返ってみます・・・気持ちイイですね!
この参道の敷石は都電(東京都電車)の廃止路線上にあった物を再利用しているんだそーです!
玉縄北条氏供養塔1 玉縄北条氏供養塔2
本堂脇の一画に五輪塔があります・・・標柱や案内板らしき物も立っていますね・・・見てみましょう!
玉縄北条氏供養塔3 玉縄北条氏供養塔4
『玉縄北条氏供養塔』とあります・・・だよねぇ~・・・玉縄っつったら後北条氏だよねぇ・・・
北条早雲が築いた玉縄城は堅固な城だった事でも知られています・・・
徳川家康によって開城されるまで、一度も落城した事はありません!
武田信玄上杉謙信でさえもこの城の攻略を諦めたとゆー程です・・・

しかし、時代の流れと共に現在は清泉女学院に支配されています(笑)
いかなる堅固な城も現代の建築用重機には歯が立たない様ですね・・・今後もドンドン削り取られて行くんでしょうなぁ・・・
文化財保護だなんだといってても、結局削られて行くパターンが多いですよね・・・まぁ、どーでもいーけどさぁ・・・

案内板を読んでみましょう!

玉縄北条氏供養塔

永正九年(1512)伊勢宗瑞(通称北条早雲)が玉縄城を築城し、小田原城の支城として関東進出の重要な役目を果たしてきました。
戦乱の渦中に、その名を轟かせた北条綱成、氏繁、氏勝は玉縄城主としてよくこの地を治め、外に向かっては勇猛果敢に戦いました。

この供養塔は、龍寶寺住職四世良順大和尚が建てたものです。(推定元和年間~寛永五年頃)元は、現在の栄光学園の敷地内にありましたが、造成工事のため龍寶寺墓地裏の尾根上に移設しました。
この度、玉縄城築城500年を記念して参詣し易いこの地に再度移設しました。

なお、この供養塔は旧地に建っていた頃、いつも塔が倒れていて誰かが直しておくとすぐにまた倒れているので土地の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたとのことです。
                                         平成二十四年五月吉日 供養塔説明版寄贈

この供養塔も宅地造成という人間の業により、その所在地を転々として来たんですね・・・

玉縄城築城500年祭・・・そんなのやってましたねぇ・・・七曲坂の整備をしたりと意外と実りある企画だった様です!
でも、結局本丸は清泉女学院の敷地内ですから、常時一般開放って運びにするのは不可能ですよね・・・
市は土地を買い戻すべきなんじゃないか?・・・清泉女学院も土地を返却するべきなんじゃないか?
でも、そんな事はどーでもいい・・・だって、『鎌倉の外れですからぁ!』(笑)
玉縄北条氏供養塔5 玉縄北条氏供養塔6
大きな五輪塔はまだ新しい感じですし、最近建てられた物でしょう・・・
その傍らに並ぶ残骸・・・これが玉縄城主三代の墓なんでしょうか?・・・建立者である良順の文字が見て取れます!
まぁ、こんなモンか・・・良順がコレを建てた事を確認出来ただけでも良かったとするべきでしょうね・・・
龍宝寺裏山1 龍宝寺裏山2
裏山の探索も楽しそーですが、疲れたくないのでやめて置きました・・・
鐘楼へもメンド臭いので行きません!・・・何か足痛いし(笑)
龍宝寺本堂5 旧石井家住宅
まぁ、そんな感じの龍宝寺なのでした・・・近くを訪れた際には是非足を運んでみて下さい!
意外とイイですよ!・・・意外と・・・(笑)

国重文の旧石井家住宅の入館料は¥100です!
次回は玉縄ふるさと館を紹介したいと思います!・・・当然、この古民家も紹介しますよ!
まぁ、そんな大それた物ではありませんけどね・・・暇潰しには丁度イイです(笑)

おしまい
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