ブログ 小動神社タイトル
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今回は腰越にある小動神社を紹介したいと思います・・・海近いですよぉ~!
海岸沿いを走る国道134号線よりも海側に建っている神社は、鎌倉市内ではココだけです!
市内の神社とゆーとジメジメした場所に建っているイメージが多いので、潮の匂いに包まれた境内は新鮮です!
小動神社1 国道134号線を鎌倉から江ノ島方面へ走っていると道路沿いに鳥居が建っているので、興味の無い方でもその存在は意外と知られていると思います・・・
でも駐車場が無いんですよねぇ・・・
自分はチャリなんで関係ないですけど・・・

まぁ、境内散策したい方は江ノ島巡りのついでにでも訪れてみては如何でしょうか?
しらす丼食べた後の腹ごなしには丁度いいかも・・・
腰越には日蓮宗の寺が密集してますし、源義経に所縁のある満福寺もある意味面白いです・・・
お店もいっぱい建ち並んでいますし、結構時間を潰せる地区ではあると思います!
小動神社2 小動神社3
鳥居の左側には『お仮屋』という蔵の様な建物がありますが、ココには江ノ島の八坂神社との合同祭で使われる山車が保管されています・・・天王祭とゆーこの行事では江ノ電が路面電車と化すあの地区を山車と神輿が行き来します!
違う意味で迫力満点です!・・・江ノ電がスレスレで通過しますから・・・よく事故が起こらないものだと思います・・・

鬼子母神も祀られていました・・・『日蓮宗の守護神』と書かれていますが、何故ココにあるのかは良く分かりません・・・

神社の案内板があるので見てみましょう!
小動神社案内板
そーなんですよ、この神社は佐々木盛綱が八王子宮を勧請した物なんです・・・
佐々木秀義の息子の定綱、経高、盛綱、高綱は、頼朝挙兵当時から共に戦って来た武人です・・・
秀義は頼朝の父義朝と共に戦いましたが平治の乱で敗れ、下って来ました・・・
そして伊豆に流されていた頼朝のもとへ元服した盛綱を遣わしたそーです・・・
まぁ、頼朝からしてみれば信頼の厚い一族といえますね・・・
その証拠に、挙兵前に嫡子の定綱ほか数人に『お前にだけ特別に話すが・・・』と計画を打ち明けています!
まぁ、『お前にだけ』というのは嘘になりますが、とにかく信用できる人物という立ち位置にあった事は確かです・・・

でも決行の時に佐々木兄弟が参陣しなかったんですよねぇ・・・頼朝は定綱に話をした事を悔やみます・・・
でもでも、実はそーではなくて、川が増水して渡れなくて遅れてしまっただけだったんです!
遅れながら馳せ参じた兄弟達を見て、頼朝は涙を流して喜んだそーです・・・ちゃんちゃん・・・

とまぁ、頼朝との絆の深い佐々木兄弟ですが、次男の経高親子はちょっと可哀想な最期を迎えています・・・
興味の湧いた方は是非調べてみて下さい・・・今回は割愛します(笑)

四男の高綱は一番有名でしょうか?・・・【御馬冷場】のページでも紹介しましたが、頼朝から賜った名馬池月に跨って宇治川の先陣を取った人物ですね!

異母弟に義清というのがいますが、平氏方の大将大庭景親の娘を娶った関係から当初は敵として平氏軍に加わっていました・・・まぁ、途中から源氏に寝返っていますけどね・・・

さて、盛綱が勧請したこの八王子宮ですが、当初は道路を挟んだ向こう側に建っている浄泉寺という真言宗の寺が管理していました・・・正式には小動山松岩院浄泉寺といいます・・・
一応、開山は空海としているみたいですが信憑性は低い様です・・・中興開山は元秀という人物・・・
創建年は分からないそーです・・・
浄泉寺1 浄泉寺2
赤い門が目立ちますね・・・この寺は不動明王が有名です・・・
不動明王は右手に剣を持ち、左手に羂索ってのが普通のスタイルですよね?
でもココの不動明王は左手に剣を握っているんです!・・・まぁ、この左剣不動明王は秘仏で拝観は出来ませんけど(笑)

この目立つ赤い山門と本堂も、もともとは江ノ電の線路側を向いて建っていたそーです・・・
昭和30年(1955)に国道134号線が造られた際に現在の位置に建て替えられたそーです・・・

もともとは浄泉寺の管理下で『八王子宮、八王子社』と呼ばれていた物が、明治の神仏分離で『小動神社』と改称して現在に至っているとゆー訳です・・・
神仏分離令以後も大正7年(1918)まで浄泉寺の住職が管理を続けたそーです・・・珍しいパターンです・・・

盛綱が江ノ島詣でに訪れた際に、風も無いのに揺れている小動の松を見て『天女遊戯の霊木』と絶賛して八王子宮を勧請したとゆー話ですが、盛綱は別に衝動的にそーしたのではなくて、もともとある事を切っ掛けに八王子宮を勧請する地を探して回っていたそーです・・・その話は後にして、取り敢えずもっと境内を見てみましょう!
小動神社4 小動神社5
階段を上って右側に社殿があります・・・まぁ、普通な感じですね・・・狛犬のほっかむりがちょっとダサイ(笑)
あ、コイツら狛コレにアップし忘れてたなぁ・・・コイツらの写ってる写真はコレしかないなぁ・・・
また撮り直しに行かなあかんなぁ・・・メンド臭っ・・・
小動神社6 小動神社7
小動神社の扁額の他に、『三神社』と書かれた古い扁額もありました・・・
これは江戸時代に小田原城主大久保忠真が揮毫し奉納した物だそーです・・・
三神社とは三柱の祭神を尊称した物なんだそーです・・・ふ~ん・・・
小動神社8 小動神社9
そして隣には海神社(わたつみじんじゃ)もあります・・・祭神は綿津見神です・・・
漁業と航海の神ですし、腰越漁港の皆さんの信仰は篤そうですね・・・
小動神社10 横には色々と石碑が並んでいますが、『龍王海神』と刻まれたそれにはカメが乗っかっていました・・・
このカメの顔が間抜けとゆーか何とゆーか・・・
ほのぼのとしていて癒されますね・・・

別に助けてないけど竜宮城に連れて行って欲しい!
そして美女と一緒に美味い物を腹一杯食べて、お土産に貰った玉手箱は誰かにあげよう・・・
誰に渡そーかな・・・フフフ(笑)
小動神社11 小動神社12
稲荷社もあります・・・祭神は当然、宇迦之御魂神ですが、猿田彦神、天鈿女命も祀られている様です・・・
商売繁盛、産業興隆、芸能上達・・・池田丸のあの繁盛っぷりを見ると相当な御利益がありそーですね(笑)
小動神社13 小動神社14
金刀比羅宮もあります・・・祭神は大国主命・・・因幡の白ウサギですね・・・
兄弟に何度も殺されては生き返った神です(笑)・・・少彦名命と共に葦原の中つ国(日本)を造った神でもあります・・・
支配権は天照大神の子孫に譲る形になりましたが、その際に与えられた大国主命の居館が現在の出雲大社の起こりであるともいわれていますね・・・

向かい側には神寶殿が建っていて、大六天社もあります!
小動神社15 小動神社16
第六天魔王・・・カッコイイですねぇ・・・社はトタンな感じですけど・・・クモの巣が凄かったです(笑)
小動神社17 小動神社18
トタンな感じの社の横には庚申塔が3基並んでいました・・・

そして、海側には展望スペースがあります!・・・この神社一番の見所かも知れません(笑)
小動神社19 小動神社20
眺めはこんな感じです・・・転落防止用のフェンスが邪魔ですね・・・えい!
とまぁ、江ノ島が良く見えます・・・手前に見えるのは腰越漁港です・・・月に2回ほど朝市も開催しています!
漁協事務所内の直売所では今年の春くらいから『朝どれフライ』といって、その日獲れた魚をフライにして提供してくれるブースが出来ました・・・お値段も手頃だし、何より揚げたては激ウマですよぉ!
ただし購入出来るのは午後からだったと思います・・・朝どれでも朝メシには間に合いませんね(笑)
小動神社21 小動神社22
展望スペースには一応コンクリートベンチが設けられています・・・ココから眺める夕陽は結構いいですよぉ!
『サンセット神社』に改名してもいいんじゃないかと思います・・・
腰越漁港で買ったフライをかじりながら黄昏時を過ごすのもありかも知れませんね・・・
他に誰かいたらちょっと恥ずかしいですけど、そんな時は怪しい奴オーラを出しまくって追い返しましょう(笑)
警察を呼ばれない様にオーラの放出量は各自調整しましょうね・・・

てな感じで境内をひと通り巡った訳ですが、ココらで久し振りに【新編鎌倉志】でも見て置きましょうか!

【小動(附八王子の宮)
小動は七里濵を西へ行き、腰越へ入る左の方、離れたる巖山あり。此所をこゆるぎと云ふ。山上に八王子の宮あり。
又、山の端に海邊へ指出たる松あり。風波に常に動くゆへに、こゆるぎの松と云と也。土御門内大臣の歌に、
『こゆるぎの 磯の松風 音すれば 夕波千鳥 たちさはぐなり』。又、北條氏康の歌に、
『きのふたち けうこゆるぎの 磯の松 いそひでゆかん 夕暮の道』此等の歌、此所の事とも云ひ或は大磯の濵を詠むとも云ふ。相模の名所こゆるぎの歌多し。

土御門内大臣は源通親の事ですね・・・ 後鳥羽院歌壇の中心的人物です・・・
北条氏康は言わずと知れた戦国大名、後北条氏三代目当主ですね・・・
中々に風流な歌ですが、ココと大磯の浜・・・果たしてどちらを詠んだ物なんでしょうかねぇ?
まぁ、ぶっちゃけ俺的にはどっちでもいいですけどね(笑)

最後に佐々木盛綱の名シーンも見て置きましょう!・・・弟の高綱は馬で川を渡りましたが、盛綱は海を渡りました!
備前児島の藤戸の戦いです!・・・歌舞伎や謡曲でもお馴染みですが、【平家物語】をチョロっと覗いてみましょう!

【平家物語 第十巻 藤戸】

《中略・・・》
さて、同年九月十二日、大将軍三河守・源範頼は平家を追討する為に西国へ向かいました・・・
率いるのは、足利蔵人義兼、北条小四郎義時、斎院次官・中原親義、侍大将には土肥次郎実平、子息・弥太郎遠平、三浦介義澄、子息・平六義村、畠山庄司次郎重忠、同・長野三郎重清、佐原十郎義連、稲毛三郎重成、佐々木三郎盛綱、土屋三郎宗遠、天野藤内遠景、比気藤内朝宗、同・藤四郎義員、八田四郎武者朝家、安西三郎秋益、大胡三郎実秀、中条藤次家長、一品房章玄、土佐房昌俊、これらを先鋒として総勢三万余騎が都を発ち播磨国室の津に到着しました・・・

平家方の大将軍には小松新三位中将・平資盛、同・少将有盛、丹後侍従・平忠房、侍大将には越中次郎兵衛・平盛嗣、上総五郎兵衛・伊藤忠光、悪七兵衛・伊藤景清を先鋒として五百余艘の兵船に乗って備前国児島に到着したと聞くと、源氏はすぐさま室の津を出て、備前国西河尻藤戸に布陣しました・・・

そして、源平両軍は海上わずか三十余町を隔てて対陣しました・・・
舟がないので簡単に渡る事ができず、源氏軍は向いの山に野営して無駄に日数を費やす事となりました・・・

同・二十五日辰の刻頃、平家方の血気盛んな兵達が小舟に乗って扇を上げ、
『源氏よ、渡って来い!』と挑発します!
佐々木三郎盛綱
(画:歌川国芳)
これに腹を立てた源氏はどーしてくれようか相談していた所、 近江国の住人である佐々木三郎盛綱がその日の夜に、浜の漁師一人に直垂、小袖、大口、白鞘巻などを着せておだてて、
『この海に馬で渡れる場所はあるか?』と尋ねると、
男は、
『知っている者は殆んどいませんが、瀬のような場所があり、月の初めには東にあって、月の末には西にあります、そしてその瀬の距離は海上十町ほどもありますんで馬で簡単に渡る事が出来ますよ』と答えました・・・

ではさっそく渡ってみようって事で 二人は裸になり、その川の瀬の様な場所を渡ってみました・・・
男のゆー通り全然深くない・・・膝、腰、肩くらいの所もあれば、鬢が濡れる所もありました・・・

男が、『ここから南は北よりも浅くなっています、敵が弓矢を構えて待ち伏せている所へ裸で向かっても敵いますまい・・・』と言いました・・・

それもそーだと思い盛綱は引き返そうとしました・・・
しかし、この男はどこの馬の骨とも知れない者だし、他人にこの事を喋られても都合が悪い・・・
と考え、その男を刺し殺し、首を掻き切って捨ててしまいましたとさ・・・知っているのは自分ひとりで十分だ!
翌日の辰の刻頃、またまた平家方の血気盛んな兵達が小舟に乗って漕ぎ出し、扇を上げて挑発して来ました・・・
これに対して守綱は滋目結の直垂に緋威の鎧を着て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗り、家子・郎等たち七騎を率いて海を渡り始めました・・・

それを見た大将軍三河守範頼が、
『あれを止めろ、引き止めろ!』
と言うと、土肥次郎実平は鞭を振るい鐙を蹴って追いつき、
『なんと、佐々木殿は物の怪に憑かれて狂われたか!?、大将軍のお許しも無いのに、止まられよ!』
と言ったが、守綱は聞く耳持たずどんどん渡って行きます・・・実平も制止しかねて続いて渡って行きました・・・
馬の胸先、胸懸、太腹に浸かる所もあり、鞍壺を越える所もあり、深い所を泳がせて浅い所にあがりました・・・

大将軍範頼殿はこれを見て、
『守綱にはしてやられた・・・浅かったぞ、渡せ、渡せ!』
と命じると、三万余騎の兵たちが一斉に海へ入って渡しました・・・

これを見た平家方は、舟を並べて弓矢を構え、次々に矢を射かけましたが、源氏の兵達はこれをものともせず、兜の錣を傾け、敵の舟に乗り移りながらわめき叫んで攻め戦いました・・・
一日中戦い夜に入ると、平家の舟は沖に浮かび、源氏は児島に上陸して人馬を休ませました・・・
明けると平家は讃岐国屋島へと漕ぎ退きました・・・

源氏は果敢に進みましたが、舟がないのでどーにも追撃する事が出来ませんでした・・・

昔から馬で川を渡す兵は多い様だが、馬で海を渡るなど、天竺・震旦は知らないが、我が国ではほとんど聞いた事がありません・・・

とまぁ、盛綱さん大活躍のシーンですね・・・
でも、事前に範頼に浅瀬の秘密を話していれば、事はもっとスムーズに進んだ様な気もします・・・
手柄を独り占めして目立ちたかったんでしょうか?(笑)

何にせよ、秘密を教えた後、口封じの為に始末されてしまった気の良い漁師が気の毒でなりません・・・
大庭の方でも似た様な話があったなぁ・・・確かあっちはお婆さんだったかな?・・・ナ~ム~・・・

この盛綱の活躍は【吾妻鏡】にも記されています!

元暦元年(1284)12月2日 丁巳
武衛御馬一疋(葦毛)を佐々木三郎盛綱に遣わさると。盛綱平家を追討せんが為当時西海に在り。
而るに折節乗馬無きの由言上せしむに依って、態と雑色を立てこれを送り遣わさる。

平家討伐で中国地方にいた盛綱が乗る馬が無い事を告げると、頼朝は葦毛の馬を一頭送った様です・・・
この馬で児島湾を渡る事になるんですねぇ・・・

同年(1284)12月7日 壬戌
平氏左馬頭行盛朝臣、五百余騎の軍兵を引卒し城郭を備前兒島に構うの間、佐々木三郎盛綱、武衛の御使としてこれを責め落とさんが為行き向かうと雖も、更に波濤を凌ぎ難きの間、浜の干潟に轡を案ずるの処、行盛朝臣頻りにこれを招く。仍って盛綱武意を励まし乗船を尋ねるに能わず。乗馬しながら藤戸の海路(三町余)を渡す。
相具する所の郎従六騎なり。所謂志賀九郎、熊谷四郎、高山三郎、與野太郎、橘三、橘五等なり。
遂に向岸に着かしめ、行盛を追い落すと。  

平行盛は500騎以上の軍勢を引き連れ、備前国児島湾に砦を構えているので、海に遮られた盛綱は砂浜の上で行きあぐねていました・・・どーしたもんかと考えていると、行盛が攻めて来いと挑発します・・・
これにブチキレた盛綱は、船がなかったので馬に乗ったまま藤戸の瀬を渡りました!
お供をしたのは志賀九郎、熊谷四郎、高山三郎、与野太郎、橘三、同五の6騎でした・・・
そして、とうとう向こう岸へ辿り着き、行盛を攻め滅ぼしましたとさ・・・やったね!

藤戸の海路(三町余)・・・109.09m(一町)×3=327.27m・・・て感じですね・・・
ちなみに現在は埋め立てられてしまってます・・・
岡山県倉敷市の藤戸寺近くを流れる倉敷川には、朱塗りの欄干の『盛綱橋』と呼ばれる橋が架かっていて、そこには馬で海を渡る盛綱の銅像が建っていますよ!

同年(1284)12月26日 辛巳
佐々木三郎盛綱、馬により備前の国兒島に渡り左馬頭平行盛朝臣を追伐する事、今日御書を以て御感の仰せを蒙る。その詞に曰く、昔より河水を渡すの類有りと雖も未だ馬を以て海浪を凌ぐの例を聞かず。盛綱が振る舞い希代の勝事なりと。

盛綱は馬で備前国児島湾を渡って平行盛を追討した事に対し、お褒めの言葉を頂いた様です・・・その内容は、
昔から馬で川を渡った話はあるけれども、馬で海を渡ったのは聞いた事がない、佐々木三郎盛綱のやった事は稀に見る素晴らしい勝利である・・・との事です!

先に述べた、盛綱が八王子宮を勧請する切っ掛けとなった出来事とは、この大勝利であるって話があります・・・
霊験を得て藤戸の海路を渡り、平行盛を討伐出来た恩に報いる為に勧請地を探していた所、鎌倉の小動で天女遊戯の霊木に出会ってしまったって訳ですね・・・

何にせよ、口封じの為に殺されてしまった漁師の冥福を祈るばかりです・・・
でも【吾妻鏡】にはそのくだりは出て来ませんでしたね・・・
挑発にブチキレた盛綱が根性で海を渡った的な内容です・・・【平家物語】と比べると、両軍が対峙した距離にも10倍の差があります・・・まぁ、その辺はサラッと流して置きましょう(笑)

口の軽いお調子者と、B級ホラーでエッチな事してるカップルは取り敢えず殺されるって事ですね(笑)

おしまい
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