ブログ 隠里の稲荷タイトル
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源頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流されていた時の話です・・・病に伏せていた頼朝の夢枕に老翁が立ち、
『公は清和の嫡流にしてまさに天下を統一すべし、早く義兵を起こして奢れる平氏を討滅し安んじ給へ!我は鎌倉鎮座の稲荷なり!』
と告げました・・・その後、霊夢の教えの通りに挙兵し見事平氏を討ち滅ぼした頼朝は鎌倉の隠里と呼ばれる地に古い祠を発見し、これこそ霊夢の稲荷であるとして畠山重忠に社殿を建てさせて祀り崇敬しました・・・

要するに隠里の稲荷とは、鎌倉で一番有名であろう佐助稲荷神社の事であります!
名前の通り鎌倉市佐助にある神社です・・・すぐ近くにある銭洗弁財天宇賀福神社も頼朝の夢枕に立ちましたし・・・
どーやら佐助界隈の神様は人の夢に入り込むのが好きな様ですね・・・いやらしいなぁもぅ(笑)
先に【新編鎌倉志】を見てみましょう!

【稻荷社】
此の谷の内にあり。山林茂りたる地なり。扇が谷華光院の持分なり。毎年二月の初午の日、鎌倉中の男女参詣多シ。雪の下等覚院に尊氏の證文一通あり。其の文に凶徒對治祈禱の事殊可被致精誠之状如件 延文四年十二月十一日 佐介が谷の稻荷社別當三位僧都の御房とあり。尊氏の判あり。

龍興山華光院はもともとは寿福寺の塔頭でした・・・寿福寺の線路向かいに創価学会の護国寺とかいう訳の分からない施設がありますよね?・・・その近辺にあった様ですが現在は廃寺です・・・

どーでもいいですけど頼朝がらみの由緒には全く触れていませんね・・・佐助の由来のひとつにも数えられている事柄なのに・・・頼朝は殿(すけどの)とも呼ばれていました・・・これは平治の乱の時に13歳にして右兵衛権となった事に因みます・・・殿けた稲荷なので佐助稲荷ってわけです!
そんな重要な事柄に何も触れていないなんて凄く違和感を感じます・・・

佐助の地名の由来は他にもあります・・・上総介、千葉介、三浦介の屋敷があったから三介ヶ谷・・・転じて佐介ヶ谷!
でもこれは拠り所なしと【新編鎌倉志】は切り捨てていました・・・今は佐介谷だけど古い文献には佐介とあるばかりで谷の字はないとも記しています・・・佐介谷の項も見てみましょう!

【佐介谷】(附 御所の入 國清寺の跡 蓮華寺の跡 稻荷の社 隠里 銭洗水 薬師堂の跡)
佐介谷は谷の入口東南へ向ふ。分内廣ふして其内は又谷々多し。【東鑑】に寛元四年六月廿七日、入道大納言家(頼家。)・・・

おおーい!頼家じゃなくてそこは頼経でしょ!?・・・なんだかなぁ・・・
やっぱ【鎌倉攬勝考】にしときましょう(笑)

【佐介谷】
此谷の入口は東南に向ふ。此谷の内に谷々有て舊跡あり。此谷の名の起りしれず。土人が説に三介のこと用ひがたし。遙後の世に佐介を氏に名乗りしもの有しが、是は爰に住して地名を称したるなり。越後守時盛が舊跡、上杉憲基が舊跡、其餘國清寺、蓮華寺の跡皆此谷内にあり。

佐介谷の名の起りは分からないと記してます・・・佐介氏の事にも触れていますね・・・
佐介氏の祖といわれる北条時房の息子の時盛は確かに佐介谷に住んでいました・・・将軍職を廃された九条頼経が京へ送還される時に佐介の時盛邸に一時逗留しています・・・その後も将軍が京へ送還される度に時盛邸を通過するのが儀式みたいになってます(笑)

佐助稲荷神社っていつからそう呼ばれてるんでしょう?・・・古い文献などには佐助の文字は出て来ません・・・
『佐介谷の稲荷』です・・・そー考えると佐殿を助けたから佐助って話は後付けなのでは?・・・何て考えてしまいます・・・
だって始めから佐助稲荷ならば佐介谷の稲荷なんて遠回しな言い方しなくても・・・ねぇ?・・・
ほなそろそろ行きまひょか!
佐助稲荷神社参道 佐助稲荷神社下社
う~ん実に鎌倉らしい谷戸道ですねぇ・・・こーゆー道は大好物です!・・・ドコに繋がってるんだろうってワクワクします!
佐助稲荷神社下社(社務所)です・・・御朱印などはココで頂きましょう!
佐助稲荷神社由緒
上から目線の1枚で見難くてすみません・・・説明の通り佐助稲荷神社は出世稲荷としても有名です・・・
頼朝をココまでにした事を考えるとその御利益も頷けますね・・・また縁結び観音もいらっしゃいますので、若者が訪れるには最適なスポットですよぉー!・・・しかし良縁に薄い美しい姫君なんているんですかね?
金持ちで美人なんてもぅ・・・ほとんどチートじゃないですか!・・・赤松幸運って名前負けか?(笑)
縁結び十一面観世音菩薩 佐助稲荷神社参道2
観音様の御開帳は毎年5月18日だそうです・・・美しい姫君が彫ったといわれる十一面観音・・・見てみたいですね!

まだ朝早いので自分以外は誰もいません・・・ちょうどママさん達が朝ゴハン作ってるぐらいの時間です!
静かな境内を楽しみましょう・・・
佐助稲荷神社参道3 佐助稲荷神社参道4
乱立する鳥居を潜りながら登って行きます・・・幟もいっぱいで気分を高揚させてくれます・・・
巻きグソ稲荷 稲荷神の使いの狐もお出迎えしてくれます・・・
何か宝珠が巻きグソみたい・・・狐の頭もケツに見えて来ます(笑)・・・せめて宝珠は横向きに設置して欲しい(笑)
狐の持物は宝珠が一般的かと思いますが、その他色んなバージョンがあるので気を付けて見ていると大変面白いです・・・
稲、巻物、子狐などなど・・・訳の分からない物も多々ありますが、狛犬よりも豊富なラインナップで見る者を楽しませてくれます・・・オモシロイですねぇ~・・・
しかしやはり上の写真の狐は、巻きグソに興味津々で右前脚で突っついている様にしか見えませんよね(笑)
佐助稲荷神社参道5 佐助稲荷神社参道6
更にズンズンと登って行くと屋根の様な物が見えて来ます・・・自分はこの瞬間が一番ワクワクします!
佐助稲荷神社拝殿 佐助稲荷神社扁額
拝殿に到着であります・・・伏見稲荷とかと比べてはいけませんよ!・・・こんなくらいでいいんです!
隠里の稲荷ですからね・・・雰囲気があっていいじゃないですか!・・・何より人がいないのが最高!(笑)
拝殿前の狐 拝殿前の狐2
苔生した狐が最高にイイです!・・・こちらにも大事そうに巻きグソを抱える狐がいました・・・ジメジメとした場所なのでコケの繁茂には最適の立地です・・・それが本当にイイ感じで雰囲気を醸し出しています!
右側には休憩所があります・・・休憩する前に案内板を見て置きましょうか!
佐助稲荷神社由緒2
佐助の由来についてもちゃんと触れていますね・・・でも実際どーなんでしょ?・・・文献に佐助稲荷の文字が出て来ない以上、創建当初から佐助稲荷だったという話は鵜呑みに出来ませんね・・・
霊狐泉 霊狐泉2
霊狐泉なる湧水があります・・・メッチャ綺麗な湧水です・・・水脈は銭洗水と同じかも知れませんね・・・

霊狐泉
佐助の稲荷山は往古より麓の田畑を潤す水源の地なり。生命の基のこの湧水を人々霊狐の神水と称え家々の神棚に供えて稲荷のご神徳を戴くなり。今に至るも絶えず湧き出づる霊狐の泉なり。

佐助は江戸から明治にかけて大町村の入会地だったと聞きます・・・豊富な水源はその証とも受け取れます・・・ 
源十郎弥十郎事
休憩所の壁に貼ってありました・・・蘿葍(らふく)=大根と注釈がありますね・・・大根(おおね)は古くから食用として栽培されていた植物です・・・蘿葍、蘿菔 、葍などの文字があてられていた様です・・・ちなみにニンジンは紅蘿葍!(笑)

さて【源十郎弥十郎事】の話は自分も知っています・・・
あくまでも霊験譚です・・・読み下しているだけで分かり難いと思うのでテキトーに現代語風に訳しましょう・・・

その昔、源十郎という魚売りがおりました・・・魚籠を担いで由比ヶ浜を通りかかると、犬に追われた狐が逃げ場を失って魚籠の中へ飛び込んできました・・・
かわいそーに思った源十郎は、犬を追い払って狐を助けてあげました・・・

その夜の事です・・・狐が源十郎の夢の中に現れて言いました・・・
『今日は、お情けにより助けていただきましてどーもです・・・僕恩返しに来たよ!さっさと魚商人をやめて佐介ヶ谷で大根を栽培すれば幸せになれるよ!』
源十郎は狐に教えられた通り佐介ヶ谷に畑を借り、せっせと大根を作りました・・・

その年の冬、鎌倉に死亡率90%近い疫病が流行り皆困り果てていた所、ある人物の夢に神が現れて言いました!
『佐介ヶ谷の源十郎が作った大根を買って食べれば病は立ちどころに治るであろう・・・』

この夢のお告げをうけた人は鎌倉中にそれを広めました・・・皆が我先にと源十郎の 大根を買って食べました・・・
すると、お告げの通り病気は治りました・・・

そういった訳で、源十郎の大根の在庫はどんどん減っていきました・・・数が少なくなるに従い値段を釣り上げていったので、 とうとう源十郎は大金持ちになりました!

源十郎は、富を得る事が出来たのも狐の教えのお陰と思い、稲荷明神の社を建てました・・・
それがこの神社なんだよぉー!

てな感じですね・・・てーかまた夢に出てきたんかよ!(笑)
その昔っていつの時代の事か知りませんけど頼朝重忠に命じて社を建てたって話を根底から覆す内容の話ではないですかコレ?(笑)・・・それとも頼朝以前の話なんでしょうか?・・・まぁ軽く流して置きましょう・・・

在庫が少なくなると値を釣り上げたって・・・いやらしい話ですね(笑)

ちなみにこの話はココで終わりではありません・・・続きがあります・・・だってこれじゃぁ源十郎はいいけど弥十郎って何なんだよ?・・・って事になりますもんね・・・てなわけで一応話の続きを・・・興味の無い方はスルーして下さい・・・

源十郎は鎌倉でも指折りの大金持ちになりました・・・しかし大金を手にしたあまりに、おごり高ぶり勝手気ままな行動が目立ち、村人からは疎まれる存在になってしまいました・・・
その悪評はとうとう公方様の耳にも入ります・・・

源十郎は財産を取り上げられ鎌倉から追放されてしまいます!
夫婦二人きりで筑紫国へさすらって行く事になります・・・
筑紫に行くには船に乗らなければなりません・・・源十郎夫婦は乗合船に乗りました・・・
ところが、沖に出ると急に海が荒れだし、船は今にも沈みそうです!
船頭がいいました、
『こういった時は、手持ちの宝を海へ投げ入れるほかありやせん!さすれば竜王様がお納めになり難を逃れる事が出来やす!命が惜しいなら金目の物を海へ投げ込んで下せぇ!』

源十郎は大切に持っていたお金を海へ投げ入れました・・・命には変えられません!
すると波風は静まり船は無事に博多の港へ着く事が出来ました・・・


ちょうど十二月晦日の事です・・・源十郎の妻がいいました、
『いつも通り、いい魚を買って正月を迎えましょう!』

しかし、お金はほとんど海へ投げ込んでしまったので、もう残り僅かです・・・ とてもそんな贅沢は出来ないと妻をたしなめますが、妻は聞き入れません・・・仕方なく源十郎は有り金はたいて魚を1匹買いました・・・

さっそく魚をさばこうと包丁で腹を開くと、なんと海へ投げ込んだお金がそっくり出てきたではありませんか!
源十郎は、これはきっと神様のお計らいに間違いない!・・・と、有難く頂く事にしました・・・

その後、このお金を元手にして商売を始めた所、何から何までうまく行き源十郎はまたまた大金持ちになります!
源十郎は生まれ変わったつもりで弥十郎と名を改めました・・・

その後、昔の罪は許される事になり弥十郎は再び鎌倉へ帰る事が出来ました・・・

以前に勝る大商人となりましたが、今度は驕らず、善い行いをしたので人々に感謝され幸せな一生を送りましたとさ。

って話です・・・貧乏人がいきなり大金を掴むとロクな事にならないってのは今も昔も同じ様ですね・・・
要は戒めの話です・・・昔話のパターンです・・・最後はハッピーエンドで良かったです・・・
驕る気持ちを抑えられないってのは良く分かりますけどね・・・自分も大根育てて一発当ててみようかな(笑)
かいわれ大根育てよう!
佐助稲荷神社の祠 隠れ稲荷
イイ感じに苔生した祠ですね・・・境内は狐だらけです・・・岩穴に隠れてる奴もいます・・・
陶製の霊狐は大(¥3000)、中(¥2000)、小(¥1500)で購入できます・・・一対セット価格です!
佐助稲荷神社鳥居 佐助稲荷神社祠群
拝殿の背部に階段があり本殿へと行けますが、へそ曲がりな自分は回り道して行くことにします・・・
おおぉ!・・・何か凄ぇなぁこの鳥居・・・ちょっと雰囲気出し過ぎなんじゃないの?・・・祠群もイイですねぇ・・・
ちなみに山道をズンズン進んで行けばハイキングコースと繋がっていますので源氏山へも大仏へも行く事が出来ます!
今回は行きませんけどね・・・
佐助稲荷神社本殿 佐助稲荷神社本殿2
本殿へ向かいましょう!・・・柵があり鳥居を潜る事は出来ませんが、出世したい人はココでお願いしましょう!
くれぐれも源十郎みたいにならない様に注意して下さいね!
小さな社ですが何か堂々としていて厳粛な気持ちにさせられます・・・ペコリペコリ、パンパン、ペコリ・・・
佐助稲荷神社階段 貼紙
階段を降ります・・・拝殿の後ろに何か貼ってあります・・・大鳥居(一基三十万円)・・・
こーゆーのって高いのか安いのか良く分かりませんよね・・・
30万円なら小さい霊狐400匹買って至る所に置きまくるのも楽しそうだな!・・・楽しんでやる事ではないですね(反省)
佐助稲荷神社参道7 結局誰にも遭わずゆっくりとお参りする事が出来ました!
隠里の稲荷の名に違わぬ雰囲気を醸し出す中々イイ物件だと思います・・・
テキトーに参ってテキトーに出世しましょう!(笑)

ほとんどの観光客は銭洗弁天とセットで巡るパターンが多いと思いますが、付近にはみのわ雲母など有名な甘味処もあるので、地元民が散歩がてらにちょろっとお参りってのもアリだと思います・・・
土日は店混んでて待ちが発生するので、ゆっくりしたいなら平日に行きましょう!・・・鎌倉は基本平日がいいです・・・
客が多いと喫茶店などでマスターとゆっくり話も出来ないですよ・・・土日は仕事しましょう!(笑)

佐助稲荷神社を出て佐助川沿いに谷戸道を下って行くと佐助一丁目の交差点に出ます・・・
交差点手前にある小道を左に入り奥へ進んで行くと福来鳥というお店があります・・・
ココは大根料理専門店でまさに源十郎伝説にピッタリ!・・・病気が治るかどうかは知りませんがヘルシーなのは確かです・・・大根料理専門ってココだけじゃないでしょうか?・・・お店HP貼って置きますね!
繁栄稲荷大明神 繁栄稲荷大明神の猫
場所は変わって材木座の光明寺境内にある繁栄稲荷大明神です・・・社にいた猫は朝日を浴びて凄い眩しそうにしていました・・・由緒があるので見てみましょう!
繁栄稲荷大明神由緒
もぉ夢に出て来るのは必然なんですね(笑)
これは佐助稲荷神社下社の由緒書きにあった寛元の頃(1243~1246)の話の事なんでしょうか?
あちらには良忠の事は書いてありませんでしたけど・・・

もともと光明寺は佐介谷にあった蓮華寺が寛元元年(1243)にココへ移動された物です・・・
蓮華寺の話は非常にややこしいので詳しくは警鐘50選①を参照してみて下さい!

当時良忠が佐介谷にいた事は事実・・・てー事は、寛元の頃の話はやはり良忠の事とみるべきでしょうか?
そう考えるとパズルのピースが繋がった気がして何だかスッキリします!

良忠は薬で大儲けはしなかった様ですね(笑)

おしまい
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