胡桃山の伝大江広元墓から戻り、明石橋のコンビニで次は何処へ行こうか思案していました・・・
東へ行くか西へ行くか・・・サクッと行けそうな所・・・そうだ梶原井戸でも見に行くか!
前回行った時は夏真っ盛り、草ボーボーで全貌がよく掴めなかったあの井戸・・・近くだし、一応見ときますか・・・
今回も微妙な季節だけど・・・
ここ十二所には梶原景時邸跡なる物があります・・・ありますといっても完全に場所が明らかになっている訳ではなく、この辺りに居館を構えていたと思われる・・・てな感じです・・・
梶原景時に関しては皆さんご存知の通り、鎌倉時代初期の超有名人なので特に説明はしません・・・
では行って見ましょー! |
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戻って来ました・・・真っ直ぐ行けば明王院です・・・
手前の標柱には五大堂明王院と彫られています・・・
ここで左の道を選択します緑の看板には鎌倉グリーンテニスクラブと書かれています・・・
ちなみに自分は中学の頃テニス部でした・・・
なんか知らないけどテニス部は大人気で、コート面数に対して部員が常に飽和状態・・・ |
朝練などはミスすると交代みたいなシステムでグルグル回しても2回打てればいい方・・・
順番待ちの部員でコートが囲まれて・・・ホントにヒドイ部活でした・・・ |
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左の道は奥まで細長い谷戸になっています・・・この辺一帯に梶原景時邸があったといわれてます・・・
どのあたりだったんでしょうか?・・・先程も述べた通りハッキリとは分かっていない様ですけど・・・
崖沿いにはやぐらも点在しています・・・非常に興味深いですね・・・道の右側には透かし彫りの門の家があります・・・
かっこいいなぁ・・・渋い!
しばらく歩くと左側が鎌倉グリーンテニスクラブの入り口になっています・・・
まさにその入り口看板後方に目的の物があります! |
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アリャリャ~・・・またもや草ボーボーやんか・・・
相変わらず水濁ってるなぁ・・・テニスボールが・・・
柵とかないし、これじゃぁ子供がハマって溺れるんじゃなかろうか・・・トラップとしか思えない・・・
本来なら四角形の水溜りが見えるはずなのだが、これでは仕方がない・・・今回も全貌は拝めず・・・次回は真冬にでも来てみるとしますか・・・ |
上総介広常を討った景時がココで刀を洗ったなんて話も聞きますが・・・真偽のほどは本人に聞いてみないと分からないですね・・・そもそも太刀洗水はどうなる(笑)
しかしコレ・・・そんな古い時代からあったモノなんでしょうか?・・・綺麗な四角形ってのが何かなぁ・・・
近世に石を切り出した跡に水が溜まっただけの様にも感じるが・・・識者の意見を聞いてみたいもんです・・・ |
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左側には大きめのやぐらがありますが、テニスクラブが物置として使っている様子・・・
中には入れない様になっています・・・
コートでは老人グループがテニスに興じていました・・・
目が合ったので取り敢えず軽く会釈をすると、あちらは訝しげにこちらを見ている・・・気まずいので退散・・・
しかし元気な老人達だなぁ・・・ |
怪我しない程度にしといてくださいね・・・自分は老後はゆるりと仏像など彫りたいなと考えております・・・
自分に老後ってあるんだろうか?・・・何となく早死にしそうな気がしますけどねぇ・・・まぁどーでもいいや(笑)
先程の谷戸をさらに奥まで行ってみます・・・すると右側に・・・
庭に巨大なクジラのオブジェがあり、独特な空気を醸し出している一軒家があります・・・クジラデカイなぁ! |
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ここは酔鯨館と言って、石丸雅通ってアーティストのアトリエ兼展示室なんだとか・・・
ホームページで内部の様子も公開されてました・・・
何というか・・・極彩色に包まれて・・・カオスな感じ・・・
インモラル感満載です・・・好きな人にはたまらない空間なんでしょうね・・・
SALON DE 鯨酔館 |
しかしこんな谷戸奥でバカデカイ鯨に遭遇するとは・・・ウチにはこんなの置くスペースないッス!
Googleの航空写真で見ると・・・結構ヒレ長いんだなぁ・・・ |
より大きな地図で 梶原井戸周辺 を表示 |
庭に2頭・・・もう1頭どこかにいます・・・やる事が無くて暇をもてあましている方は捜してみて下さい(笑)
ちなみにストリートビューじゃないと発見出来ませんよ!
この先谷戸道はロープが張られていて立入禁止っぽい・・・傍らには小さな祠があり奥は資材置き場の様でした・・・ |
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道を引き返し先程の五大堂明王院の石碑の所まで来ます・・・ここには庚申塔がいくつかあります・・・
その内の一つが・・・『何だコレ!超カワイイ!』
聞かザルですね・・・同じデザインのをどっかで見た様な気がするんですけど・・・
最近物忘れがヒドくなった気がします・・・もともと自分の脳内ハードディスクの容量は少な目ですが・・・
まぁその内何かの拍子に思い出すでしょう・・・
若宮大路沿いにおんめさまの通称で親しまれている大巧寺(だいぎょうじ)という檀家を持たない安産祈願寺があります、この寺はもともとは大行寺という真言系の寺院で十二所の梶原屋敷周辺にあったとの事です・・・
頼朝がこの寺で軍議を行った後、大勝利を収めた事から大巧寺と寺号を改めました・・・現在地に移ったのは鎌倉末期だったと思います・・・大巧寺の石碑の横部分に『源頼朝 軍評定旧址』とあるのはその名残ですね・・・
お寺の案内板には、
初め大行寺という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定(作戦会議)で大勝したので『大巧寺』に改めるようになったと伝えられています。・・・(以下省略)
と、ありました・・・いつも思うんですけど鎌倉の案内板は説明が足りないというか不親切というか、事前にちゃんとした知識を持たずに文面だけを鵜呑みにしてしまうと、変にすり込まれるケースも・・・
上の説明文も大行寺が十二所にあった事を知ってるか否かで解釈が違ってきますよね?
軍評定した場所まで変わってきちゃうよぉ・・・
書くスペースも限られてます、あまりゴチャゴチャした知識は・・・とか色々考えあっての事とは思いますが、一行足すだけで済む事じゃないですか?その一行で大巧寺の歴史が大幅に拡がりを見せると思うのですが・・・
簡素で分かりやすい説明=省略・・・ではやっぱダメだと思います・・・
外国人観光客向けに英語、中国語、韓国語での説明もありますが、そっちを削ってでも国民に分かりやすい説明を提供し、鎌倉に対する見識を深めて貰うべきではなかろうか?・・・って話を友人にしたら、
『寺とか別にど~でもいいからコンビニもっと増やしてよ。』と返された・・・
あっ・・・そ~いえばこいつブラジル人だった(笑)
明王院の東側一帯はその昔、大慈寺(だいじじ)があったとされています・・・3代将軍実朝の立願で君恩父徳に報謝する為に造った寺であるとの事・・・【吾妻鏡】では、
此の所、河あり山あり、水木共にその便を得、地形の勝絶、恐らくは仙室と謂ひつべきか
と絶賛しています!・・・建久5年(1217)実朝は仏舎利を求めて宋に使を派遣しています・・・
仏牙舎利記などによると宋の能仁寺から取り寄せた仏舎利を勝長寿院、後に大慈寺に納めたらしいです・・・
現在の円覚寺に移したのは9代執権北条貞時の様ですね(新編相模国風土記稿:円覚寺の項参照) |
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【新編相模国風土記稿】には丈六堂としての記載があり、少なくとも江戸末期まではお堂が残っていた様です・・・
その丈六堂に祀られていた仏頭は現在光触寺が所有しています・・・
大慈寺については【鎌倉廃寺事典】に詳しく書かれていますので是非一読される事をお勧めします!
明王院門前の小径を右へ進んで行くと大慈寺址の石碑が民家入り口横に建っています・・・ |
大慈寺ハ建暦二年源実朝ノ創建にカカリ新御堂ト號ス 建保二年七月二十七日 大供養ヲ行ハレ尼御薹政子及ヒ将軍實朝大ニ儀衛ヲ張リ之ニ臨メリ 後正嘉元年征夷大将軍宗尊親王ノ時
本堂 丈六堂 新阿彌陀堂 釋迦堂 三重ノ塔 鐘樓等悉ク修理ヲ加ヘラレ 荘厳ノ美殆ント古跡に軼キタリト東鑑ニ見ヘタリ 當時ノ盛観以テ想フヘシ 爾来星霜七百年 布金ノ地マタ一片ノ礎石ヲモ止メス
桑滄ノ変嘆スヘキ哉
昭和三年三月建之 鎌倉町青年團
珍しく内容が濃いなぁ・・・針磨橋とは大違いだ・・・締めの文もロマンを感じさせる・・・
『以来七百有余年経った今、往時を偲ばせる物は見つからない、世の移り変わりにはかくも驚かされる』
てな感じでしょうか・・・桑滄は唐の詩人劉希夷の引用ですね・・・鎌倉町青年団やるなぁ・・・
結城朝光を讒言した事により逆に鎌倉を追われるハメになった梶原景時は本拠一之宮まで退き、その後上洛の途中で討たれてしまいました・・・頼朝の死から僅か一年の事・・・
その後は北条氏によって有力御家人はことごとく淘汰されて行きました・・・もし景時が生きていたら、北条氏勢力拡大に対し讒言スキルを駆使して歯止めをかける事が出来たかも知れませんね・・・無理か?
一之宮にも梶原景時館址が存在します・・・
寒川神社にお参りするついでに寄って見てはいかがでしょうか?・・・滑り台がありますよ!(笑)
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おしまい |