問1 |
治承4年(1180)12月12日、源頼朝は大倉の新邸に移りましたが、上総介広常宅から新邸へ向かう道中の先頭は和田義盛が務めました・・・では最後尾は誰だったでしょう? |
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問2 |
文治元年(1185)、源頼朝は国ごとに守護、国衙・荘園ごとに地頭を置くように朝廷に申請する事を決めます・・・この時頼朝の代官として上洛した人物は? |
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問3 |
文治元年(1185)、鎌倉入りを拒まれた義経は頼朝へのとりなしを依頼する書状(腰越状)を出しますが、宛先人は誰? |
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問4 |
文治2年(1186)、源頼朝が鶴岡八幡宮参詣の折に西行と出会っていますが、頼朝の御所に招かれた西行が退出の際に贈られた物とは銀作りの何だったでしょう? |
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問5 |
文治4年(1188)、巌谷堂の僧が勝長寿院に詣でた帰路の途中で突然死しましたが、この僧とは誰の事? |
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問6 |
正治元年(1199)、有力御家人66人による梶原景時糾弾の訴状が提出されましたが、これは景時が誰に対する讒言を行ったからでしょうか? |
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問7 |
正治2年(1200)、北条政子が亀ヶ谷の地を栄西に寄付し寿福寺の造営が始められましたが、もともとここには源義朝の菩提を弔うためのお堂が建てられていました・・・このお堂を建てた人物は? |
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問8 |
元久2年(1205)、畠山重忠が幕府軍と戦い武蔵国二俣川で敗死していますが、事の発端は息子の重保と誰の口論だったでしょうか? |
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問9 |
建保6年(1218)、熊野参詣の為に鎌倉を出発し、京都で従三位に叙せられた出家人は? |
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問10 |
元仁元年(1224)、義時の後妻伊賀氏は兄の伊賀光宗らと共謀し、実子政村を執権に、娘婿を将軍に立てようと企てたとの説がありますが、娘婿とは誰の事? |
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問11 |
仁治元年(1240)、鎌倉と六浦津を結ぶ朝夷奈切通の道路工事が始まり執権北条泰時自らが現場を監臨しましたが、この工事の奉行に命じられたのは誰? |
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問12 |
寛元元年(1243)、深沢の大仏(まだ木造です)の供養が行われましたが、この時の導師は誰だったでしょうか? |
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問13 |
寛元2年(1244)、第4代将軍九条頼経の子頼嗣が元服しましたが、頼経から頼嗣への将軍譲位を伝える為に京都に派遣された人物は? |
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問14 |
建治3年(1277)、阿仏尼が幼い息子為相の代理で、裁判の為に鎌倉に下向しますが、播磨国細川荘の地頭職を巡り争っていた相手は誰ですか? |
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問15 |
元亨4年(1324)、六波羅探題への密告により倒幕計画(正中の変)が発覚しますが、この時後醍醐天皇が釈明の為に鎌倉に派遣した勅使は? |
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問16 |
正中2年(1325)、建長寺造営費用を捻出する為に元へ建長寺船が派遣されました・・・前々年にも元に船が派遣されていますが、積み荷と共に20世紀まで海底に沈む事になりました・・・こちらはドコの造営費用を捻出する為の派遣だったでしょう? |
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問17 |
建武2年(1335)、北条高時の遺児が信濃国で反乱(中先代の乱)を起こし足利軍を撃破して鎌倉へ入りましたが、遺児とは誰の事ですか? |
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問18 |
文和2年(1353)足利尊氏が足利基氏に鎌倉をまかせ京へ向かいますが、この時の関東執事は誰ですか? |
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問19 |
天文16年(1547)、鎌倉の検地を行った人物は? |
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問20 |
天正6年(1578)、上杉景虎が鶴岡八幡宮で戦勝祈願を行います・・・初めは武田晴信(信玄)の養子になり、後に上杉輝虎(謙信)の養子になったこの人物・・・本当の父親は誰でしょう? |
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問21 |
かつて『腰越の谷戸寺』と言われた寺を選べ! |
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問22 |
龍口寺門前で饅頭屋を営んでいた人物が妻の菩提を弔うために寄進した薬医門がある寺は? |
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問23 |
海中出現文殊菩薩のある寺は? |
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問24 |
日蓮の『田辺が池の雨乞い伝説』の地に建てられた寺は? |
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問25 |
開山は運誉光道、通称『首ぬけ木像』と呼ばれる大旦那木屋夫妻像のある寺は? |
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問26 |
『啼薬師』、『児護薬師』とも言われる61年毎に胎内仏が開帳される薬師如来がある寺は? |
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問27 |
木曽義仲の息子、木曽冠者義高の墓が裏山にある寺は? |
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問28 |
一ノ谷の合戦で生け捕りにされ鎌倉に連れてこられた平重衡に、頼朝が与えた阿弥陀如来像が本尊と伝わる寺は? |
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問29 |
『越の大徳』といわれた泰澄大師が十一面観音を祀ったのが始まりと伝わる寺は? |
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問30 |
貞宗寺は江戸幕府2代将軍徳川秀忠を産んだ西郷局(お愛の方)の生母(貞宗院)が建てたと伝わる寺で、開山は家康と貞宗院が生前帰依していた暁誉源栄です・・・さてこの人物ドコの寺の住職でしょう? |
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問31 |
『北条時宗公産湯の井』がある神社は? |
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問32 |
社の東側に足利直義屋敷跡がある神社は? |
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問33 |
藤沢村岡在上総介平良文が霊夢により天神を祀ったのが始まりとされているのは? |
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問34 |
山崎の北野神社は暦応年間(1338~1342)に京都の北野天満宮を勧請したものと伝わりますが、この勧請をした人物は? |
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問35 |
大庭景親が再建したと伝わり、『水上に祀れ』との神託で笛田川上流の萩郷に移され、その後現在地に遷座された神社は? |
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問36 |
かつて『小動の松』という風もないのに揺れる美しい松があり、佐々木盛綱が江ノ島参詣の折にこの松に魅了され、近江国の八王子宮を勧請したのが小動神社の始まりと伝わりますが、盛綱はこの松を何と言って称えたでしょう? |
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問37 |
毎年1月8日に行われる大注連祭りでは、毘沙門天の使いであるムカデを模した大注連が境内入り口のモチノキに掛けられた丸太につけられる神社は? |
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問38 |
頼朝の家臣千葉常胤の息子である相馬次郎師常が、自邸の守護神として勧請したことから通称『相馬天王』と呼ばれている神社は? |
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問39 |
頼朝の夢枕に立ち平氏打倒の挙兵を勧めた『隠れ里の稲荷』で有名な佐助稲荷神社ですが、隠れ里と呼ばれるこの地で祠を発見した頼朝が、社を建てる様に命じたのは誰でしょう? |
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問40 |
現在鎌倉宮には護良親王が幽閉されていた土牢や御首塚が残っていますが、当時は何という寺だったでしょうか? |
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問41 |
鎌倉市景観重要建築物等指定第12号の『鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)』は大正10年に諸戸清六氏の所有になり昭和55年に鎌倉市に寄贈された物ですが、明治41年に建てられた当初の所有者を漢字で答えよ! |
答え: |
問42 |
鎌倉の名が初めて登場した文献は何か?漢字で答えよ! |
答え: |
問43 |
通称『レンバイ』と呼ばれる鎌倉地場野菜の直売所の正式名称は何と言うか?漢字で答えよ! |
答え: |
問44 |
毎年10月上旬に鎌倉宮で行われる『薪能』を主催している団体を漢字で答えよ! |
答え: |
問45 |
鏑木清方の弟子で昭和23年(1948)に『鏡』で日本芸術院賞を受賞、翌年から鎌倉に移り住んだ日本画家を漢字で答えよ! |
答え: |
問46 |
女性として3人目の文化勲章受章者で、鎌倉市名誉市民でもあり、浄智寺境内奥に住し2000年に没した日本画家を漢字で答えよ! |
答え: |
問47 |
食器や料理を自ら手掛け、北鎌倉には星岡窯を築き、人間国宝に指定されるも辞退した美食陶芸家を漢字で答えよ! |
答え: |
問48 |
西念寺には鎌倉食用蛙養殖場跡がありますが、昭和2年(1927)にウシガエルのエサ用に、ある生物が20匹輸入されました。その後、養殖池から逃げ出した個体が全国に広がり現在に至っておりますが、ある生物とは何か?カタカナで答えよ! |
答え: |
問49 |
県立フラワーセンター職員が固有種として生成させる事に成功し、正式に新種として登録されている大船生まれの早咲きの桜を漢字で答えよ! |
答え: |
問50 |
覚園寺の山号は『鷲峰山』です、裏山も同様の名前ですが何と読むでしょう?平仮名で答えよ! |
答え: |